巫祝の一族 -1
朝陽が稜線をなぞった。薄闇が一日の始まりへと変貌していく。禊で濡れたフツの髪を、陽の光が滑り落ちてゆく。
― 美しい。
スイは、自然と一体となって祈りを捧げるフツを見るたび、そう思う。
七歳を迎えたとき、フツは一族の同じ歳の子らとともに巫祝の前に並ばされた。巫祝は神に仕える者としてフツともうひとり女児を選んだ。そして十四歳の時にフツは次の巫祝に指名された。朝の祈りはその時から続けられている。
フツは夜明け前に起床し、神殿のそばを流れる川で体を清め祈りに入る。スイは警護を担う一族の者たちとともに、その祈りの時を守ってきた。最初は、長の子といえど幼いスイは警護の者たちから邪険にされていたが、スイはスイで一族を束ねられるだけの力があることを見せつけ、次の長として先日指名を受けた。
不思議と獣はフツの祈りの邪魔をしない。熊も狼も、ともに祈るかのようにフツのそばでおとなしくしていて、祈りが終わると森の中に消えていく。他の鳥獣も同じである。これには伯父の巫祝も驚き、それだけフツが神に近いことを喜んだ。
「神に近いということは、現世では生きにくいということだ。そなた達が双子として生まれてきたのは、一方が一方を現世で守るようにという意味であろう。スイ、そなたの使命は大きいぞ」
「もとよりわかっていたことです」
幼い頃より誰に言われずとも、フツを守るのが自分の役目であることはわかっていた。鳥獣がフツを襲うことはないが、人間はそうはいかない。
知らずに祈りの場に入ってきてしまう奴が時々いる。ともに額づき祈る者や静かに去る者たちは、スイは黙って見送った。だが、フツや一緒に神事を行っている巫女たちに邪心をおこす輩もいる。そのような奴らは離れた場所まで引きずっていき、スイの刃の下に倒れた。
幾度となく神殿の中で祈ることを勧めてきた。が、フツは民に見えぬ神殿の中で祈るよりも、鳥獣や清い心でともに祈るものたちと祈りを捧げたいのだと首を縦にふらなかった。凍りつくような寒さの時も禊の水をしたたらせながら、平然と祈る。その姿はどこまでも神々しい。
双子の片割れがこれほどまでに神に近いことが、そしてそれを自分が守っているということが、スイの誇りであった。
今朝の祈りが終わり、フツが水から上がってきた。スイは乾いた布を手に取ると、後ろに控えていた女たちに合図した。一緒に祈っていた巫女たちにそれぞれがついて水を拭く。スイもフツの体をごしごしと拭いたりこすったりした。体が冷たい。
乾いた衣類に袖を通すまで、柊がスイの代わりに護衛たちを統率し、周囲に目を配っている。
身支度を整えるとフツは馬に乗り、神殿へと向かう。輿を使ってくれとスイはこれまた幾度となく頼んだが、フツは笑って首を横に振る。
ゆっくり馬を進めていると、道の横でフツに祈りを捧げている人が幾人も出てくる。そういう人々のためにフツは我が身が見えるようにと輿には乗らない。
神殿に戻り朝餉をフツとスイとで摂っていると、珍しく父親の夏越が現れた。
「どうなさったのですか、こんなに早くに神殿にいらっしゃるなんて。蘇我大臣さまから神へのお伺いのご依頼でも?」
「いやいや。五日後のスイの披露目のことだ。披露目の前にスイも潔斎せんといかんから、その打ち合わせだ」
夏越はいつになく高揚しており、態度もそわそわしている。フツが正式に巫祝の後継となったときは普段と変わりなかったのに、スイが長の後継として正式に披露目される今回は落ち着きがない。
「私が潔斎に入っている間は、だれがフツを守るのですか」
「もちろん一族をあげて守る」
そうじゃなくてだな、親父、という表情をすると
「柊」
と、スイはそばに控える若者を呼んだ。
若者は静かに前に出た。
「私の代わりにお前がフツを守れ」
柊は無言でうなずくと、退いた。
「相変わらず柊はしゃべらんな。なぜそう無口に育ってしまったのか」
夏越はため息まじりに言った。
「無駄なことは言わぬ。それは柊の美点ですよ、父上」
やれやれと夏越は自分の頭を叩いた。
柊は森の中に捨てられていた子である。口減らしのために森に置き去りにされたのか、やせ細った子を夏越が連れ帰り、育てた。双子が生まれてからは、双子を守る者として育てた。剣も学問もすいすいと吸収したが、話せないのではないかと疑いたくなるほどしゃべらないし、人とも交わろうとしない。かと言って一族の中で孤立しているわけではないし、むしろ一種の重みをもって一族の中に在るので、夏越も放ってあった。フツのことはスイが守るであろうし、スイのことは柊が守るであろう。父親として安心できる構図に、まあ満足していた。
「スイ、五日後の披露目の宴で、正式に黒曜がそなたの夫となることを発表するぞ」
一瞬スイは嫌悪の光を目にたたえたが、すぐに夏越に承知しましたと応えた。
夏越が奥に行ってしまうと、フツは心配そうにスイを見た。
「なに」
「うん、大丈夫?」
「なにが」
「黒曜を夫とすること」
「私は一族の長になる。長には子を作る義務もある。黒曜は従兄だし、ちょうどいいだろう」
「そういういい方はあまり感心せぬ」
「だれでも構わぬ。産むのは私だ。子さえ産めば夫などいらぬ」
取りつく島もないという感じのスイに、フツも黙ってしまった。そんなふたりを、少し離れたところから柊は見守っていた。