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蒼嵐  作者: 榮樹
1/7

大笠の鬼 -1

 「扶桑略記」に言う。


 六六二年七月二四日 斉明天皇崩御。

 葬儀の折、朝倉山に鬼有り。

 大笠をかぶり、葬儀の様子を臨み視おろす。

 ひとびとは皆之を目撃した。


     ***


 暗闇

 声が頭の中で響く。


 なぜ おまえが

 なぜ 私を殺した


 その鬼は、血で赤くなった眼をかっきと開き、問うてくる。


 なぜ


「私が正統な後継者だったからだ」

 近江大王は声をふりしぼって応えた。

 すっと大きな笠が鬼の顔を隠し、ぬっと手が出てきた。

 太い、鍛え上げた腕。

 見知ったその腕。


「私が正統な大王だ。大海人皇子ではない」

 近江大王は声というよりは息を吐きだしながら、力の限り叫んだ。


 腕が

 ぎゅっと目の前まで伸びてきた。


「父上、何かありましたか」

 勢いよく扉が開く音がその腕をはらいのけ、明るい陽射しが闇を裂いた。

 近江大王は床の中から声の方を見た。

 大友皇子が心配そうにこちらを見ている。その後ろには、大勢の采女たちも見えた。

 あたりを見渡してみても、腕も大笠も血眼に白い顔はない。声も聞こえない。

 近江大王は深く息を吐くと、全身の力をぬいた。

「ご気分がお悪いのですか。大きなうめき声がしたから、驚きました」

「いや、なんでもない」

 愛し子の、純粋に自分を心配する目を見て、近江大王は自分を取り戻した。

 大友皇子に助けられながら、床の上に身を起こす。

 だるい。

 病気を発症してもうどれくらいになるのか。

「早く大王を看ないか」

 大友皇子がそばに控えている薬師を叱った。

「ああ、いい。締め切ってあるから息苦しくなっただけだ」

「明るすぎるのはお疲れになるでしょう」

「暗すぎるのも疲れる」

 そう言うと、庇を上げさせた。

 陽射しが鬼を遠ざけるようで、ほっとする。

「大海人皇子を呼べ」

 ふと思いついたような近江大王の口調に、その場にいた者たちはとまどった顔をした。

「どうした。大海人皇子を呼べと言ったのだ」

「伯父上も近頃は体調がすぐれぬとおおせで」

 大友皇子がおずおずと告げる。

「朝廷に姿を見せておらぬのか」

 語気が鋭くなる。

「すぐに使いを出します」

 慌てて出ていく大友皇子を見送りながら、近江大王は鬼の恐怖からだんだん現実の心配事に心を戻していった。

 大友皇子は優しい。頭もいい。臣下にも好かれている。安定した世の中であるなら、実に優れた大王となるだろう。だが、今はまだ国は整っていない。次の大王には自分の異父兄である大海人皇子を推す声が根強い。


 もともと  大王には  大海人皇子が  なるはずだった  では  ないか


 ぬらぬらした唇が、明るい陽射しをも差し置いて目の前に現れた。大笠で口元しか見えない。

 近江大王は、ざっと鳥肌がたつのを覚えた。この明るい陽射しの下でまで、こいつは私を責めるのか。


 大海人皇子を 呼んで どうする のだ

 奪った大王の位 を 返す の か


「奪ってなどおらぬ。私は正統な大王だ」

「は?」

 薬湯を差し出そうとしていた薬師が驚いて、素っ頓狂な声を出した。

「さがれ。大海人が来たら知らせよ」

 機嫌の悪い大王の前から、皆消えた。

 大笠をつけた男が、陽炎のように正面にいる。嘲笑うようにただ、立っている。近江大王は脱力感を覚え、枕に頭をつけた。

「大王、額田でございます」

 清々とした声が外から響いた。

「うん」

 ほっとした。

 声と同じように、清々とした風を伴って額田女王が入ってきた。邪悪なものを洗い清めるような空気が通ったが、大笠の男に変わりはない。

 近江大王の視線を奇異に思った額田女王はそちらを見た。そして、ちょっと眉を上げたがそのまま大王のそばに来た。

「ご気分はいかがですか。薬湯は召し上がりましたか」

 手つかずの薬湯を見ると、有無を言わさず飲ませた。

「そなたには見えるのだろう」

「そこのお二人ですか」

 大王の口元を拭きながら、額田女王はこともなげに言った。

「二人?一人ではないのか」

「大王には一人しかお見えではないのですか」

 額田女王には大笠の男と、そこから一歩退いたところに立つもう一人が見える。大笠の男が火のような印象であるなら、もう一人はその火が必要以上に燃え広がらぬよう見守る水のようである。

