01 記憶のない生存者と吸血鬼
安達紅は、なんでもそつなくこなすいい生徒だと自負している。
まるで知ってるかのように、人生は簡単だと思えた。
いい子になることは簡単だ。
高校の勉強なんて教科書を読んで理解し、黒板に書かれた文字をノートに写すだけ。そうやって学べばのちに苦労することないと、大人に言われる前から理解していた。
どんな種目の運動が出来ても、部活に情熱が抱けなかったから、各部から手強い対戦相手として頼まれて、試合を楽しんだ。
淡々とこなすことが、人生楽な方法。
でも、退屈だった。
学校でたくさんの友人を作って過ごしても、退屈は拭えない。
笑いあっても、心の中は冷えきってしまっている。 だから私はいい子をこなしながら、楽しみを探していた。ずっと満たせるなにかを探していた。
必ず――――…見付かる気がしていた。
†◆†
バチバチと弾く音を耳にして、目を開く。赤い炎が眩しい。明かりのなかった部屋に、突然光が差し込んだみたいに目が痛い。
ぬるいコンクリートの床を、揺れる炎が這っている。火の粉はマグマの滴のような色を纏い、天井を包む暗闇を焦がす。
今更、煙臭いことに気付いた。カラカラとした暑さのそこは息苦しくって、ゲホッと咳き込む。それで首筋に痛みが走る。痛む場所を押さえればヌルッとした。血が出てるみたいだ。
押さえながら起き上がって、自分が置かれてる立場を把握しようとした。
炎の揺らめく明かりで見えにくいが、地下のように見えるコンクリートの部屋の中。棚らしきものがいくつか見えるけれど、既に火に包まれている。火事が起っていた。
バチバチと灰にしようとする音を立てながら揺れる炎が、私の意識を朦朧とさせようとしているみたいに思える。
それで。
ここはどこで、私は何故いるのだろうか。
自分がここにいる理由がすぐに思い出せなかった私は、自分の命を守るためにこの火事から脱出をすることにした。
立ち上がろうとして、そこで少し止まる。隣には、誰かが俯せで倒れていた。
男の人だ。それも若い。多分、私より少し上くらいの二十代。
床に置いた手には、彼の呼吸を感じた。気絶しているだけで生きているようだ。
私は運び出そうと彼に触れた。背中に当てた手に、またヌルッとした感触を味わう。私の首の怪我より、酷い出血をしているみたい。早く脱出して救急車を呼ばないと……。
制服のスカーフを外して、煙を吸い込まないように鼻と口を覆い、彼を背負うように引きずって出口に向かった。幸いにも出口には火が回っていないし、分かりやすく部屋には階段が一つしかなかったから迷わずに済んだ。息苦しさと彼の重さに耐えながら、階段を上がれば、開いたままのドアから這い出た。
冷たく感じる煙のない酸素を吸い込んで、数メートル歩いたところで座り込む。地下を出てすぐに道路だった。
私も彼も、朝陽に顔をしかめる。どうやら意識が戻ったらしい。
「ねぇ……」
背中を怪我しているようだから、俯せに寝かせて顔を覗いた。
汚れがついて黒ずんでいるけれど、クリーム色の髪色。色白の肌で、西洋の顔立ちはとても整っていることはわかった。
そんな彼に見とれている場合ではないので、頬に手を当てて呼びかける。怪我の具合を確認した方がいいかな。俯せは息しずらいだろうか。対処法がわからなかったから困る。
少し迷っていれば、呼び掛けに反応をした彼が目を開いた。
思わず、見惚れた。
彼の瞳は、澄んだ青。例えるならそう。理想的な青い青い海の色だ。太陽に照らされた海と同じで、朝陽に照らされた青い瞳は煌めいていた。
「やっと……やっと……見付けた…――――」
手を伸ばして、彼は私の頬に触れる。その箇所から、熱が広がっていく。痺れていくようだった。
眼差しには、好意がある。
今、会ったばかりなのに、彼は私が好きなのだと、その眼差しを見て理解した。
「リディア……」
優しい声音の低い声の彼が口にした名前は、私のものではない。私の名前は、紅だ。
でも私自身を呼んだ気がした。とても――――懐かしく感じた。
