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蒼嵐  作者: 榮樹
4/7

始まり -2

 ざわざわとした騒がしさに美弥(みや)は眠りを妨げられた。まわりは真っ暗だ。

 美弥は起き上がって外をのぞいた。月が高い。父や兄が出仕の準備をする時間ではない。

 客だろうか。

 のどの渇きを覚えて枕元をさぐった。

 - あ。

 美弥の小さな手が誤って水の入った甕をひっくり返してしまった。

 侍女を呼ぼうとしたが、やめた。来客であればこのような離れに人を呼ぶのは気がひける。

 仕方ない。眠ってしまえば渇きも忘れるだろう。

 美弥は再び寝床に横たわった。

 しかし、母屋の騒がしい空気に揺さぶられて寝付けない。もんもんとしているとそーっと扉が開いた。ぎょっとして美弥は薄目で侵入者を見た。

「あ、やっぱりお目を覚まされていましたか」

根子(ねこ)

 先ほど呼ぼうとしてやめた侍女が目の前にいる。ほっとして起き上がった。

刀自(とじ)さまが、媛さまの様子を見てくるようにとおっしゃったのですよ。媛さまは眠りが浅くていらっしゃるから、起きてしまわれて心細く思われているんじゃないかと」

「ありがとう、大丈夫よ。ただね、お水をこぼしてしまったの」

「あらまぁ」

 根子はささっと後始末をした。

「替りをお持ちしますね」

「ごめんなさい」

「はいはい」

「どなたかお見えなの」

善徳(ぜんとこ)さまですよ。入鹿さまがどうしても今晩中に話したいことがあるからと蝦夷さまをせっつかれて」

「こんな真夜中に?」

「ほんとですよ。私ごときに内容はわかりませんが、去年馬子さまがお亡くなりになってから、蝦夷さまも何かというと善徳さまを飛鳥寺からお呼びになりますよね。やはり兄君は頼りになるんですかね。にしても呼びすぎですよね」

 軽くあくびをしながら、水を取ってきますと根子は出て行った。

 根子を差し向けてくれた刀自さまに美弥は感謝した。本当に細やかに気にかけてくださる。

 美弥の生母は蘇我蝦夷の側室であったが、亡くなった。物心つくかつかぬかの美弥は蘇我の館に引き取られ、刀自さまと呼ばれる蝦夷の正妻に養育されてきた。父は無関心であったが、異母兄の入鹿は優しかったし、刀自さまも実子と違わぬ態度で接してくれる。厳しいときは厳しいが、子供が必要とする甘えも許してくれる。だが、美弥自身がどこか一歩引いていた。刀自さまを慕えば慕うほど、この人は実の母ではないのだという事実が寂しかった。その寂しさが母屋で暮らすことよりもこの離れで暮らすことを自ら選ばせた。刀自さまはどこか悲し気であったが、美弥の気持ちを尊重してくれている。刀自さまが美弥を大事にしてくれるから、館で働く者たちも美弥を蔑ろにはしない。

 廊下を歩く音が聞こえた。根子が水を持ってきてくれたのか。でも、聞きなれた足音とは違う。

 「美弥、起きているか」

 扉からそっと覗いたのは、善徳であった。

 背の高い、ひょろっとした老人。蝦夷の兄といっても十歳は上であるため、美弥の目にはかなり年老いて見えた。折々の行事の時など、年に数えるほどしか会わない。美弥は慌てて寝床から出て辞儀をした。

