03 魅惑な声で
君は微笑んで、許す。
だから俺は己を許さない。
朝陽で目覚めると、きらきら煌めく海のような青い瞳が私を見つめていた。
また眠ってしまいそうな穏やかな眼差しだけれど、でも昨日よりも熱さがこもっているように感じる。なにより違うのは、昨日よりも柔らかい表情。
「おはよう、紅」
挨拶する声も、穏やかだった。
「おはよう、蓮。……大丈夫? 夜、魘されていたみたいだけど」
微笑んで挨拶を返して、蓮のきらきらした髪を撫でる。蓮は頷いて大丈夫だと答えた。
「私も大丈夫だよ……噛んだことは、気にしないでいいから」
眠気に負けてまた目を閉じるけど、艶やかな髪を撫でながら眠らないようにする。蓮の返事はなかった。
「……今日も学校を休むわ。金曜日だし……月曜日から登校する……」
眠気たっぷりの声で言っても、蓮は言葉を返さない。目を開いてみると、青い瞳は閉じられていた。
私も二度寝がしたくて、目を閉じる。
けれど少しして目を開いた。このまま寝過ごしたら、母がお越しに来て、見知らぬ男と添い寝しているところを見られたらまずい。
蓮を乗り越え、慌てて朝食を取りに向かう。
戻ると蓮は起きていて、ベッドの上を片付けてくれていた。椅子に腰を下ろして、一息つく。
「疲れ……とれてないの?」
「ううん。……ただ、次はどうしようかって考えてたの」
蓮に大したことないと話す。現場にいっても手掛かりを手掛かりを得られなかった。
「……焦らない方がいい。やれることはやった……自然に思い出すことを待てばいい」
ベッドに腰を下ろして、向き合った蓮がそんなことを言うから、少しだけ顔をしかめて笑ってしまう。
「蓮は焦った方がいいわ。私しか覚えていないのは不安でしょう?」
「……」
私なら不安になると想像したのだけれど、蓮はきょとんとしたように目を開く。的外れなことを言ってしまったのかな。
「……君のそばにいると、不安はない。君がいるから、俺は大丈夫だ」
穏やかな声で、蓮は強く言った。
囁くような静かな口調も、ぼんやりしているような穏やかな眼差しも、それが理由だったのかもしれないと納得する。
「なら……いいけど。そうね。何故私達が拉致されて、そしてヴァンパイアの貴方がいて、丸焼きにされたのか……。他に手掛かりもないから、思い出すことを待つしかないわね」
言いながら、私は首を傾げた。自然に思い出すことを待つ間、なにをしよう。
目の前には、記憶のないヴァンパイアさん。
「……吸血鬼の映画を観たら、過去を思い出すかもしれないわ。観る?」
半分ジョークで蓮に提案してみた。どんな反応をするのかと、見つめてみる。
またきょとんとした表情をした蓮は、ぱち、ぱち、と瞬いた。
「……紅と一緒なら、観る」
「もちろん、一緒に観るわ」
喜んで私はDVDを観る準備を始める。本棚にしまいこんだお気に入りの吸血鬼映画を引き抜いて、蓮に選んでもらうことにした。全部は観れないもの。
「大半は悪役の吸血鬼だけど……これはね、人気のヴァンパイアラブストーリーだよ。あ、これも。どれも純愛で素敵なの」
語ることが楽しくて、ついついヴァンパイアさん相手にはしゃぐ。
クラスメイトはあまり吸血鬼映画を観ない。日本で吸血鬼映画があまりヒットしないことが原因かも。海外の吸血鬼映画は、魅力的で素敵なのに。
「ああ、でも、ヴァンパイアの蓮からしたら、人間と吸血鬼の恋を観るのは複雑かな」
男の人に恋愛物を勧めても困るかもしれない。差し出したヴァンパイアラブストーリーのDVDを引っ込めようとしたけれど、蓮が手にしていて、指先が触れ合っていることに気付く。
いつの間にか、肩がくっていている。そんな距離で私と蓮は目を合わせた。
ちょうど手にしているのは、人間の少女と吸血鬼の少年の恋愛を描いたもの。意識してしまい、私は固まった。