「怖くはないのか」

「私に害をなすようには見えませんもの」

 近江大王は思わず噴き出した。

「私は怖い。さっきから怖くてたまらん。なるほど。いつ殺されるかと怯えていたわけか、私は」

「それは、大王がこの方にそうされるだけの理由がおありだと、自覚なさっているからでございましょう」

 近江大王はむっと口を真一文字に閉じた。

「二人見えると言ったな。もう一人も私に恨みを持っていそうか」

「大王は眼中にない、という感じでございます」

 おそらく大笠の男を案じて、彼の世からついてきたのだろう。だから、近江大王には見えないのだ。

「ああ、申し上げるのを忘れるところでした」

「なんだ」

「大海人皇子さまがお見えです」

 そう言うと、額田女王は薬湯の盆を手に出て行った。

 入れ違いに大海人皇子が入ってきた。気づけば大笠の男がいない。

 ― 大海人にはその姿、見られたくないわけか。

 思わずにやりとした。

「およびと伺い、参じました」

 静かな声が耳を打つ。昔からこういう声であったか。深く心地よい声。

「最近宮中に出てこぬと聞いたのでな」 

「申し訳ありません。少々体調を崩しておりまして」

 無駄なことを言わず静かに立つその姿は、細身にもかかわらず近江大王を圧迫していた。

「まあ、坐れ」

 立っていられると息苦しい。

 大海人皇子は言われた通りに腰かけた。

 押してもこない、引いてもいない。大樹のようにそこに深く根をおろして存在している。気圧されて近江大王は呼吸が荒くなった。

「どうされました。ご気分が」

「なんでもない」

 久しぶりに会うせいか、それとも病気のせいで自分の気がそれほど衰えているのか、大海人皇子がかつてないほどに大きく見える。

「母上の葬儀の折」

「え」

「お前も見ただろう、大笠をかぶった鬼を」

 大海人皇子は答えない。

「あの鬼の正体を、お前もわかっているのだろう」

「さあ」

「なぜわからぬふりをする。あれは、あの鬼は」

 あれは蘇我入鹿だ。そして、あれからずっと、自分につきまとっている。そして、あの鬼を満足させるには

「お前が私のあとに大王となれ」

「なんと」

 大海人皇子はさすがに表情を崩した。

「病気でお気が弱くなられたか。いきなり私に大王になれとは」

「そうしなければ」

 自分はあの大笠の男から、鬼から、入鹿から解放されない。

「葛城よ」

 大海人皇子の口調ががらりと変わった。まだ即位前の、中大兄皇子と呼ばれる前の名で呼ばれて、近江大王は一瞬だれのことかという顔をした。

「お前がそんな戯言を本気で言っていると、だれが思う。今更私に大王の位を譲る気なら、なぜ入鹿を殺したのだ。なぜ蘇我を滅亡させたのだ」

 先ほどまで自分を見おろしていた大笠の鬼、入鹿の姿が大海人皇子とだぶる。近江大王の呼吸は激しくなった。

「諾と言えば、大王の位を狙ったと謀反の罪をきせる気だろう。安心しろ。そんな言葉にはひっかからない。このまま出家をして吉野にでも行ってやる。大友に大王を譲るなら譲るといい。私の知ったことではない」

 そう言うと、大海人皇子は病室を出て行った。

 部屋を出ると、すぐそこに額田女王と十市皇女が控えていた。十市皇女は大海人皇子と額田女王の間の娘である。

 二人が並んでいる姿を見て、大海人皇子の胸に甘いものが湧き上がった。今も変わらず愛しいかつての妻。今は近江大王の妃となっている最愛の女。そして、その女との間にできた何ものにも代えがたい愛しい子。

 それを振り切るように大海人皇子は隣室に入り、いきなり自らの手で髪を切った。突然のことに采女から悲鳴が起きる中、大海人皇子は出家をするので僧を呼ぶように命じた。

 采女や居合わせた群臣が右往左往する中、額田女王はじっと佇んでいる。大海人皇子も、切った髪の毛を握り締めたまま、額田女王をじっと見つけ続けていた。

 




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