やっと名前で呼んでくれたね 2
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「電話に出るのに鍵はあけてくれないんですか」
「20代独身彼氏なし独り暮らしの家に上がり込むことがどういうことかわかってるのかな」
千佳子先生の家の前で、僕はスマホに向かって苦情を申し立てていた。
「いいからあけてください」
「嫌だ」
「寒いんですよ」
「凍えてしまえばいいんだよ」
心配してきて見に来たのにこれである。
大田急線で東京方面に3駅の各駅停車しか止まらない駅から徒歩5分の2階建てアパート。そこが千佳子先生の家である。なかなか造りは新しくて、いいところに住んでるなあと素直に思った。たどり着いたところで玄関先でこの状況である。オートロックは開けてくれたのに玄関の鍵は開けてくれない。そして玄関で立ち尽くした僕に、玄関の向こうにいるであろう千佳子先生から電話が来た、とそんな感じである。
「みんな心配してましたよ」
「……わかってるよそんなの」
「だからお見舞いに来たんです」
「わざわざ来ないでも放っておいてくれればいいのに」
「放っておけないから来てるんです。僕が原因かもしれないし」
「……未広ちゃんのせいじゃない」
「だったら」
僕の抗議の声に、千佳子先生は少し黙ってから、ポツリと訊いた。
「……牧穂ちゃん、連れてきたりしてないよね」
それを危惧するのは仕方がないというか、当然のことだろう。だから僕は安心してください、と前置きして言う。
「神に誓ってそれはそうです。何だったら襲わないことも神に誓いますから」
そう念押しすると、電話が切れた。そしてそれからまた5分くらいして、玄関のドアがゆっくりと開いた。現れたのは、思ったよりもやつれていなさそうな顔の千佳子先生だった。こんにちは、と挨拶を言う前に、千佳子先生はなぜか頬を染めて恥ずかしそうにこう言った。
「弱みは見せてもすっぴんは見せたくないんだよ」
「それで、未広ちゃんは何をしに来たの」
「事情聴取……しようと思ったけどいいです。料理つくりに来ました」
「……料理?」
「何がいいですか、お客様」
「うどん」
「かしこまりました」
狐につままれたような顔をして答えた千佳子先生をよそに、勝手に冷蔵庫を開けると、あらかたのものはそろっていた。
「だから独身女子の冷蔵庫を勝手に見ないでってば!」
「思ったより料理してそうで安心しました」
「何に安心してるんだよ、もう」
頬を膨らませながらベッドに座る千佳子先生。とりあえずうどんと卵と麺つゆとネギがあればいいか。そそくさと食材を取り出して、キッチンをお借りすることにした。
「あー、これめちゃくちゃ美味しい。未広ちゃん料理上手だね」
僕の作ったかきたまうどんを舌鼓を打ちながら、千佳子先生は上機嫌に僕を褒めた。
「一応、姉さんと交替でご飯は作ってましたから」
「広美ちゃん元気でやってるかなあ」
「時々連絡は来るしきっと大丈夫」
海外でもLINEはつながるんだと感心しつつ、変わりないよ、とどの口が言うかというほどに嘘をついておいた。あなたのお部屋を別の女性に貸してるよ、なんてどんなスタンプでも誤魔化しきれない。
「元気がないのは先生の方でしょ」
「うーん、私だって別に好きで元気ないわけじゃないんだから」
納得いかないような表情を見せた後、ポツリと千佳子先生はごちた。
「……正直、牧穂ちゃんが転校してきてから、全然身が入らなかったんだ」
すごく素直に感情を吐き出した。学校じゃないからか、弱っているからかはわからないけど。それきり言葉が途切れて、千佳子先生がうどんをすする音と壁時計が時を刻む音しか聞こえない。もう17時か。
ふと、窓際に目を移すと、写真が飾ってあるのが目に入った。それは、千佳子先生と牧穂さんが映っている写真だった。いや、正しくは牧穂さんじゃなくて、千佳子先生の親友さんだ。でも、その写真の向こうの彼女の笑顔は僕にとっては牧穂さんそのものだった。
そして、千佳子先生は僕たちに向ける笑顔よりも弾けていて、まるで、
『太陽のような笑顔をしていましたよ』
牧穂さんのその言葉がぴったり似合うようなそれだった。そういうことだったのか。
僕はその太陽のような笑顔を取り戻したいと思ったから、今日ここに来たんだ。でも、どうしたらいいんだろう。そう悩んでいる僕に、不意に千佳子先生が訪ねた。
「未広ちゃんは知ってるんでしょ?」
「うん」
「でも教えないで」
静かで、でも、すごく意志のこもっている短い言葉だった。
「担任は激務で体調を崩して、生徒がお見舞いに来てくれて元気になりました。それで全てこの話はおしまいだよ」
「先生はそれでいいの?」
「いいよ。だって、私の望むことは本来あってはいけないことなんだもん——いや、あってはいいんだけど、あるわけないことなんだもん」
「先生は、菜穂子さんに会いたいと思いますか?」
愚問を投げかける。千佳子先生はうどんのつゆを飲み干した後、当然のように口にした。
「会いたいに決まってるじゃない。そんなの」