その懐かしさは、溢れてくる。青い瞳と見つめ合いながら、この懐かしさが込み上がる理由を考えた。
煙を見て誰かが通報してくれたらしい。近付いてくる救急車と消防車のサイレンが聞こえて、顔を上げる。
同時に微かだったけれど、助けを求める声を耳にした。地下にまだ誰かいるんだ。
「行ってはだめだっ」
戻ろうとしたら、手首を掴まれて止められた。私より酷い怪我のわりには、とても強い力。少し痛く感じた。
「大丈夫、貴方はここにいて」
「行くな、リディアっ……頼むっ」
「すぐ戻るわ」
けれども息も途切れ途切れの彼の力はすぐに緩む。だから彼の手を振り払って、地下へと戻った。
二人の男女が炎の中で迷っていた。行く手を炎が塞いでいて、階段までいけないようだ。
私は炎を飛び込んで二人の元に降りた。小柄の女の人の方は、足から血を流している。男の人は長身でも痩せ細っていて、とてもじゃないが女の人を抱えていけそうにない。
「飛び越えて! 階段を上がれば外だから!」
男の人を先に行かせた。
私は小柄な女の人を背負う。お世辞でも軽いとは言えないけれど、無駄口を叩いては煙を吸ってしまう。黙って火の上を歩いた。
悲鳴を上げたくなる熱を我慢して、階段に辿り着いて彼女を下ろす。そして一緒に階段を上がった。
もう救急車と消防車が目の前に着いていた。隊員が駆け寄る。なんて声をかけられたかは覚えていない。とにかく私は今のところ生存者は4人と答えた。
「もう1人は?」と問われて、私は青い瞳の彼の姿を探す。
先程助けた男女は先に手当てをされて、救急車に乗せられていた。
でもあのクリーム色の髪の男は、救急車の前にはいない。駆け巡る消防車に離れるよう背中を押されながら、捜したが見付からなかった。
咳き込めば「煙を吸いましたか?」とそばにつく救急隊員が問う。
自分が把握している限りの情報を、話しながらマスクをつけられて搬送させられた。
何故あそこにいたかは、覚えていないからわからない。火事の原因も、目覚めたら起きていたので勿論わからない。
救急車で搬送されるのは初めてで、落ち着けなかった私はぺちゃくちゃと話した。
私は首に刺傷、足に火傷を負ったがどちらも軽傷で済んだ。
首の怪我は、まるで吸血鬼に噛まれたみたいに2つの穴が並んでいたらしい。
同じく搬送された男女もともに軽傷で済んだそうだ。
けれど3人とも、何故あそこにいたか何があったのかを覚えていないため、原因を調べるためにも入院しなくてはならなくなった。
誰かが言っていたのを耳にしたけれど、地下にはまだ人がいたらしい。何人も……。
親よりも先に見舞いにきたのは二人の刑事。刑事課の強行係の巡査と巡査部長。田中さんと小原さん。
私は医者に話したことを、そのまま刑事に話した。
「なにも思い出せないんですね? 安達さん」
しつこいくらい聞き返されたから、少しムスッとしながらも頷く。
刑事と言う職業の人をよくは知らないけれど、目の前にいるスーツ姿の刑事2人は印象が悪い。この事件の犯人にしか興味ないと言わんばかりだ。私に対する気遣いは見当たらなく、不快だった。
「では最後にもう一つ……あなたはもう1人助けたと言いましたね。青い瞳の青年で背中を怪我していた……そうですよね?」
「はい。でも戻ったらいなくなってました。最初に出る時、確かに助け出したのですけど……背中の血に触れた血もさっきまでついてたから混乱して見た幻ではないと思いますよ」
何故消えたか、わからない。
私の混乱から見た幻覚ではない。それを主張しておく。でも、最初からいなかったみたいに、消えてしまった。
「では何か思い出したら教えてください」と言い残して、2人の刑事は病室をあとにした。
一人残された私は、ベッドの上で彼が何故いなくなったのかを考える。
怪我をしているのに。放火の犯人……? なら怪我して私の隣に倒れているのはおかしい。
わからないことがありすぎて、胸の中も頭の中もモヤモヤする。
私が思い出すのが先か、警察がこの事件を明らかにするのが先か。
そうなると警察には負けられないと、必死に思い出そうとした。
最後の記憶は?
