戦国エッセイ 関ヶ原の戦い 井伊直政の先駆け 徳川家康の目的
戦国史に想う 関ヶ原の戦い
「伊井直政の先駆け」と「徳川家康の目的」
天下分け目と言われる関ヶ原の戦いです。
直政の先駆けは、一般にはあまり重要視されていないように思います。
関ヶ原の戦いを扱う、歴史番組でも開戦の過程として紹介されるだけだったり、紹介されない物まであります。
家康に至っても、関ヶ原で戦い、どうして勝ったかという物は良く見かけますが、目的について、言及している物は、少なく感じます。
私は、直政の先駆けこそが家康の目的を現している重要ポイントだと思います。
まず初めに、
関ヶ原の戦いにおける伊井直政の先駆けについてから書きたいと思います。
この戦いは、福島正則隊が先陣と軍議で決まっていました。
伊井直政は、後詰で有ったにも関わらず、松平忠吉と共に、30人ほどを連れて、福島隊の前に出ようとします。
それを見つけた、福島隊の先頭部隊長の可児吉長が呼び止めたところ、直政は、
「松平忠吉の初陣なので、勉強のため敵陣を見学に行くのだ、戦を始めるわけではない」
と言い、福島隊の前に出ると、前方の宇喜多隊へ発砲しました。宇喜多隊もそれに応じて発砲しました。
先陣は武士の名誉でしたので、福島正則は、直政に出し抜かれたことを激怒、福島隊が遅れを取るわけにはいかないと、一斉に宇喜多隊へ突撃を開始したと言われます。
こうして、天下分け目の関ヶ原の戦いが幕を開けます。
ですが、何故?
軍議で先鋒は福島隊と決まっていたにも関わらず、直政と忠吉は、自分たちの手で開戦したかったのでしょうか?
あまりこの直政の抜け駆けについては、どうでも良い事のように捉えられているのか、あまり重要視されていないのが実状ではではないでしょうか。
あえて、一般に言われる事をいくつか挙げてみたいと思います。
岡崎博物館の方の話では、
「戦後、軍議違反にも関わらず、直政が処罰されていない所をみると、家康は、徳川の軍勢でこの天下分け目の戦いを始める事が出来て嬉しかったんじゃないか。」
これは、直政も、我ら徳川の手で開戦したいという思いと、家康の思いが通じ合っていたという解釈です。
一般に言われる所で言いますと、
「戦後、直政が処罰されていない事から、家康と直政の間で話が通っており、先駆けを認めていた。」
という物です。
これが、直政が言い出したことなのか、家康の命令なのかは、言及されていません。
確かに、本当の所は、解らないのですから、直政が勝手にやったことだと言う人も居れば、家康の命令だと言う人も居て当然です。
そこで、私の思う直政の先駆けについて述べたいと思います。
私は、家康の命令でやったと思うのです。
冷静に考えれば、後詰の隊が、言い訳までして先鋒隊の前まで行き敵に発砲、それが、眼立ちたがりのトンでも武将ならまだしも、分別ある伊井直政なのですから、命令が有ってやったと言う方が自然だと思うのです。
ですが、この先駆けは、あまり重要視されていないようで、家康の命令でという
定説に至っていない事が逆に不思議だなと私は思います。
私は、この直政の先駆けこそが、関ヶ原を語る上で最重要ポイントだと考えます。
それは、なぜか?
家康が、小山評定、以来積み上げて来たものが、実を結んだ瞬間が、直政が鉄砲を打って合戦が始まった時だと思うのです。
将棋で言うなら、「詰み」に至った状態です。
「え?・・まだ合戦が始まっただけで、勝っていませんが・・・?」
と思う方も多く居ると思います。
関ヶ原の戦いと言うと、家康も三成もどちらが勝つか最後まで判らなかった戦いですから。
あえて言い換えるなら、東軍、西軍、という意味では、どちらが勝つか最後まで判らない戦いだと思います。
ですが、私の思う家康の勝利の瞬間は、合戦が始まった瞬間にこそ有ると思います。
それは、家康の目標、望みの叶った瞬間です。
戦果は、おまけの様な物だったと、私は考えます。
確かに、そのおまけは、超魅力的ですので、ぎりぎりまで家康は戦場で粘りますし、結果天下を取ります。
この、家康がギリギリまで戦場で粘っていた所から、家康も一か八かの賭けの勝った、みたいな印象がありますが、
私の思う家康の目的は合戦することに在って、勝てれば大きく当たると言った感じだと思うのです。
「家康の目的は、合戦することにあった」
関ヶ原の戦いを紹介しているテレビなども良く見かけますが、
家康の目的を合戦することに有ったとする物は、無いので、私の説になってしまいますが書いてみたいと思います。
関ヶ原の戦いは、豊臣政権の内部分裂です。
家康に従った東軍の諸将は、豊臣政権を牛耳ろうとする、三成達を排除するのが目的です。
家康に天下を取らせるために戦っているわけでは、無いのです。
言うなれば、豊臣家臣対豊臣家臣の戦いです。
西軍は、豊臣家大老、毛利輝元を総大将に。
東軍は、豊臣家大老、徳川家康を総大将に。
家康も、豊臣家の大老と言う立場で総大将についています。
ですが、これは、表向きな話であって、家康は、天下を狙っていたのだと思います。
これは、結果的に家康が天下を取るので、確かに!という話になるのですが、家康の、その狙い方です。
結果的に、一発勝負で天下へ王手をかけてしまったので、慎重と言われる家康は、実は大胆だ!
