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蒼嵐  作者: 榮樹
2/7

大笠の鬼 -2

 満足 か


 再び笠をかぶった男が、近江大王の枕元に訪れる。大海人皇子の得度騒動から三日ほどがたっていた。


 大海人皇子 は 去った

 これで お前の地位 は 安泰か


 鬼はせせら笑っている。血が浮いた目をぎらつかせ、血にぬめった唇を動かし、近江大王を見おろしている。

「お前はいつもそうだった。初めて会った時から私を見下していた。そんなに私は下等な人間だったのか」

 体のだるさが、恐怖心をにぶらせている。近江大王は鬼に、蘇我入鹿に、言葉を返した。

「お前の目には大海人皇子しか見えていなかった。それは仕方ないだろう。大海人は、お前が理想とする大王にするために育ててきた、いわばお前の作品だ。だからと言って、おまけのように私を大海人と常に比較したり、見下したりする必要はなかっただろう。私はお前のその目が大嫌いだったのだ」


 だから 私を殺したのか

 あんな だまし討ちで

 正面からではなく いきなり

 殺した


「私は大海人よりも正統な血統だ。父も母も大王だった。大海人が母を同じくする兄といっても、父の正統性は私の方が上だ」


 血統ね


 くくく、と鬼が嗤う。


 何が 「正しい」 のだ

 何をもって 「正統」と 言うのだ

 大王とは 国とは 考えたことが あ るの か


「いい加減にせよ、今更」

 からりと扉が開いた。額田女王が薬湯を持って立っていた。ちらりと大笠の男を見たが意に介さず、近江大王の上半身を起こすと薬湯を飲ませた。

「お寒くはありませんか。空気が澱んでおります。お寒くないのなら、今宵はお眠りになるまで庇をあげておきましょう。月が美しゅうございますよ」

 あげられた庇から、黄色い光が額田女王の手を滑って部屋の中に入ってきた。

「大海人皇子さまは都をお出になりました。中臣金さま、蘇我赤兄さま、蘇我果安さまがお見送りのため、ご一緒なさっています」

「重臣どもがぞろぞろと」

「仕方ありませんわ。吉野までの道中、いつ誰に襲われるかわかりませんもの。それに、お見送りの方がそうなるかもしれませんし」

「だれが襲うというのだ。ふん、その三人の中で大海人を襲うとすれば、中臣しかおらぬではないか。ほかの蘇我二人は盾か」

「さあ、私には政のことはわかりませんから」

「嘘をつけ。そなたほど頭のよい女ならわかっているだろう。で、大海人は本気で出家したのか」

「僧を呼び、正式に得度なさっておいででした」

「吉野にはだれも連れていかなかったのか」

「鸕野皇女さまがご一緒に」

「そなたも行きたいか」

「はい、と申し上げたら行かせて下さるのですか」

 行ってしまえ、他の男を想いながらこんな病人の世話をする妻などいらぬ、行け、と近江大王は言いたかった。けれども、額田女王をどうしても手放したくなかった。愛情、というよりも、近江大王が正常な状態を保つためには、額田女王の清冽な気が必要だった。