そこから辿っていこうと目を閉じて、脳に入り込むように記憶を探ってみた。
ゆっくり、ゆっくり、最後の記憶から暗闇に落ちたピースを繋ぐように……。
けれども最後の記憶さえわからなかった。ああ、モヤモヤする。
瞼の裏に浮かぶのは、消えた彼の青い瞳。リディア、という名前。地下の赤い炎。
嗚呼――――思い出せない。
「こんにちは。刑事だけど、話を聞かせてもらえるかな?」
そこで、病室に1人の男が入ってきた。さっきの二人の刑事とは違う。
「さっき話しましたけど……」
「ごめん。もう一度聞かせてくれるかな」
にっこりと笑いかける彼は、刑事には思えなかった。前の刑事は規則を重んじる固い雰囲気だったし、にこりともしなかった。
彼の方は明るいバーテンの方が似合いそう。若いし顔立ちも整っている。黒のライダージャケットと鎖骨も見えるVネックのシャツ。刑事にしては、軽装過ぎる。
「3人、助けたんだってね? すごいね。きっとメディアは君のことを取り上げるよ」
「それは断りたいですね、私はただ運んだだけですから」
「運んだだけだなんて謙遜しないで、君は命を救ったんだからさ」
彼は何をメモっているのか、私と話しながら手帳にボールペンで書いている。メモるような話をしていないのに……。
「無理に褒めなくていいです、私はやれることをやっただけですので」
「ははは、偽善だね」
メモを見つめながら彼が笑って吐き捨てたから、私は目を丸める。
「それで、1人消えたって医者から聞いたけど」
「待ってください。偽善って……どこが? 私がいつ偽善発言したのでしょうか。ただでさえ火事が起きるまで記憶がなくてモヤモヤして落ち着けないのです。混乱、させないでください」
話を戻そうとする刑事に刺々しく言う。ストレスで参っている被害者に、なんて最低な態度をするんだ。
さっきの刑事より酷い。
「あー、ごめんごめん。怒らせちゃうかもしれないけど……君は噛まれた傷だけで誰よりも軽傷だから、他人を救って英雄になろうと思ったんじゃない? それくらい余裕だったでしょ」
笑みを貼り付けながら、刑事は憶測を並べ立てる。
「やりたいことをやっただけだなんて。英雄になりたくて人を助けたんだって、ちゃんと言わないから偽善だなって思ったのさ。違う?」
軽蔑するような冷たい目を細めて、若い刑事は問う。
この人は私を嫌っていると感じた。嫌われるようなことした覚えがないのに、何故。
「……英雄になんかになって、なにが楽しいのですか?」
決め付ける刑事を思わず嘲笑ってしまった。
いい子でいたかったけれど、敵意を向けられては、反撃せずにはいられない。
「隣には怪我した青年がいて辺りは火の海、自分だけ逃げ出したら今後何度後悔すると思います? 助けを求める声を無視したら、今後何度後悔すると思います? 私は私の人生が後悔に満たされないように、助けたまでです。英雄願望などありません」
常に自分本位の私に、英雄願望などない。ヒーローって柄でもない。それが私と言う人間だ。私の人生が楽でありたい。
決め付けて棘を刺すなら、突き返す。でも何故か自分の欠点を突かれて、ムキになっているようにも思えた。なおさら、混乱してしまう。
へぇーと言いたげな顔をして刑事は、何か考えるように黙った。