という話も出てくるのだと思いますが、私は、家康という人は、何処までも慎重な人だと思います。
家康は天下を視野に入れて、徳川の勢力拡大を狙っていたことは、確実だと思います。
天下へ行けるとこまで行って、掴めそうだったら掴もうか?というスタンスだったのだと私は、思います。が、解りづらいので、これを、天下を狙っていたと書かせていただきます。
話がそれましたが、関ヶ原の戦いは、豊臣家臣対豊臣家臣の戦いです。
そこで天下を狙っていた(勢力拡大を狙っていた)家康は、何を考えて居たかです。
「この戦いで豊臣政権の力が半分になる。」
私は、家康がこう考えて居たのでないかと思うのです。
勝ったのであれば、家康の力は天下に王手という所まで行きます。
負けたとしたらどうか?
東軍諸将の改易は、免れないでしょう。
それは、どうゆう事か?豊臣政権における豊臣恩顧の大名が半分居なくなる事を意味します。
ですがそこで、三成派が自分たちの息が掛かった者を置き換えるだけだから、豊臣勢力が半分にはならないのでは?
と、言うのが一般論かもしれませんが、私は少々違います。
家康派の東軍諸将は、小山評定で家康に味方する事を決めます。
なぜ小山まで行ったのか?
それは、上杉討伐のためです。
豊臣家の大老徳川家康が、豊臣家の名のもとに、逆賊上杉家を討伐しに行ったのです。
天下を治めている豊臣家の討伐軍ですから、豊臣家の軍事最高部隊です。
正確に豊臣家の最強軍か?という所ではないかもしれませんが、
よく、三成たち官僚派と、軍事派の対立と有るように、家康が連れていたのは、軍事派の諸将であったことは、事実です。
言うなれば、豊臣政権の盾と槍が有るなら槍を司る諸将です。
東軍が負けてこの諸将が改易になったとするなら、豊臣政権の軍事力は低下することとなります。
もっと言うならば、
豊臣政権の弱体化が、家康が天下に近づくのに必要なことだとすると、家康にとって居なくなって欲しいのは、東軍の諸将ではなかったか?という事です。
それに、東軍、西軍、とも戦うのですから、西軍が勝ったとしても、無傷でというわけにはいきません。有能な武将の討死や軍備の消費は、あります。
ですので、勝てば天下が見える。
負けても、豊臣勢力半減。
という事ですので、もともと家康にとって損が無かったという事だと思います。
もともと、豊臣諸将の内部分裂に家康が乗っかって煽った感じがします。
では、家康にとって、一番まずい状況はどんな状況でしょうか?
それは、豊臣恩顧の大名が、文治派、武断派の大名が一致団結して、家康を逆賊として攻めてくる状況です。
ここから、家康が、関ヶ原合戦、開戦まで慎重に積み上げていく様子を、ざっくり書いてみたいと思います。
家康は、小山評定のあと、江戸に入って、福島隊が岐阜城を攻めるまで動きません。
東軍がハッキリ西軍に敵対すると判ってから江戸を出ます。
清州城に入った家康は、秀忠軍を待つか、即時決戦か?
迷ったという話もありますが、家康の目的は、豊臣家臣同士が戦ってくれることに在ると思いますので、迷うことなく即時決戦を選んだのだと思います。
一般に言われているように、秀頼の出馬は、家康にとっては、この上なくマズイ状況と言えるでしょう。
あくまでも、豊臣家の逆賊三成征伐という大義名分でなければなりません。
大垣城と対陣した家康ですが、何とか三成を城から出そうと画策します。
この時の家康の心境を、得意な野戦に持ち込みたい!とよく語られますが、私は、秀頼出馬前に、豊臣家臣同士で戦いに成ってほしいだったと思います。
小早川の松尾山占拠、佐和山襲撃、大垣の水攻め工作、など調略が功をそうしたのか、三成方は関ヶ原に布陣します。
三成は、夜7時ころ動いたとありますが、同じ晩に家康も関ヶ原へ出陣を命じています。
「このワシに、野戦で勝てるものが居ろうか!」
と言うのがうたい文句だったようですが、何か急いで居るように見えるのは私だけでしょうか?