同じかはわからない。蓮は私を真っ直ぐに見ている。熱を感じる眼差しを、それ以上直視できず私は目を背けた。恥ずかしがっていることを上手く隠そうと、他の映画を勧める。
「こっちは吸血鬼にされた主人公の半生を描いたもの。観たら自分が吸血鬼になった経緯を思い出せるかも……どうかな?」
今度は見つめ合わないように、差し出したDVDだけを見た。
するとその手に蓮の右手が重ねられたものだから、ドキッと心臓がはねる。どうか、蓮の耳に、その音が届いていませんように。
「紅が……一番好きなものを観よう」
そう言った蓮の瞳をまた見てしまった。太陽に熱く照らされた青い海。
自分の頬が熱くなったのを感じた。これは隠しきれない。
「一番、って言われると……こ、困るなぁ……どれかなぁ。どれも好きだけど」
手の震えを誤魔化すように、DVDをシャッフルするように探る。緊張で息を飲む。どうか、蓮がそれを指摘しませんように。
「ヴァンパイアハンターも好きなの。ヴァンパイアなのにハンターをする映画はどうかな?」
夢中で言ったあとに、ハッとする。
ヴァンパイアハンター。それは重要なキーワードに思えた。
「ヴァンパイアハンターはいるの?」
記憶はなくとも、知識がある蓮にその実在を問う。
ヴァンパイアが存在するのなら、その存在を狩るハンターがいるかもしれない。
「……いる」
蓮は頷いた。
「じゃあ……蓮に怪我を負わせたのは、ハンターじゃないの? 記憶をなくす前の蓮が、どんな経緯で私に噛み付いたかはわからないけど、ハンターは私を助けようと蓮に杭を刺したのかも。……あれ、でも……じゃあなんで火の中に置き去りにされたのかしら?」
蓮を杭で刺した人物は、きっとヴァンパイアの実在を知っている。だからこその杭。
映画で描かれたように、ヴァンパイアは悪者扱い。私を助けようとした可能性は高い。でもそうなると、置き去りが矛盾になる。
「蓮の記憶が取り戻せたら……」
きっと真相がわかるはず。
「……紅。自然に思い出すことに決めたはずだ」
しかし、本人は悠長なことを言う。
「……そうね。憶測で悩んでも仕方ないわね」
確かなことは、なにもわからない。憶測を膨らませてもなにもならないから、私は考えることを止めた。
「この怖いヴァンパイアハンターから観よう?」
恋愛物は終始ときめきが止まらなくなりそうだから、ホラーアクション物を推す。蓮は頷いてくれたので、手を引いて一階に降りた。
父は仕事で、母は常に出掛けては友人とお喋りを楽しむ。誰もいなくなったし、リビングの大型液晶テレビで観たい。雰囲気を作ろうとカーテンを締め切った薄暗い部屋で、ソファーに並んで観た。
暗闇から迫り来るモンスターらしい数多のヴァンパイアに、ビクリと震える。何度見てもハラハラするシーン。びくともしない蓮に、つい寄り添えば、手を握ってもらえた。
薄暗い中では、きっと頬が赤くなっているのは見えない。そう言い聞かせて、映画に集中した。
「さっきのラブストーリーは観ないの?」
ホラーアクション物を観終わると、蓮に問われたからギクリとしてしまう。
「あー……何巻もあるから、やめておきましょう」
「……そう」
長すぎると言い訳して避けた。2人きりでラブストーリーを観ることは、心臓が持たないわ。
次はヴァンパイアになった主人公の半生を描いた映画を観ることにした。
人間の血を欲して殺めていくことに苦しむ姿を観て、思わず蓮に話し掛けた。
「……なにか、思い出せそう?」
訊きづらいことだけれど、そっと問う。
「こんな風に……その、苦しんでいたこととか……」
隣に座る蓮は、多分私に目を向けないまま、答えた。
「……君に噛み付いた事実には、永久に苦しむことになるだろう……」
「蓮、それは気にしなくていいって」
「そうはいかないよ、紅」
唯一の記憶は、罪悪感の元でもあるみたいだ。
