表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蒼嵐  作者: 榮樹
3/7

始まり -1

 天が雲に覆われている。

 - 今にも雨が降りそうだな。

 前方に広がる景色に、入鹿(いるか)は馬上からそう思った。

 冷たい空気が火照った体を突き抜けていく。焦っている気持ちを冷まそうとしているようだ。


 高向王(たかむくのおう) 危篤


 その一報が甘樫丘にある蘇我の館にもたらされたとき、入鹿は考える前に馬に飛び乗っていた。

 - 単なる風邪ではなかったのか。

 次々と障害物を飛び越えながら馬を走らせる。

 - 三日前に見舞いに行ったときは、さほどまで悪いという感じではなかったのに。

 高向王の宮に着くと、入鹿は馬から飛び降り、無礼を承知で先ぶれも請わずに宮の中を走りだした。それを咎める者はだれもいない。むしろ、入鹿が来たことに宮の中の空気に安堵感が生まれた。

 宮で一番の古株である五十麻呂(いそまろ)が、王の私室の前で手を振っている。

「早く早く、入鹿さま」

 いつも穏やかな宮のまとめ役が涙を浮かべている。

 ざわり―

 入鹿は背筋に水を垂らされた気分で、采女頭の石女(いわめ)|が入鹿の到来を告げる声とともに扉をくぐった。

 

 静寂


 中央奥寄りに寝台が置かれている。

 うなだれていた薬師が顔をあげた。

 枕元には正妃の宝女王(たからのじょおう)が呆然とした様子で座っている。その横にちょこんと寄り添っていた一粒種の漢王(あやのおう)が、入鹿を見た途端にこっと笑った。

 - 高向王のご容態は一体どうなのだ。

 心臓が止まりそうになりながら一歩前に出ると、漢王が握っていた母の手をすりぬけ、とことこと可愛らしく歩み寄ってくる。

「漢王」

 入鹿はいつものように抱き上げた。

「父上がね、お目目を開けないの」

「えっ」

 すうっと血の気が失せた。

「薬師」

「はい」

「王は」

「ほんの少し前にお隠れに」

 - ほんの少し、ほんの少し前か・・・

 なぜあと少し早く館を出られなかったのか。

 なぜあと少し早く知らせを受け取れなかったのか。

 なぜあと少し馬を急がせられなかったのか。

 なぜ、なぜ、なぜ・・・

 どさりと大きな音がした。それまで全く反応を示さなかった宝女王が床に倒れていた。漢王が火のついたように泣き出した。

 その声が合図であるかのように、五十麻呂と石女を先頭に舎人と采女が室内にどっと押し寄せてきた。

 入鹿は漢王を乳母に託し、采女たちに宝女王を私室へ運ばせ、薬師が頭をふり辞儀をするとそのまま宝女王の後についていくのを見送った。主の遺骸に泣き崩れる五十麻呂を叱咤し、蘇我の館へ事の次第を知らせるよう手配した。石女には涙にくれる采女たちをまとめるよう命じ、最後にすべての人を室内から退かせた。


 再びの静寂


 横たわる高向王は、ただ深い眠りにあるだけのようだ。

 風邪だと聞いていた。高向王は特別頑健ではないが、脆弱でもなかった。馬も弓も日頃からたしなみ、そこそこ鍛えてもいた。なのになぜ、こうもあっけなく逝ってしまったのか。

 ― よもや、山背王(やましろのおう)が毒でも盛ったのではあるまいな。

 入鹿は山背王をぱっと思い浮かべたが、すぐに頭から消した。

 山背王は、確かに父・厩戸皇子(うまやどのみこ)が亡くなったとき、生母の実家である蘇我大臣家が次の大王にと自分を推さず高向王を推したことに大きな不満を持っていたが、だからといって誰かを謀殺するような人物ではない。

 ― 父親のように尊敬されたくて、聖人面をするのが好きだからな。

 自分の考えを追い払うと、次に襲ってきたのは形容しがたい感情であった。

 我が師と仰いだ高向王は、もういないのだ。

 その事実が入鹿の口から獣のごとき咆哮を出させた。止まらぬ涙とともに、必死に口を両の手で押さえた。扉の外には采女が控えているはずだ。声を聞かれてはならない。ぼたぼたと涙が落ちる。天井をにらんでも、歯を食いしばっても止まらない。床に突っ伏し転げまわって、どうにか泣き声は漏れないようにした。