東軍の諸将が、心変わりする前に、早く決戦したい感じが出ているように見えます。
一晩開けて、関ヶ原の布陣を物見に調査させて、軍議にかける方が妥当なやり方だと思うのです。
そうすれば、諸将から、敵に囲まれた盆地に入るなど愚策とされ、にらみ合いになってしまいます。
時間が経てば経つほど、秀頼出馬の危険性が増します。
逆に、三成にしてみたら、決戦に来たら迎え撃てば良いし、にらみ合いに成ったら秀頼出馬を待てばいいと言ったところではないでしょうか。
東軍は、西軍と同じ晩に関ヶ原へと進軍して、明け方布陣します。
もちろん、吉川隊の寝返り、小早川の寝返り工作が、あればこそなんですが、
早朝の布陣には、家康は桃配り山より手前で布陣します。
有名な関ヶ原布陣図は、三段の布陣になって居ますが、三段目の諸将は、家康の周りに居ます。
そこで、吉川隊に鉄砲を撃ち掛けています。
騒ぎになったようですが、吉川隊の寝返りが本当だと言う証明が欲しかったのだと思います。
家康ほどの武将が、寝返りますと言われて、
「はい。そうですか。」
と敵の包囲網の中に入るとは思いませんから。
ここで、私が大事だと思うのは、吉川隊の寝返りが嘘だったら、家康は逃げたのでは、ないでしょうか。
「私は騙されたのだ」
と言い訳もできますし、盆地に入り込んだ豊臣恩顧の東軍は壊滅します。
西軍も勝利するでしょうが、無傷というわけにはいきません。
豊臣政権の弱体です。
寝返りが本当なら、戦いに勝利する確率が上がり天下が見えます。
吉川隊が動かないのを確認して桃配り山に家康は布陣します。
両軍は霧の中で2時間ほど対峙し続けたと言います。
家康にしてみたら、気が気ではない状況です。
寝返りの約定は有る、東軍の諸将の誓いもある。
それでも、その諸将は、豊臣恩顧の大名たちなのです。
同じ釜の飯を食べた同僚だからこそ、仲たがいしたのですが、同じ釜の飯を食べ
たればこそ、仲直りという事もあります。
対陣して居るうちに、豊臣恩顧の大名たちが顔を合わせて、話し合いでも始めたら、三成が、秀吉の恩に報いよと涙ながらに、話したら、我らがここで血を流したら家康の思うつぼだと訴えたら。
家康にしてみれば、あいつらが、もし裏切ったら自分はお終いだと言う自覚はあったように思います。
家康が工作したとはいえ、三成が籠城をやめたのも気がかりで有ったでしょう、毛利輝元の本隊が、秀頼を連れて迫っているという考えもあったでしょう。
事前にそれは、無いと言う情報を掴んでいたにしても、今のように情報伝達が正確ではないので、絶対という保証はありません。
霧の中とはいえ、2時間も戦いが始まらないのは、何か話し合いでもあるんじゃないか?など、家康を不安にさせるには十分な時間であったと思います。
そこで、伊井直政に戦が始まるように先駆けを命じたのだと私は考えます。
伊井直政の先駆けが成功します。
この瞬間、戦いが始まりました。
戦いが始まってしまえば、話し合いの余地など無くなります。
家康の目的は完遂されたのです。
あとは、調略道理に事が運べば、戦いに勝利する事は十分に考えられますが、家康が敵の寝返りを鵜呑みにしていたとも思えません。
戦況を見て危なくなったら逃げる作戦だったと思います。
その理由として挙げられるのが、小早川隊への鉄砲の撃ち掛けです。
この鉄砲の撃ち掛けについても、実際は無かった、江戸時代の創作だなどの説も有るようですが、私は有ったと思います。
無かったという説の根拠は、
「そんなことして、小早川隊が逆上してこっちに向かって来たらどうするんだよ?」
という、もっともな感想からであると思います。
そこで撃ち掛けが有ったという定説の理由として、一般に言われている物は、
「慎重と言われる家康は、実は大胆な一面も持っている。単純に切れたのではないか?」
という物です。
もちろん、家康の感情的には、切れたという気持ちは有ったかもしれません。
ですが、私は、家康の置かれている状況で、一番慎重な策は、鉄砲撃ち掛けであったと思うのです。
逆に、小早川の寝返りをただ待つ方が大胆としか言いようが有りません。
それは、何故か?