「よいよい。入鹿の話を聞く前に、美弥の顔もみておこうと思ってな。水が欲しかったんだと?」

 手に甕を持っている。

「も、申し訳ございません」

「何を謝る」

 善徳は笑って甕を置き、頭をなでてくれた。

「私が来て騒がしかったのだろう。起こしてしまったらしいな。子供は眠っている時間だ。さあ、水を飲んだらお眠り」

 美弥はこくこくうなずくと、水をぐぐっと飲みほした。

「伯父上、いつまでもいらっしゃると美弥が眠れませんよ。根子に任せて私たちは行きましょう」

 いつの間にやら入鹿も来ていて、善徳を促している。

「ああ、そうだな。よくお休み。たまには寺に遊びにおいで」

 優しく頬をなでられて、美弥は真っ赤になった。善徳と入鹿が出ていくと、根子も寝具を整え直すとお休みなさいませと言って、灯とともに消えた。

 母屋でのざわざわはまだ聞こえる。けれども大人たちに気にかけてもらえているという安心感が、美弥に眠気をもたらしていた。

 離れで美弥が眠りに落ちたころ、母屋では入鹿がらんらんとした眼で父・蝦夷と伯父・善徳を見据えていた。

「そなたの言い分もわかる」

 蝦夷は苦虫を噛み潰したような表情で言った。

「高向王の遺児を育て、次の大王にというのは悪くない考えだ。だが、大兄とするには幼すぎるだろう」

 大兄というのは、大王となる資格を有する皇族を指す。成年に達しており、周囲もうなずける人物であればいいが、海のものとも山のものともわからぬ幼児をごり押ししたら、朝廷で反発を買うだけだ。それに、現大王である推古帝は老齢で、いつ崩御するかわからない。政に参加できぬ幼児を次期大王になど、無理な話である。

「でも、ご神託があったのです」

「神託といっても、巫祝ではなく夏越(なごし)の倅が申したことであろう」

「そうですが、父上はあの場をご覧になっていないからそのように」

「そうとも」

 先ほどからの堂々巡りを終わらせるかのように、蝦夷は父というよりも大臣としての顔で入鹿を遮った。

「私もだが、朝廷のもの誰一人としてその場を見ておらん」

 入鹿はぐっと黙った。

 あの神々しい場面が忘れられない。漢王こそ、この国を正しく導き大きくする人間だ。神がそう教えてくださった。

「信じがたいといっても事実は事実です。神のご意思に背くことこそ不遜ではありませんか」

「蘇我は神ばかりではなく、仏をも奉じている一族ぞ」

「しかし、巫祝(ふしゅく)の神託は受けているではありませんか」

 父と子はむっと睨みあった。

「わが蘇我氏は巫祝から神託を受け、それに沿った行動をしておる」

 先ほどからじっと聞いていた善徳が口を開いた。我が意を得たりとばかりに入鹿がぱっと顔を上げた。

「だが、神託を受けるとき我々はどうしている?」

 聞かれて入鹿は詰まった。

「巫祝に佳き日を問い、潔斎し、神妙に受けている。軽々しく伝えられることはない」

「軽々しくなど」

 あの場にいたのが己れ一人であったことが悔しい。

「入鹿、そなたが嘘をついていると父もこの伯父も言うているのではないぞ。ただ、現状漢王を次期大王として朝廷で唱えるのは難しい。それはわかるであろう」

「・・・はい」

「蘇我は大王を食いかねんほどの力も財も持っておる。だからこそ、言動はより慎重にせねばならん。わかるな」

「はい」

 入鹿が少し落ち着いたのを見て取ると

「漢王は見所があるのか」

 そう聞きながら蝦夷は、三歳という年齢では判断はつかんと思っていた。

 山背王がいい例だ。幼少のころより秀才との呼び声高く、性格も優しい子であった。厩戸皇子を父に持ち、蘇我宗家の媛を生母に持つこの王を、だれもが期待に満ちた目で見ていたものだ。だが、結局は単なる秀才というだけであった。学はあってもそれを活用する頭はない。下の者に慈悲をかけるといっても、それは持てる者が持たざる者に施しているにすぎない。ただの温室育ちの理想主義者、とても政を任せられない。悪い状況であればそれを招いた因は何か、それを正すにはどのような政をすべきか、為政者としての視点を山背王は持っていなかった。

 たとえば漢王が今才の片鱗を見せていたとしても、それが本物か、きちんと育つのかだれもわからないのだ。これでは朝廷に集う皇族豪族たちを納得させることはできない。

 蘇我大臣家の権力は絶大なものであるが、大王を決めるという一大事を独断で決められる土壌はこの国にはない。朝廷という場において皇族豪族たちによる合議が必要であり、蘇我氏とてそれに抗うことはできない。