 - 呑みこめ、呑みこむんだ。人の上に立つ者が感情に支配されているところを晒してはならぬ。

 そうはいっても、入鹿もまだ少年といっていい年齢だ。完全に自制できるほど人間は練れていない。けれどもこれは高向王の教えだ。感情を読まれてはならない。そのような行動、態度を出してはならない。自分に一生懸命言い聞かせて、入鹿は己の激情をねじ伏せていた。

 - 自分の嘆きにかまけている場合ではない。

 己を失っている宝女王に代わって、大臣たる蘇我氏がやることは山のようにある。高向王は何といっても次期大王に位置付けられていた人物なのだから。

 そうだ、まず殯の準備をせねばならない。これは蘇我の館に使いを出したから、父の蝦夷(えみし)が万事処するだろう。何よりも重要なのが、高向王の代わりとなる皇子の人選だ。

「おらぬわ、そんな者」

 そもそもそのような人物がいれば、厩戸皇子が亡くなったとき、次の大王をだれにするかといった議論が朝廷でなされることはなかった。その時に戻ってしまったのだ。

 その時の国の権力者は、入鹿の祖父・蘇我馬子(そがのうまこ)であった。

 朝廷の財政部分を担っていた馬子は、交易を通して唐や韓三国の情勢に触れる機会があった。馬子には、自国が衰退していくのがみてとれた。その原因は、大王の力の無さにあると、馬子は思った。

 核となる存在の弱さが豪族たちに好き勝手を許し、各々自分の土地の所有権を主張している。そのため民は、国と豪族と二重に物を納めることになってしまっている。

 民の疲弊は国の疲弊だ。

 民の無い国は亡びるだけだ。

 強い国を造るためにも、大王に強い権力を持たせ、求心力をつける。その強さをもって豪族を黙らせ、民を潤さなければならない。

 これは一朝一夕でできることではない。また、やり遂げるには相当の覚悟がいる。

 しかし、馬子は厩戸皇子という相棒を得ることで、この改革に乗り出すことにした。

 厩戸皇子は父が用明帝(ようめいてい)、母がその大后・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女(ひめみこ)である。両親ともに蘇我系皇族という、馬子にしてみれば心強い皇子である。

 それ以上に、馬子の目指すところの政治を理解し、賛同を示したのは厩戸皇子ただ一人であった。国際感覚を持たぬ他の皇子では、まず馬子の考えを理解することができなかったのである。そして、厩戸皇子は仏教を深く信じていた。馬子の父・蘇我稲目(そがのいなめ)の代から仏教に帰依してきた蘇我氏にとって、実に願ってもない人物だったのである。

 しかし、用明帝の次に崇峻帝(すしゅんてい)、そのあとに大王となったのは、敏達帝(びたつてい)の大后であった額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)である。のちに言う推古帝(すいこてい)である。

 厩戸皇子は申し分のない皇子ではあるが、ひとつ難点があった。それは、仏教に傾倒しすぎていたことである。改革をせんとするまっただ中で、それは危険なことであった。仏教はあくまで政治の道具だと割り切ることが、厩戸皇子にはできなかった。

 慈悲の心のみでは政治は成り立たない。馬子はそこに不安を覚えた。その結果、馬子が大王にと選んだのは推古帝であった。

 初めての女帝に、馬子は巫女性を強調した。もともと大王は、神と対話する存在であった。馬子は推古帝を政治から切り離すことによって、より強く神格化を図り、多少の無理難題は押し通す形をとった。

 馬子は神道と仏教の融合を進めたのである。女帝の口から出される神の言葉によって国の指針は定められ、仏の慈悲によって人々は癒された。そうすることによって、時には大王をも凌駕する権力を有した神官の力を削ぐようにしたのである。