「冷たい空気が頭を冷やしてくれて、気持ちようございましょう。ぐっすりお休みなさいませ。お眠りになるまでここにおります」

 近江大王は、蘇我入鹿を見た。入鹿はにやにやしながら相変わらず立っている。額田女王はその隣りに当たり前のように立ち、あげた庇の間から見える月を眺めていた。

 近江大王は瞼を閉じ、眠りに落ちた。


 いつま で 寝ている のだ


 息苦しさに、近江大王は目を覚ました。すぐ近くに大笠の端が見える。これまでにないほどの近さに、蘇我入鹿はいた。


 大海人皇子が 待っている ぞ


 庇はおろされ、額田女王もいない。今、何刻なのか。


 起きろ

 私が 連れて行ってやる


「どこへ」


 大海人皇子 が 待っているところ だ


「どこで待っているというのだ。吉野か。いくらなんでもまだ着いていまい。それに、こんな体で吉野まで行けるか」


 吉野で はない

 山科 で 待っている


「山科?」

 と、外に大勢の人の気配がして、朝であることを告げた。扉が開けられ、庇があげられる。朝の新しい空気が入ってくる。

 顔を洗い、采女たちに全身を熱い濡れた布で拭ってもらうと、気分が晴れてきた。粥をいつもよりは多めに口にし、乾いた衣服に着替えると、いつになく爽やかであった。

「父上、よろしいですか」

 大友皇子が朝の挨拶に来た。毎日のことだ。本当に優しい子だ。これで力強さが加わっていれば、だれも次の大王として文句を言うまいに。

「大海人伯父上は、吉野に行かれました。昨夜宇治まで見送って、中臣たちが帰って参りました」

「宇治」

 山科と宇治は近い。では、先ほど入鹿が言っていたことは事実か。宇治まで見送らせておいて、大海人皇子は山科に留まっているのか。

「大海人は何か言っていなかったのか」

「はあ。父上のご快癒を祈念申し上げるとのみ」

 あいつがそんな殊勝な奴か。

 待っているのだ、私が行くのを。

「遠乗りに出る」

「何をおっしゃるのですか、そのようなお体で」

「今日は至極気分がよいのだ。少し体を動かしたい。寝てばかりではかえって体が固まって疲れるのだ」

「しかし。これ、薬師、なんとか申せ」

 薬師が何か言う前に、近江大王は阻んだ。

「誰がなんと言おうと、私は遠乗りに出る」

「では、私もご一緒します」

「無用だ。供は額田にしてもらう」

「何を馬鹿なことを。いざという時、だれが父上を守るのです」

「これは命令だ。よいから従え」

 ぐっと大友皇子は黙ってしまった。

 近江大王は身支度にかかった。不思議なことに、昨日までのだるさが嘘のようだ。病を発症する前の体に戻ったかのようであった。

「なるほど。大海人のところまで連れて行くというのは、こういうことか」

 いつものようにすぐそこに立っている入鹿を、近江大王は睨みつけた。


 ふふ ふふ

 さあ 仕上げに 行 こう


「大王、額田でございます」

 男と同じなりをした額田女王が現れた。凛とした存在が、男装によってより際立っている。

 美しい。

 自分が憧れた女性の姿がそこにある。額田女王を見ていると、自分がまともな人間に立ち返った気持ちになれる。

「少し遠くまで行くが、大丈夫か」

「馬は得意でございますから」

 ちらりと入鹿を見て

「こちらの方々もご一緒に?」

「こいつが私を連れて行きたいのだ。そのせいか、体が軽い。こいつの目的地まではなんの問題もなく行けよう。もう一人は私には見えんから、知らん」

「私もご一緒して構わないのですか。そういうことなら、こちらの方の許可がいりましょう」

 入鹿はにやにや嗤うだけである。

「だめだと言わぬのだから、よいのだろう。参るぞ」

 部屋の外に出ると、大王を止めようと大友皇子を始めとして群臣、舎人、采女が多数集まっている。それを一喝すると、額田女王を促し馬で出発した。もちろんその後を、数人の舎人たちが追いかけて行った。

 道中額田女王は何も聞かない。ただ遅れることなく近江大王のあとについてきている。

 久しぶりの馬に、近江大王は疲れよりも心地よさを感じていた。これがなんの憂いもなく、額田女王との遠乗りであったならどれほど楽しいことだろう。だが、そこここで、こちらを見おろしている大笠をかぶった入鹿が見える。生前の入鹿に、よくあの目で見下ろされていた。あの目は自分を委縮させる。

 そろそろ山科か、と思った瞬間、いきなり視界が開けた。木々をぬけて、腰のあたりまで高さのある草に覆われた場所に出たのである。

「あ」

 ずっと黙っていた額田女王が声をあげた。近江大王も声を出しそうになった。

 開けた視界のその先に、大笠を被った男が一人いた。

 入鹿ではない、生きた男だ。

 入鹿は青っぽい服だが、目の前の大笠の男は赤っぽい服を着ている。

「来たか、葛城」

 自分をそう呼ぶのは、この世でただ一人しかいない。

「大海人皇子」

 こんなところで待っていたのか。

 ふと額田女王を見ると、微動だにせず大海人皇子を見ている。何の感情もない。恋しさも、懐かしさも、他の男の妻に収まっていることの後ろめたさも、何もない。ただ、見つめている。

「なんだ、その格好は。僧の姿ではないな。それに、吉野に向かったはずだが」

「これから行く。用事を済ませてからな」

「どのような」

 言いながら、馬を降りた。

 少し離れたところにいる大海人皇子を、近江大王はしげしげと見た。

 髭が伸びている。僧衣ではなく、野人が着そうな粗末な衣服をまとっている。その下に見える鍛え抜かれた筋肉が寒さを寄せつけないのか、野原を吹く風を平然と受け流している。

 背には数本の矢があり、手には弓が握られていた。見た目だけはよく似た兄弟だと言われ続けてきたが、今でもお互い母親似の顔だ。

「葛城、お前は私の育ての親を、妻を殺した」

 大海人皇子が静かに口を開く。

「そして、私を政治の場から追い出した。それだけでは飽き足らず、額田を奪った」

 びくりと額田女王が馬上で反応した。

 近江大王も返した。

「入鹿はお前しか見ていなかった。入鹿がいなくならぬ限り、私という存在は抹殺されたままだった。自分を生かすために、入鹿を殺したのだ」

「私にはお前を殺す権利がある」

 そう言い放つと、大海人皇子は背から矢を抜き、弓につがえた。

「入鹿の、美弥の、蘇我とともにあの時運命を共にした者たちの、無念の思いを私は背負ってきた。お前を病などで死なせはせぬ」

 きりり、と弓が絞られた。

 死を目前に、近江大王はなぜか大笠に青い衣をまとった鬼、入鹿の姿を探していた。

 先ほどまであれほど付きまとっていたのに、なぜ、あいつは姿を見せない。

「葛城!」

 大海人皇子の声に射られて、近江大王の体は完全に硬直していた。

 





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