「命に限られている人間である君の、血を吸い取ったんだ。血液は命の源だ。君の命を奪ったんだ」
自分を責める声は鋭かった。
「そういう考えをするのなら……きっと生きていくことは、苦悩に満ちていたかもしれないね」
薄暗い中で手探りで探して、蓮の手を握り締める。その苦悩を思い出すのは、辛いことだろう。
「……はぁ」
蓮が私の肩に凭れたかと思えば、息をついた。そんな蓮を気遣って腕を摩る。
「ねぇ、蓮。記憶がなくとも、貴方を信じているわ。例え私の命を吸い尽くそうとしたとしても、貴方を信頼しているから」
記憶が人格を造り上げるなら、記憶がない人格が生来のもの。この蓮が生来の人格だと思えるから、信頼している。
それを伝えると、蓮の長い指が私の指の間に滑り込んで握り締めてきた。それは痛いくらいだった。
「蓮……?」
「……二度と、傷付けない。君を守る……紅、君の命を誰にも奪わせない」
私の左耳に囁いた言葉は、強い誓いのようで、儚い祈りのようにも聞こえた。
でも彼の声が心地良くって、安堵の息をつく。
「貴方の声が好きだわ……。優しく、静かな声……。なんだか、母のお腹の中にいる時から、聴いていたように懐かしく感じる。子守唄のように聞き慣れているように感じる」
「……僕も君の声が好きだ。優しい朝陽のように明るい声。僕を照らしてくれているように、感じる」
優しい声で言うから、目を閉じた私は眠ってしまいそうになる。
「守ってくれると……信じているわ、蓮」
映画が終わるまで、握った手は離さなかった。
次もアクション映画を選んだ。
作った昼食を頬張りながら、ヴァンパイアと戦うハンターの迫力あるアクションに魅入った。
「……そう言えば、蓮。お腹は空いてないの? あー、喉は渇いてないの?」
私の部屋に泊めてから、蓮がものを口にしたところは見ていない。蓮は血液しか求めない。血液は飲んだだろうかと訊いてみた。
「まだ大丈夫」
蓮は短く答える。飲んでいないけれど、まだ飲まなくて平気という意味?
首を傾げても、蓮は青い瞳で風を切るような激しいアクションを、観察するように見ていた。フレンチトーストを食べながら、私も見る。
「学んでみようかな」
「……?」
「護身術。だって拉致されたんだよ? 蓮が守ってくれるなら安心だけど、身を守る術を覚えておきたいわ」
「……」
俊敏で力持ちの蓮の守りなら、百人力だ。でも蓮が離れる時もある。護身術の一つや二つ、覚えたいと思うのは自然だ。
考え込むように、蓮は何も言わない。ネットで検索すれば、やり方が書いてあるかも。フレンチトーストを口に詰め込んで、携帯電話で検索する。
「あー、ほらやっぱりあった。見て見て、逃げる隙を作る方法が書いてあるよ」
「……ああ」
蓮に見せると、納得したように頷いた。今、護身術がなにかわかったみたい。
ちょうど、再生した映画で仲間が人質にとられるシーンになった。後ろから首にナイフを突き付けられ、仲間の命を引き換えに動きを止めろと要求されている。
「ああいう場合は頭突き……いえ、衝撃で喉を切られそうね」
「ナイフを持つ手を掴んで、後ろに頭突きをするか足を踏み潰すか……」
「ああ、そうね。それがいい」
淡々と意見を言う蓮と、そんな感じでアクションと護身術について話ながら観た。
映画を観終わったあと、実際にやってみたいと頼んで、蓮に敵役を。ソファーの前に立ち、蓮に後ろから両腕で押さえ付けてもらう。
「……あー、これだと映画みたいに上手くいかなさそう」
私の二の腕の上に蓮の両腕があるから、私の腕を動かせない。蓮がぎゅっと締め付けるから、なおさら。まさに動きを封じられている。
蓮の呼吸が首に吹きかかった。まるで私の香りを嗅いでいるよう。首筋に視線を感じた。熱い眼差しが露出した肌を撫でるよう。うっとりしてしまう感覚。