刑事と言い合っても仕方ないから、話題を変えよう。それにこれはモヤモヤしているストレスの八つ当たりでもあった。止めよう。
「……私の怪我って噛まれて出来た傷ではなく、医者は刺された傷だと言っていましたが」
「あ、ああ……ほら、ヴァンパイアに噛まれたみたいに、2つ傷が並んでたろ? だから噛まれた傷」
笑って刑事は答える。
吸血鬼の噛み跡。首のガーゼを意味もなく押さえてみる。
吸血鬼の噛み跡。
妙に感じる言葉だ。謎が多い事件に、そんな例えの傷が出ては更に混乱するも無理ない。
「それで、君が助けて消えちゃった男の特徴を教えてくれる?」
「えーと……クリーム色の髪してて」
「青い瞳で背中に杭が刺さってた男?」
「……杭は刺さってなかったですが」
「あ、そうなの」
驚いた反応をした刑事は、また手帳に何かを書き込む。
妙だと感じて、私は刑事を観察した。シャッシャッとペンを走らせている。
なにか違和感を覚えているはずなのに、それがなにかはわからなかった。
「それで。何か思い出せない?」 私に目を向けて、笑いかけてきた。
「思い出せません」
「そっか。思い出したら連絡してね、じゃあ」
連絡先を書いた紙をビリッと破いて私に渡してから、刑事は病室を出ていった。
全然刑事らしくない変な人だった。連絡先の上には、結崎と名が書かれている。
なんで刑事達は、別々に訊いてきたんだろう。変なの。
私は一眠りしようと横たわった。そこで思い出す。普段お守りにつけていた鮫の牙のネックレスは、どこだろう。治療された時も、つけていなかったかも。あの現場に落としてしまったのかもしれない。そうしたら、きっと燃えてしまったかも。貯めたお小遣いで買ったものだから、落胆してため息をつく。命が助かっただけましと思わなきゃ。
少ししてから親が来た。
どうやら昨日学校を終えてから、行方がわからなくなっていたらしい。
それで昨日学校にいたことを思い出した。
学校帰りから今朝までの空白の時間。それは微塵も思い出せない。
記憶喪失の原因は、翌日医者から聞いてわかった。
薬品で眠らされたせいで記憶がなくなってしまったらしい。または精神的ショックなものを見てしまったことによる脳の自己防衛だとか。
きっと多分前者。
目の前で人が殺されてもそんな自己防衛機能、発動しない自信がある。人生の些細な楽しみは、海外のホラー映画を観ること。ゾンビや吸血鬼がお気に入りで、リアルな流血や死体には感心する。勿論実際に目の前で人が殺されて感心はしない。ただ、記憶を封じるほどのトラウマに値しないと思うだけ。それにホラー映画は風邪の免疫力を高めるらしいからオススメ。
脱線してしまったけれど、つまりは薬で意識を奪われて拉致されたとのことだ。
†◆†
退院した翌日には学校に登校した。家から一番近い高校は創立60年、偏差値は中の上くらい。
ニュースでも取り上げられ、あの男女二人が取材で私に助けられたことを言ったためヒーロー扱い。学校でも私になにがあったかは知れ渡っていて、クラスメイトに取り囲まれた。
「すごいね」や「かっこいいよ」とそんなことを言われた。
笑顔で対応したけれど――――本当に気持ち悪かった。
この気持ち悪さはなんなんだろう?