「正直、わかりません」

「なに」

「赤子のときから漢王のことは見ておりましたが、何か特別なお子だと思ったことはありませんでしたから」

「そうか」

「ただ、あの時のあの光景、確かに神のご意思であるとは確信しております」

 その託宣をしたのが巫祝ではなく、フツというのもひっかかる。入鹿は神の意思というが、フツという孺子にその力を今まで見たことがない。蘇我氏に仕える一族の者であるから見知ってはいるが、ごく普通の、いや、普通よりもかなり寡黙な子供だ。見込みがあるといえば、双子の妹の珠生(スイ)のほうが人の上に立つ資質を持っている。

「どうであろう、蝦夷殿。そのフツとやらを呼んでその時のことを聞いてみては」

 善徳が口を開いた。

「漢王がどうこうという前に、フツの巫祝としての力がどういうものかわからぬではこちらも判断がつきかねる」

「とんでもない」

 入鹿が怒った。

「神の声を聴くときは、我々から赴くのが常、呼び寄せるということは、はなから信じておらぬということ。それでは神は応えてくださいません」

 善徳と蝦夷は顔を見合わせた。

 もともと入鹿は信心深い。朝起きたらまず仏間に行き、祈りを捧げてから一日を始める。崇仏派の蘇我の中で生まれ育ち、神仏が身近であったため、入鹿にとっては息を吸うくらい当たり前のことなのである。そこは、政治の道具という意味合いも込めて仏教を受け入れた馬子・蝦夷と大きく違う。

「入鹿、我々が訪うのは、巫祝が神の声を告げるときだ。その時は潔斎し赴く。今回はフツから神の声を聴くのではない。フツという人物を見るのだ。こちらに呼び出すのが当然であろう」

 蝦夷は息子の熱を冷ますように言った。入鹿は赤くなり黙って頭を下げた。

 若さゆえに感情的になることはあっても、すぐに事の是非を判断できるのは入鹿の優れた点である。

 翌日、フツとその双子の妹・スイ、父で一族の長である夏越、そして巫祝が蘇我の館に呼ばれた。一族の頂点にあるのは神託を聴き伝える巫祝であるが、束ねているのは夏越である。

 蝦夷はじっとフツを見た。おとなしい、どうかすると妹の影に隠れようとする、なんの変哲もない子供だ。

 ― やはりスイのほうがいい。

 勝気な瞳は蝦夷の視線を恐れていないのがわかる。幼さゆえの怖いもの知らずといえばそれまでだが、長い間権力の座についてきた蝦夷の目は、スイの智の煌めきを見逃さなかった。

 さらに蝦夷は、入鹿を驚いた目で見た。敬意をもってフツを見ているではないか。あのような眼で入鹿が人を見たのは高向王以外にはいなかった。

 ― フツの神がかりを見たというのは、入鹿の気の迷いというわけではなさそうだな。

 蝦夷は今までとは違った目でフツを見た。

「入鹿が言うに、そこのフツが神の言葉を伝えたというのだ。どうだ、巫祝よ、フツには普段からそのようなところがあるのか」

 巫祝は少し困ったように笑った。

「はて、いままではありませんが、子供には神が降りやすいもの。フツは内の性質がとても清らかで、神の声を聴く素質は十分あると存じます」

「ほう、では次の巫祝となるはフツか」

「まだ七歳に達しておりませんから、なんとも申せません」

 夏越が答えた。

 一族の中で最も霊力の高い者が選ばれて巫祝となる。一族の子らは七歳になると集められ、霊力のある者は神事に仕える者として選別される。その中から巫祝が選ばれるのである。大体は長の系統から選ばれた。もともと長の系統には霊力の高い者が多い。だからこそ一族の長として皆を統べる者となったのであろう。今の巫祝も夏越の異母兄である。