 政治と信心を分離できぬまま、厩戸皇子は大王となることなく病没する。

 その跡を継ぐのは自分だ、と名乗りをあげたのは、厩戸皇子の長子・山背王である。

 その生母は馬子の娘・刀自古郎女(とじこのいらつめ)であり、仏を尊ぶことにおいて誰にも負けぬほどの信心深さである。一見申し分のない後継者に見える。しかし、厩戸皇子の長子、後ろ盾は蘇我大臣(そがのおおおみ)家ということで、生まれた時からこの皇子は優遇されすぎた。自分には父と同じような実力があると、甚だしい勘違いを山背王はしたのである。

 厩戸皇子のような国際感覚は言うに及ばず、馬子の目指す国造りもずれて解釈していた。つまり、これまでのような皇族豪族による合議制の政治を否定し、仏教を基盤とした大王独裁の政治を、山背王は目標としたのである。

 厩戸皇子はその聡明さや篤実な性情から、上宮王家(じょうぐうおうけ)として大王家とは別の特別な尊敬を受けていた。父亡き後、山背王はその尊敬さえも滑り落ちてくると、これまた勘違いしたのである。上宮王家への一定の敬意は払われたが、自分こそは未来の大王であるという山背王の尊大な態度は、あっという間に人心を離れさせてしまった。

 いくら可愛い孫とはいえ、このような者に厩戸皇子の後継は無理だ。馬子は厩戸皇子に代わる人物を探した。そして、見つけたのである。それが、高向王であった。

 高向王の父は、厩戸皇子の異母弟・当麻皇子(たぎまのみこ)である。生母は蘇我氏が権勢をふるう前に人時代を築いた有力豪族・葛城氏の出である。血統的にはなんら遜色はない。なにより馬子が気に入ったのは、多方面における感覚のよさである。

 この国を、唐や韓三国との関係を下地に俯瞰することのできる国際感覚、馬子が目指す国のありようを理解できる政治感覚、そして厩戸皇子が最後までできなかった、仏教信仰と政治を切り離して考えられる柔軟さ。

 厩戸皇子の華やかさに圧されて、その弟皇子や子らにこれまでは注目がいかなかったが、大樹となる要素をもった種は、静かに育っていたのである。

 高向王は、突然政治の舞台に登場した。

 品定めをする皇族豪族たちの前にあって、決して圧されることなく泰然と在る高向王に、山背王に辟易していた推古帝はじめ朝廷の面々は愁眉を開いた。山背王への反発も手伝って、高向王は諸手を広げて朝廷に迎えられたのである。

 この高向王に一番影響を受けたのが入鹿であった。

 当時まだ十歳であった入鹿は、権力者蘇我本宗家嫡男という環境ゆえに、かなり捻くれてしまっていた。早熟ですでに秀才ともてはやされ、物心ついた時から祖父や父の膝に乗り、多くの皇族豪族の話を聞いてきた。朝廷に出仕する皇族豪族たちなのに、考えることは自分の財をいかに増やすか、朝廷での地位をいかに手にするか、そればかりである。だれもこの国を憂い、民を想い、海の向こうの国に思いを馳せることをしなかった。幼い入鹿は私利私欲に走る人々を見すぎてうんざりしていた。そのことが、どこか斜めからひとを見るようにさせていた。権勢のある家に生まれ育ちながら、入鹿は純粋な人間だったのである。

 幼いなりに、いずれは大臣となりこの国を動かすことの意義を考えていた。しかし、ともに考えてくれそうな人物がいなかった。己の欲のみに忠実な人々ばかりを相手にしなければならないのなら、伯父の善徳のもとで出家したほうがましだとも思っていたのだ。

 そこに高向王が現れた。

 幼い自分にも対等な態度で接し、自分の掲げる理想と目標を語ってくれる。歪みにゆがみかけていた入鹿を正しい方向へ矯め直してくれたのが、高向王であった。入鹿の生来の豪放磊落な質が嫌味なく表に出るようになったのも、高向王の教示のおかげである。

 馬子の時はまだ蘇我氏の地位は盤石ではなかった。蝦夷の代になって大王家をも凌駕する勢いが出てきた。それを継ぐ入鹿は、ただ蘇我という一氏族のみを富み栄えさせることを考えるのではなく、この国を富ませ、外つ国に脅かされることのない国づくりを目指さなければならない。入鹿は、それを、高向王を大王に戴きともに成し遂げるのだという希望に満ちていた。