蓮はこの趣旨を理解しているのだろうか。忘れているかもしれない。
深呼吸をして、腕から逃げようとしたけど、やっぱり無理だ。
「頭を狙うか……足を狙うか……」
趣旨を覚えていたのか、私の耳に蓮は囁いた。まるで誘惑するような甘い声。
「貴方には、効くとは、思えない……」
「……試してみて」
その声のせいで、腕の中から逃げたくなくなる。
このまま包まれていたいという気持ちと戦い、頭突きをしろと自分に命令した。
綺麗な顔に一撃を食らわせる、のではなく、ただ後ろに頭を振る。そう考えて思いっきり頭を振った。
途端に、全体重が後ろに移動してしまう。蓮が踏みとどまらなかったせいだ。一緒にソファーに倒れた。
「もう! 蓮ったら!」
私は吹き出して笑いながら起き上がる。
「ちゃんとやってよ!」
ぺしっと胸を叩けば、蓮も起き上がった。
「わかった。じゃあ、突いてみて」
「え?」
「顎でも、鼻でも。僕を怯ませて」
掌で押し上げて相手を怯ませる方法。それを試せと言うから、困る。面と向かうと、蓮の顔に一撃を与えることは躊躇ってしまう。
試しにそっと掌を、蓮の顎に当てる。
「本気で、突いて」
蓮は私の手を退かして、突くように言う。
「……出来ないわ」
「敵だと思って」
「蓮は敵じゃないもの」
「……」
練習で本気の突きは出来ない。蓮相手にも。
蓮は俯く。かと思えば、私の肩を掴んで押し倒してきた。
「今、僕は敵役だ」
青いだった瞳が、金色に色付いて、私を見下ろした。
「さぁ……」
彼の髪が私の額に降りかかる。今更だけど、彼の髪はプラチナゴールドと呼ばれるものだと思い出す。金を帯びる白いブロンド。
「隙を作って、逃げるんだ」
また甘い声をその唇から紡ぎ出す蓮は、逃がす気がないように思える。
「どうした?」
唇は私の耳に添えられるように近付いた。緊張した私の息は、彼の首にかかる。
「……そう言えば、昨日、あの男にこうやって迫られていたな」
「えっ、あっ……刑事のこと?」
見ていたんだ。
香水の匂いを確認するついでにアピールしてきた結崎刑事と、似た状況。
「また迫られた時……どうやって抵抗する?」
また結崎刑事に迫られた時、顎を突き上げろと?
「刑事相手にしないし、もうあんな風に迫られたりしないわ」
「男だ」
蓮が私と頬を重ねた。
「男相手だ……。抵抗、しないの?」
誘惑するような甘い声に、堪えきれず目を瞑る。蓮に抵抗したいと思えない。
ヴァンパイア映画ではよく人間を魅了するヴァンパイアが描かれる。私も蓮の魅力の虜になったのだろうか。
じゃあ、蓮の方は? この行動の意味は? 熱い眼差しの理由は?
気持ちは十分、いや十二分のように感じるのに、なにかが決定的に足りない気がした。
「……紅」
囁く唇が、私の唇に近付いたのがわかって、身体を強張らせる。
そこで音を耳にした。
ドアの鍵が開けられる音だ。母が帰ってきたんだ。
私も蓮もギョッとした。慌てて隠れるように蓮を押す。すると蓮は、一瞬で消えた。
解放されたことと、母に異性に押し倒されているところを目撃されなかったことに、胸を撫で下ろす。
DVDを片付けながら、私は何が足りないのかを考えた。
経験? 私の恋愛経験の足りなさ。
時間? 私と蓮は、出会ってまだ一週間も経っていない。
言葉? 気持ちを言葉にすればいいのだろうか。
記憶? それさえあれば、気持ちを伝える決意が出来るだろうか。
†◆†
その夜、また夢を見た。
青い瞳の彼が優しい微笑みを浮かべている。
「全ての記憶は、魂に刻まれている。貴方の声がゆっくりと記憶の欠片を導いて、完成させていく。どうか、何度でも、貴方のその声で、語ってほしい」
そんな彼に向けた私の声は、とても幼かった。
「約束するよ、アネモア」
リディアではない、他の名で呼ばれる。でも確かに、それも私の名に思えた。
20150113