あの刑事には否定したのに、自分が偽善者に思えてきた。今までいい子でいたけれど、英雄扱いは堪えられない。
かっこいいだなんて、不謹慎だ。私達は助かったけれど、命を落とした人がいる。
何故、この子達は――――バカなんだろう。
そう冷たく見下ろす自分を隠して、なんとか笑ってやり過ごした。私がそんな気持ちになってることを周りにいる誰も気付かない。数日学校を休めばよかったと後悔した。
こういう時、私の人生でなにか足りたいものがある気がしてしまう。
それが、私が待っているもの。
待ち続けているもの。
放課後の校門前にはメディアが集まっていたので、保健室に暫くいさせてもらった。
気付けばすっかり陽が暮れてしまったけれど、懲りもせずに一人で夜の帰り道を歩いて帰る。誰かと帰っても互いに気を遣って疲れるだけ。
明日は休んでしまおうと考えながら、星を見上げていたら、カクッと損ねた足を上げ、煉瓦を引き積めた坂道で躓いた。
咄嗟に前に出した右手が何かに触れて、支えになり倒れずに済んだ。
顔を上げれば、クリーム色の髪をした青い瞳の男の人。
「あら……」
彼の胸に手を置いたまま、きょとんとした。
「無事でよかった。何故消えたのですか?」
彼が私の幻じゃなくてホッとする。普通に立っている様子からして、怪我も大丈夫そうでなにより。
「……なにも、覚えてないの?」
「貴方は?」
初めて会った時と違い、青い瞳はぼんやりとして私を見つめている。そう感じてしまうのは、街灯の下にいるせいだろうか。
静かに訊いてくるから、逆に訊いてみた。彼は少し黙る。言葉を選んだらしく、口を開いて答えた。
「君のことは覚えてる。あとは覚えてない」
視線を落として、首を横にゆっくり振った。よくわからなくて首を傾げる。
「私だけ覚えてるってどういう意味ですか?」
彼は口を閉じたまま、左手をゆっくり手を上げた。そしてガーゼを貼り付けた私の首筋に触れる。
「君に噛みついたのは……僕」
冷たい指先が肌を撫でた。
「それしか……僕の記憶は……ない。君に噛みついたことだけ……あとはなにも、覚えてない……なにも」
また視線を落として、彼は呟く。
「……噛んだ……?」
自分の首を押さえる。
医者は何か2つの尖ったものに刺された傷だと言っていたのに、噛み跡? 例えではなく、本当に牙で噛み付いた?
「なにも、って。全部の記憶ってこと? 医者に診てもらった方がいいのでは?」
それより彼の記憶の方が気になって、私は彼の額に触れた。瞳も隠れてしまいそうな長い髪を上げて触れるが、この行為はなんの意味もないと気付き止める。
「……僕は君を噛んだんだよ……」
記憶よりも噛んだことを気にしろと、彼は静かに強調した。
「でも……噛んだことより、記憶喪失の方が」
重大だ。
言いかけたけれど、彼が両手で私の頭を掴んできたから、続きが言えなかった。
猫の威嚇のように、シャアーッと歯を剥き出しにする。きれいに並んだ白い歯には、2つだけニョキッと生えてきたように尖った牙。ライオンの威嚇さながらの迫力にビクリと震える。
瞳もまた猫のように瞳孔が鋭く、金色に染められていた。彼の手はそれを見ろと言わんばかりに私を押さえ付ける。
「……うわ」
小さく声を漏らす。
私の傷跡にぴったりはまりそうな2つの牙。それから連想するのは……つまり彼は。
「ヴァンパイアだ」
結論を出す前に彼からそれを口にした。
私はもう少し頭の整理をしたくて沈黙する。混乱の渦。
「あら、初めまして、ヴァンパイアさん」
とりあえず挨拶するべきだと思って言う。彼は挨拶を返してはくれなかった。
「それで、えーと……謎が増えてしまいましたね。私達は薬を盛られ、あの地下に運ばれ、目が覚めれば吸血鬼と火あぶりにされかけて……どういうことですか?」
「……覚えてない」
「あら、困りました……混乱で夜も眠れなさそう」
吸血鬼の登場で、事件はさらに混乱してきた。
思い出せそうで思い出せない。キャパオーバーしそうで、額を押さえる。整理をしなきゃ。全てが混ざりあってしまいそう。落ち着かなくちゃ。冷静に冷静に。