「フツは神に近いのです」

 凛とした声が響いた。スイである。夏越が慌ててこれ、と制した。

「かまわぬ。続けよ」

 蝦夷は目を細めてスイを見た。

「フツのそばにいればわかります。フツは神に近いので、私もフツと一緒にいると神の気を感じるのです。私がフツと同じ日に生まれたのは」

 スイは誇らしげに顔をあげ

「フツを守るためです」

 そういうスイ自身、神々しい。

「フツ、そなたは入鹿に漢王が大王になると告げたか」

 馬子の声にフツはびっくりして、今にも泣きだしそうである。父に背をおされてやっと声を絞り出した。

「覚えておりません」

 蝦夷も善徳も肩透かしをくらった。

「あの、ただ夢の中で、光り輝く皇子さまにご挨拶申し上げたのは覚えております」

「なんと」

 蝦夷は唸った。それはまさしく神の依りましになったということだろう。

「夏越」

「はい」

「よい子を持ったな。巫祝、どうだ、フツはそなたの後継となりそうか」

 巫祝はしばしフツを視ていたが、表情を和らげると

「神の声を聴きませんとお答えできませんが、私よりも神に近い清らかさを感じます」

「ふたりの行く末が決まったら知らせよ。披露目の席に祝いの品を贈るぞ」

 スイを大いに気に入った蝦夷はしごく上機嫌である。スイを入鹿の妻に迎えたいとも思ったが、巫祝の一族を統べる長となるであろうことを考えると、それは無理だろう。

 その夜、再び入鹿、蝦夷、善徳の三人は話し合いの場を持った。

「フツが神気を持っているのはようわかった」

 蝦夷が口を開いた。

「漢王を蘇我で預かり、将来の大王としてお育てするとしよう」

「それがよろしいでしょう。どうだ、入鹿、そうであればご神託にも沿うこととなろう」

「はい」

 昨日から続く話が決着して、蝦夷はほっと息をはいた。

「では、漢王が大王となる道筋を作らねばなるまい。高向王は次期大王とみなされていただけで、実際即位なさったわけではないのだから、そのお子を大兄とするためにも考えねばな。兄上、その方向でよろしいでしょうな」

「よろしいかと思います」

 十歳も年上の、しかも兄であるのに、善徳は蝦夷が蘇我本宗家を継いでからは敬語を用いている。本来であれば蘇我の跡継ぎであったはずの善徳が、率先して蝦夷に従う形をとったために、馬子なきあとの継承は平穏に済んだ。蝦夷は善徳を敬愛することは以前からであったが、より信頼を寄せるようになっていた。

 入鹿から見て、なぜこの伯父が後継者から外れたのかわからない。

 新興宗教である仏教を認知させるためにも寺は必要であった。その初めの寺の、初めの寺司(てらつかさ)に蘇我本宗家の誰かが就くべきというのはわかる。その時蝦夷は十代半ばであったはず、善徳よりも適任であっただろう。それなのに嫡男である善徳が後継者の座を降り、寺司となった。

 善徳が蘇我本宗家を継いでいたら自分はどうなっていたのだろう、と入鹿は考えた。そうであれば善徳も妻を娶っていただろう。そこに男子があれば、今入鹿のいる場所はその男子のものとなっていたはずだ。そして、入鹿自身存在しなかったかもしれないのだ。

 皆に見送られて帰路に就こうとしていた善徳は、入鹿の表情に気づいた。

「どうした。まだ納得できぬことがあるのか」

「あ、いえ、違います。その、伯父上はどうして寺司になられたのか、と」

 一瞬の沈黙ののちに、善徳は豪快に笑った。

「なんだ、そんなことを、そんな探るような目で考えていたのか」

「探るなんて」

「教えてやろうか。どうして私が進んで蘇我の後継者を降りたか」

「進んで・・・」

 降りたんだ。

「自由になりたかったからさ。大臣になったとてなんの楽しみがある。国を憂い、大王を補佐し、朝廷をまとめ、一族の隅々まで目を光らせる。

 ― 冗談ではない」

「兄上」

「感謝している、蝦夷。そなたの出来がよかったから、私は安心して寺司となれた。その分大きな責務を負わせることになってしまったが。

 だから」

 善徳は静かに微笑み

「いついかなる時も私はあなたの味方ですよ、蝦夷殿」

 そういうと、善徳は帰っていった。

 質問した入鹿が呆けたように父を見ると、そっと涙をぬぐうところであった。






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