 十代半ばという多感な時を高向王のおかげで充実して送ってこれたのである。それなのに、その存在が今、なくなった。

 最初はちょっとした疲れだったのだ、年末年始の宮中行事に疲れてしまっただけだと。

「少し休む」

 そう言っていたのに、あっという間に危篤の知らせがもたらされた。あまりの急さに、高向王を選んだ蘇我大臣家への恨みをはらさんと山背王が一服盛ったかと、入鹿は意地悪く考えたのである。

 ― うん、あいつはそんなことはしない。

 幼い頃は同じ蘇我の館に住み、兄弟同然で育ってきた従兄の山背王の性格を入鹿はよく知っている。聖人面したがる見栄っ張りも、そして根っこは実に弱い優しさに溢れていることも知っていた。

 自分はこれからどうすればいいのか。わけもわからぬうちに落とし穴に落とされた気分であった。

「王よ、王よ」

 高向王の枕元で、入鹿はただただ泣いた。

 深く深く、落とし穴の底にまだ着かない。

 それほどに入鹿の絶望は深かった。


 背中にそっと温かさを感じた。小さなぬくもりに入鹿は顔をあげ、後ろを見た。そこには心配そうな顔の漢王がいた。いつの間にまたここに戻ってきたのか。漢王はにっこり笑うと、入鹿の背中をさすった。

「いかがした。どこか痛むのか。薬師を呼んでまいろうか」

 たどたどしい口調で自分を心配してくれる。慰めてくれているのが三歳の幼児であり、しかもたった今父を亡くした子であることに、入鹿は恥じ入り現実に戻った。涙も引っ込んだ。

 ― なんと優しいお子だ。人を慰めることをこの歳でご存知なのか。

 入鹿は涙と鼻水を袖で拭くと、笑顔を作って漢王の方に体を回した。

「大丈夫です」

 いつもの入鹿に漢王もほっと笑った。

「おひとりですか。乳母はどうしました」

と、扉の向こうや窓の縁がいやに明るいことに気付いた。

 曇天に押しつぶされそうな暗さであったのに、明るい。が、陽光とはまた違った質のものである。入鹿は訝しく思い、漢王を背に隠した。

 明るさはどんどん増していく。

 どこかこの世のものではない様相の明るさは光となり、光は扉を突き抜け目を開けていられぬほどのものになった。

 音もなくゆっくりと扉が

開いた。

 光を放つ球体がすいっと入ってくる。

 禍々しさはない。

 なにか神々しい、その威に蹴倒されるような力がある。

 入鹿は漢王を固く抱きしめ、その光を凝視した。

 と、球体の中心から人型が浮き上がってきた。

 人型はさらに輪郭を示し、幼子が光の輪から出てきた。

 ― 布刀(フツ)ではないか。

 光を引き連れて立っている幼子は、蘇我氏に縁のある巫祝一族の長の子で、フツという少年である。だが、いつもおどおどと双子の妹の後ろに隠れているフツとはまるで別人だ。もともと目鼻立ちの整った双子だとは思っていたが、目の前のフツは神々しかった。

 気づけば漢王が入鹿の手から離れ、こちらもすっきりと立っている。

 あっけにとられて見ていると、漢王の前でフツは額づいた。

「この国の道標となる未来の大王に、ご挨拶申し上げます」

 漢王はそれに応えるように軽く頭を垂れた。

 それに満足したように、フツはそのまま光に包まれていなくなった。

 あとにはいつもの室がそこにあるだけだ。

 呆気にとられてこの様子を見ていた入鹿は、我に返った。同時に身内に熱いものが湧き始め、それが沸点を超えた。

 今のが啓示ではなくてなんだというのか。蘇我氏は仏を信奉しているとはいえ、いつも巫祝一族から神託を得ているではないか。フツの浄らかさに神がついたとて何ら不思議ではない。現在成年の大王候補を探す必要はないのだ。漢王を、見識供えた大王に育てていけばよい。

 暗い穴の中を落ち続けていたら、光の球体が穴ごと打ち砕いてくれた。入鹿はそんな気分であった。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