ここは禁煙です 1
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「さーて、ホームルーム始めるよ!」
千佳子先生のこの元気な声を聴くのは本当に久々な気がした。
昨日までの沈んだ先生はなんだったんだ、という感じでクラスメイトは教壇に立つ先生を狐につままれたかのように見ていた。やがてすぐに安心しきった雰囲気が広がって、みんな笑顔になった。やっぱり千佳子先生はこれじゃなきゃ。
「もう私は元気いっぱいだから、みんな覚悟しておいてね」
多分揺り戻しが激しいだろうなあ、と思いつつ、隣の牧穂さんと苦笑し合う。
「まだまだこんなんじゃ千佳子じゃありませんよ」
まるで自分のことのように胸を張る牧穂さん。きっと助けられてきたんだろうな、この笑顔に。
「ところで、大学時代の千佳子先生ってどんな感じで」
「あれ、気になるの」
「そりゃあ、まあ」
「ダメですよー、未広さんの好きな人は知ってるんですから」
「だれですかそれは」
「それは未広さんの口から言ってください」
なんだか牧穂さんも少しフランクになった気がする。吹っ切れたというか、気持ちを吐き出して楽になったというか。今日の朝食も一層気合が入っていて、レストランで見るようなオムレツだったし。
「でも一つだけ。これは高校生の頃からなんですけどね」
牧穂さんはそれが人生の真理だとも言えるような口調で、笑った。
「まるで太陽のようで、それでいて夏の崖の上に咲く向日葵のような、そんな笑顔はずっと変わりません」
「あー、未広ちゃんと牧穂ちゃん、なんか私の噂でもしてる?」
地獄耳ですか。
「なんでもないって」
「はい、何でもないですよ、千佳子先生!」
2人してそう答えると、一層千佳子先生の笑顔の花が咲いた。
放課後、改めて千佳子先生に牧穂さんと吸血鬼のことを詳らかに話すと、先生はない胸を叩いて全面協力すると言ってくれた。
「新聞部の顧問の血が騒ぐね」
「普段から騒いでください」
美菜ちゃんに鋭い突っ込みを入れられて少しシュンとしていたけど。
「最初から言ってくれればこんなに苦しむこともなかったのに、とは言えないよね」
「ごめんって」
「いいからいいから」
泣きそうな顔をしている牧穂さんの頭を撫でる千佳子先生。パワーバランスが思っていたよりも逆で、少し笑ってしまう。
「でもせめて吸血鬼の話だけはしてほしかったな、未広ちゃんたち」
「できるわけないって」
「今にも溶鉱炉の向こうに沈んでいきそうな千佳子先生に相談できるわけありません」
部員2人の突っ込みにまた少しシュンとしつつ『とにかくお任せあれ!』とやる気満々になった千佳子先生であった。
「昨日も言いましたけど、思い出せないことは思い出せないでいいんですよ」
下駄箱を出て、まるで外の曇りに呼応するような表情を見せていた牧穂さんに、僕は言った。また雪が降りそうだ。
「でも、令奈ちゃんが言っていたことが事実だったら、私」
けれども、牧穂さん的には事実を知りたいらしかった。それはそうだ。自分が誰かを吸血鬼にしてしまったと言われて、かつその記憶がないんだったら心はざわつく。
「きっと記憶操作を使われているんじゃないですか。というかその記憶操作の解除方法ってあるんですか」
「それがないんです」
怖いなあそれ。しかも自然と解けるまで待てって付け加えたけれど、それ本当に怖い。
「とはいえ、あまり長々とこんなこと続けてても牧穂さん的に良くないし」
「あら、私は未広さんさえよければこのまま一緒に暮らしててもいいんですよ」
「……僕の理性が耐えられなくなる自信がありません、って言ったら?」
「千佳子に訴えます」
いい味方をつけちゃったからに、って言ってもなんとなく牧穂さんだったら言わないでおいてくれると思う。だからって駄目だけど。
「だから、おとなしく最後まで私に護られちゃえばいいんですよ」
お任せあれ、と牧穂さんは胸を張る。
「それに、未広さんにはそんな度胸ないって知ってますから」
仮にも吸血鬼とはいえ女子からそう言われてしまっては情けない気がした。
「そんなに落ち込まないでくださいな。今日の夕飯はすき焼きでも食べて元気出しましょう」
疑問は残るとはいえ、ひとつ胸のつっかえが取れたのだから牧穂さん的には少しすっきりしたようだ。ちゃんと牛肉を買うんですよ。いやいや豚肉も美味しいです、とか話しながら校門まで歩いていくと、一人の男性が僕たちの前に立ちふさがった。
「春日井未広君」
背広姿の男性は、いきなり僕の名前を呼んだ。なんでみんな初対面の僕の名前を知ってるのか。
「私は幕張稲城だ」
いきなり自己紹介を始めた背広のおっさんは、内ポケットから四角い箱を取り出して、中から筒状のものを出した。それを口にくわえてライターで火をつけて、煙を吐き出した。その煙を眺めながら、僕は口にする。
「あの、ここは禁煙です」
どうして僕の名前を知っているのか、よりも先に、とりあえず学校の敷地のど真ん中で煙草を吹かしている大人を説教するところから始めるのだった。