ニュースでは生存者3人のことしか報道していない。遺体も発見されたが、詳しい数は未だ不明。まだ拉致られた理由も犯人もわかっていない。
生存者4人は記憶がない。そしてそのうちの一人は、吸血鬼。ホラー映画の産物まで謎に加わり、頭が破裂してしまいそうだ。
吸血鬼は、民話や伝説に登場する存在。生命の根源とも言われる血を吸う、代表的なモンスター。
「……それで、貴方は何故私のところへ?」
「……君しか、覚えていない」
「愚問でしたね……」
記憶をなくした吸血鬼が頼れるのは、唯一覚えている私だけ。断片的でも、唯一の記憶。行く宛なんて当然ない。
街灯が照らす煉瓦の坂道に立って、ヴァンパイアさんを見つめる。顎に手を当てて考え込んだ。
「……私の家に、来ますか?」
ヴァンパイアさんに、それを提案した。彼は青色に戻った目を丸めると、間を置いてゆっくりと頷く。
「では行きましょう」
一先ず家に帰ろうと言って歩き出したら、彼が私の手を掴んだ。引き寄せたかと思えば抱き上げられる。その途端、世界が回った。速すぎるメリーゴーランドみたい。吹き飛ばされそうな風に包まれるけれど、ヴァンパイアさんが私の脚をしっかり抱いている。
ピタリと風が止むと、もう家の前にいた。坂道から家までは40分はかかるのに、一瞬で移動したんだ。
周りを確認するより、私を抱えたヴァンパイアさんを見る。
彼も青い色の瞳で私を見ていた。私をリディアと呼んだ時とは違う眼差しだ。陽射しに照らされた海の輝きはないし、呆然としているようだった。
やがて彼は私をそっと下ろす。離れがたかったけれど、彼の肩から手を離した。
「……ずっと、私を見ていたの?」
家を知っていたなら、行方を眩ませてからずっと私を見ていたのかも。ちょっと苦笑を漏らしながら問う。
ヴァンパイアさんは認めた。仕方ないと言えばそうかも。私しか知らないのだから。
「……君は、僕を助けた?」
私にそんなことを問うから、首を傾げる。夜道で話すのもなんだから、私は一軒家の二階のベランダを指差す。
「あそこに行ける? 私をここまで一瞬で運べたから、行けるよね」
「……」
黙ってヴァンパイアさんは頷いたから、私は玄関から入った。
母も父も私が帰ってきたらホッとしたように「おかえり」と言う。普段から自分のことはこなして心配をかけるような態度をとらないから、両親は私を心配することに慣れていない。
私は普段通りに接して、夕食は部屋で食べると言って、おぼんで運んで二階に行く。
暗い部屋のドアを開けば、すぐにベランダに座るヴァンパイアさんが目に留まる。月明かりだけが、彼を仄かに照らす。夜風に撫でられるクリーム色の髪は、月色に煌めいていた。
その煌めきが反射する青い瞳が、ただ私を見つめている。
「お待たせ」
机の脇に鞄を置いて、机の上にはおぼんを置いてから、ベランダを開く。
「招かなくとも……入れるのね」
ヴァンパイアさんは、すんなりと私の部屋に入った。
私の好きなホラー映画の一つに、招かなければ家に入れないヴァンパイアがいる。実在はそんなルールはないらしい。
「何故、僕を助けた?」
部屋を不思議そうに見回すと、ヴァンパイアさんはもう一度質問した。
「……私を噛んだとは知らずに、助けたことを言っているの?」
刑事や他の人みたいに、英雄だとかヒーローだとか言う話になるのかと思うと、顔を歪めてしまいそうになる。
「……君は僕が噛んだと知っていても、助けたと思う。今も、ヴァンパイアと知っても僕を家に招き入れた」
ヴァンパイアさんは、部屋の真ん中に立ったまま静かに言った。
「……病院で言っていたほど、君は自分本位ではない。自分本位なら、他人の命より自分の命の安全を考えたはずだ。……君は火傷を負ってまで、他人を助けた」
青い瞳が包帯が巻かれた私の足に向けられる。それで彼が私を抱えた理由がこれにあると知った。怪我を気遣って運んでくれたんだ。痛いわけではないけれど、締め付け感があって歩きづらかったんだ。
「今も君を傷付けたヴァンパイアなのに、助けようとしている。……どうして?」
