巫祝の一族 -2
スイが正式に次の長となることを披露目る日となった。
その日は神殿でまず禊が行われた。薄布をまとい、神殿の裏手に小さな滝が流れる湖がある。スイが常づね、日々の禊はここで行えとフツに言っている場所だ。
巫祝をはじめとするフツや神殿に属する者たちの祈りの中、薄布をまとったスイが水の中に入る。巫祝の祈りが終わるとスイは静かに水の中から立ち上がった。そのまま水から出てくると思いきや、何かに引き留められたかのように立ち止まる。しばし何かに耳をそばだてるような仕草をすると、フツのほうを見た。すると、フツもかすかに微笑み、スイが水の中に入る前に羽織っていた布の上に置いてあった刀を手に取り、スイに差し出した。
「何をしておる、フツ。禊の時ぞ。刀を渡すなど」
刀を差しだすフツ、をれを捧げ持つスイ。
双子の思わぬ行動に巫祝は面食らって声をあげた。
「巫祝さま、よいのです、今神がスイを言祝ぎ、刀を渡せと仰せになりました」
「いつもは神の声なぞ聴こえぬ私だが、今、初めて聴いた」
そういうと、刀を水にくぐらせ短く祈りを捧げた。
「フツを守るための刀を清めよ、とのお言葉でした」
スイは刀を肩に置くと、力強く水からあがった。その姿に、フツとは違う神々しさを見た人々は一斉に頭を垂れた。
- わしの巫祝としての務めはもう数年で終わるということか。
巫祝はほっと微笑んだ。
神事が終わると宴となる。長の館は解放され、酒や食べ物が一族の者に振る舞われた。
一段高い場所の中央に、華やかな装いをしたスイが座している。
それを囲むように、夏越とフツ、巫祝そして黒曜が座っていた。
夏越はしこたま酒を腹におさめたのか、真っ赤な顔で上機嫌である。巫祝は静かに微笑み、黒曜は上座に座ることが初めてなため腰が落ち着かず、そわそわしていた。フツは水のように座している。既に幼い頃のおどおどした態度はない。双子の母・烏梅は人波に入って酒を注いでいる。
スイは既に長の風格をもって、一座を見渡していた。フツが正式に巫祝の後継者と披露目されてから、一族の年若い者たちはスイがまとめてきた。すでに次世代の形ができつつある。
宴もたけなわ、という時に一部から騒がしさが立った。それは驚きにかわり
「・・・がいらした」
という声が次々にあがった。
皆の視線がそちらに集まる。
骨太の長身の姿が見えた。蘇我入鹿であった。夏越が慌てて迎えに走った。体格のよい入鹿に隠れるように、線の細い少年も見える。幼いころは漢王と呼ばれた高向王の遺児、大海人皇子である。
「すぐに立ち去るゆえ、そのままでよい。祝いの品を届けに来た」
「まさか入鹿さま自らとは。大海人皇子さままでお越しくださるとは」
「フツの巫祝後継指名の時も来たではないか。スイの時は来ぬ、というのも味気ない」
そう言って入鹿は太陽のように笑った。
「蘇我にとって巫祝の一族は大事だということだ。仏を奉じているとはいえ、神を蔑ろにする気はないぞ。それを皆に示すためにも、な」
庭に見事な栗毛の馬が引かれてきた。馬には螺鈿の細工を施した刀がぶら下がっている。スイの頬にさっと朱が走った。目はきらきら光り、馬と刀に視線は注がれている。
「どうだ、気に入ったか」
「はい」
「父は、そなたのことがことのほかお気に入りだ。本当は父が今日は来たがっていたのだがな」
入鹿は表情を引き締めると
「スイ、この一族をいずれ統べる者として、精進を怠るなよ」
「はい」
スイとともに、居合わせた者は深々と礼をした。
「さて、フツにも贈り物を持ってきた」
美しい螺鈿の箱が運ばれてきた。その中にはみごとなきらめきを放つ水晶の首飾りが入っていた。
「名前からすると贈り物は逆だな」
一同はまあ、確かに・・・とちょっと笑った。
布刀に珠、珠生に刀
「互いが互いの名の物を持ち、より繋がるということです。心よりありがたくいただきます」
フツが箱を捧げ持って言った。
「うん。そなたの聴く神の声は、この国をも左右する。正しく聴くようこれからも励んでくれ」
入鹿のその声には、スイに向けて放った厳しさはなかった。優しさのみである。
「はい」
それまで黙ってやりとりを聞いていた大海人皇子が口を開いた。
「そなたは、だれ?」
いきなり問われて黒曜は真っ赤になった。
黒曜は夏越の異母妹の子で、双子の従兄にあたる。スイの夫と決まる前は、目立たぬ存在であった。気弱であるが、それを覚られまいと常に威張っていた。今の今まで精一杯虚勢を張っていたのに、いきなり皇子に声をかけられ、頭の中が真っ白になってしまった。
「だれ?」
再び言われて
「だれとは、いかに皇子さまとはいえ失礼でしょう。私は次の長の黒曜です」
その答えに座の空気がざわついた。
と、スイの足がゆっくり黒曜の顎を蹴り上げた。黒曜はものすごい音をたてて、後ろにひっくり返った。
「なに、なにを・・・」
ぐいっと胸倉をつかんで起き上がらせると、スイは
「言葉は正しく使え。今日のこの宴は何のためと思っているのだ」
「は、はなせ」
「次の長は、私だ。その披露目の席だぞ。おまえは長が子を作るための種馬にすぎぬ」
再び後ろに突き飛ばすと
「それに、大海人皇子さまになんという口をきくのだ。大海人皇子さまはこの国を蘇えらせる方だぞ」
「私は気にしないから、そんなに人を傷つけるものじゃないよ」
幼さを残した大海人皇子がスイを止めた。
「それとも、スイは黒曜が嫌いなのか」
大海人皇子がきょとん、とした顔で言った。まだ十を少し出たばかりの子供の、あまりに素直な言葉に大人たちは苦笑した。
「好きも嫌いもありません」
スイは答えた。
「そうか。特に黒曜が好きだということはないのか。じゃあ、私の妃になれ」
大人たちは驚きのあまり言葉を失った。スイも呆気にとられながら
「な、なにを仰せです。皇子さまはこれからご身分にふさわしい方をお迎えにならなければ」
「うん。でも、スイが気に入ったから、妃になれ」
皆目を白黒させている。
その時大きな笑い声が起きた。入鹿である。
「いつまでも幼いと思っておりましたが、皇子も大きゅうなられたということですな。入鹿は感無量です」
芝居がかったふうに袖口で目を拭う。
「ふざけていると思っているのか」
「そうではごぜいません。巫祝一族の者からお側にお迎えになりたいのであれば、お好きな者をお召しください。ただ、スイはだめです」
「なぜ」
「スイはいずれ一族の長となるのです。それは生半可なことではできません。そして、それがスイの役目なのです。妃として皇子をお支えする、それはスイの役目ではありません」
少しの間のあと、
「わかった」
大海人皇子はあっさり引いた。入鹿はどう対処してよいかわからぬ、という雰囲気の一同に、これも祝儀の言葉だ、それほど皇子もこの一族を大事に思われているということだ、と言い置いて、大海人皇子とともに座を後にした。