ヴァンパイアさんは問う。
「君を傷付けた存在に、どうして手を差し伸べる?」
正体を明かしたあとに家に招かれることは予想外で、疑問に思えたみたいだ。
私は答えに迷い、困ってベッドの上に腰を下ろす。
「……確かに貴方は私を噛んだヴァンパイアだけど、これから私に危害を加えるとは思えない」
リディア、と呼んだ彼が、私を殺すつもりがあったとは到底思えない。記憶のない今も彼からは敵意も殺意も感じないから、信用して部屋に入れた。
怪我の気遣いで、確信した。でも、確信なんて、この胸にずっと前からある。そんな気がしていた。
「どんな事情でヴァンパイアと拉致された私達が火に包まれた地下にいたのかは、未だにわからない。真相を知りたいから、協力して探りましょう。貴方も、知りたいはずでしょう?」
「……」
「真相がわかるまで貴方を利用するつもりなの、自分本位でしょ?」
少し自嘲を漏らして、私はヴァンパイアさんに微笑む。私のために、彼に手を差し伸べただけ。
まだ部屋の中心に立っている彼は、数秒の間、私を黙って見つめた。
「……君は少し、自分を過小評価している。君は思うより、自分より他人のことを考える、優しい人間だ」
優しい声音で告げる。
自分本位と言うことは、過小評価。だから自嘲が洩れた。
「……学校にいる間、具合が悪そうだった」
「!」
「褒められるのは、苦手か」
彼は首を傾げて、私の顔色を伺う。
クラスメイトは誰一人として、気付かなかったのに、学校までついてきたヴァンパイアさんは気付いた。
「……太陽は弱くないんですね、ヴァンパイアさん」
肩の力を抜いて、私は話を変える。椅子に座るように言うけれど、彼は立ったままでいた。
「噛まれた私はヴァンパイアになるの?」
「……いいや」
「他の生存者の2人も、噛んだ?」
「覚えがない」
「傷は治った?」
「治った」
「あれから人を噛んだ?」
「いいや。でも病院の血液パックを盗んで飲んだ」
「……記憶はなくとも、知識がある。だから自分が吸血鬼だということは理解しているのね」
質問をすると、すんなり答えが出た。人を傷付けないために血液パックを盗んだのは複雑だけれど、人を噛まないでもらえるならそれでいい。
「疲れている、もう休んだ方がいい」
整理して考察しようとしたら、また彼に気遣われた。
そうね。今日は学校も疲れたし、十分混乱もした。一先ず休んで、翌朝考えよう。
ヴァンパイアさんの食事は血液だから、私は軽く夕食を食べた。家族に見付からないように、一緒に浴室に向かう。脱衣場で待たせて、順番にお風呂に入った。彼にはわざと大きなサイズを買ったスエットを用意。
私が髪をドライヤーで乾かしている間に、ヴァンパイアさんはシャワーを終えた。ドアを少し開けてタオルと、わざと大きなサイズを買った私のスエットと父のトランクスを手渡す。
少しして、頭にタオルを被った彼が出てきた。私より背が高くとも、細身な彼にはスエットは十分だった。
家族に見付からずに二階の部屋に戻って、すぐに眠ることにする。
ベッドの上に座って、私は考えた。また部屋の真ん中に立つヴァンパイアさんは、棺桶は必要ないけれど、眠るらしい。
余分な布団はないから、床に寝かせるのは気が引ける。だからと言って同じベッドで眠るのは、年頃の女の子としては躊躇した。
でも相手は記憶をなくしたヴァンパイアさん。無欲といったポカンとした様子で、私を見下ろしている。
「……ベッド、一つしかないから……こっちどうぞ」
深く考えないようにして、私はベッドで眠るように叩いた。ベッドには丁度二人分眠れる。私は壁際で、間にクッションを置いて隣に横になってもらった。
明かりを消した部屋のベッドに、ヴァンパイアさんと2人きり。意識してはいけないと言い聞かせるけれど、高鳴る心臓の音がベッドシーツを震わせて彼に届いてしまいそう。
深く息を吸い込んで、ゆっくり息を吐いた。
「……おやすみ、紅」
彼は囁くように言う。
初めて私の名を口にした。
「おやすみなさい、ヴァンパイアさん」
私は彼の名前を知らない。彼自身、知らない。
20150111