どっちにつくか分からな奴を、そのままにしておく事ほどリスクの高い状況は有りません。作戦の立てようが有りません。
家康は、鉄砲撃ち掛け時は、小早川隊の松尾山前方まで陣を進めています。
寝返るって言っているからと、鵜呑みにして、寝返ってこなくて討死なんてことになったら、しゃれになりません。
私の思う鉄砲撃ち掛けの理由は、
「敵なら敵で良いから、白黒つけさせろ!早くしないと吉川隊が毛利隊を抑えられなくなったら、我らは、袋のネズミだ!」
と言った感じだったと思います。
小早川隊が、徳川に襲い掛かったら、家康は逃げようとしていたと、私は考えます。
私には、家康の行動は、大胆ではなく慎重な、さすが戦上手な家康というイメージです。
ここまで、家康の目的は、豊臣政権の潰しあいが目的で、勝ったなら天下に王手がかかる!
負けそうなら、戦場から逃げれば家康には損はないと書きました。
ですが、ここで、戦場から逃げても、東軍が負けてしまったら、総大将の家康はただでは、済まないのでは?と考える方も多くおられると思います。
そこで、東軍が関ヶ原で負けていたら、家康はどうしたのか?
重複しますが、戦う事が目的であって、勝てば良し!負けるという事も家康にとっては、作戦の内であったと私は考えます。
ここで、重要なのが、徳川秀忠の率いる、徳川本隊3万8千がほぼ無傷で居る事です。
私は、「・・家康・・凄い!!!」
としか、言えません。
上田城の損害が有りますので、3万5千としますが、この軍隊の存在は、凄いの一言です。
秀忠軍の遅刻は、秀忠の汚点として有名です。ですが、家康の作戦としか思えません。
関ヶ原で勝利を治めたので、諸将の建て前、遅れた馬鹿者として扱われています。
さすがに、負けた時のために、徳川の本隊は、温存しておきましたとは、言えませんから。
東軍が負けたとしても、関ヶ原において、豊臣政権は、大損害の状態です。そこに、徳川本隊に家康が合流したなら、毛利本隊を相手にしても正面から戦える規模です。
それに、家康にとっては、一番厄介な、豊臣恩顧の大名、秀吉の育てられた大名は、壊滅正体です。
毛利相手と書きましたが、生き延びた三成からすれば、毛利への不信感は否めません、一致団結できる状況かどうか?
豊臣政権を牛耳る、三成討伐とゆう大義名分をかざせば、大阪占拠まで行けるかもしれません。
家康が大阪まで攻め上がらなくても、伊達家、前田家、毛利家と連携できたら、三成に勝ち目が有るかどうか?難しくなります。
家康が、無傷の本隊に守られて江戸に帰ったらどうでしょうか?
三成の東軍総大将の責任追及が及びます。
ですが、家康は、生きているのです。
反三成派の大名に工作するのは、必定。
この状態は、関ヶ原以前に家康が江戸に居た状態と比べるとどうでしょう?
三成が倒した敵は、豊臣恩顧の大名なのです。
それは、家康派が優勢になったことを意味します。
東軍諸将の生き残りも、今さら三成に頭を下げる気にはならないでしょうし。
万が一に秀頼の旗の下、疲弊したとはいえ、豊臣政権が一致団結して、家康が不利な状況に成ったらどうでしょうか?
「私は、東軍諸将に頼まれたからやっただけだ、豊臣家に逆らう気など毛頭ない」
と言い訳したと思います。
「お許しいただけないのなら、徳川家最後の一人になっても戦う」
といえば、三成がそこまで戦火を広げるかどうか?
ですが、それでもダメなときは。
最悪な状況に成ったら、責任をとって、隠居すると言えば良いのです。
これは、終始いつでも切れるカードだったのですが、
家康本当に凄い!
「え?それで許されるの・・・・?」
という状況ですが、家督を秀忠に譲って隠居すれば良いのです。
秀忠は、
「全ては、父家康が諸将に頼まれてやった事、私は豊臣家に逆らう気など毛頭ない」
と、言うでしょう。
こんな言い訳が通るのか? って、ところですが、通ると思います。
ご存じの方は多いですが、一応書きます。
秀忠の正室は、秀頼の母、茶々の妹、江です。
秀忠の娘、千は、秀頼の正室です。
大阪の茶々は、発言権が有ったと言われますので、妹の家と事を構えることを避けたでしょう。
時間が経てば経つほど、秀頼は成長します。
秀頼から見ると、秀忠は、妻の父親。義理の父親になりますし。妻の母親は、自分の母親の妹、つまり叔母さんです。
秀忠が豊臣家を大事にすると言えば、すべて収まるのです。
徳川家は、豊臣に次ぐ大大名です。
秀忠以上に豊臣家大老。豊臣家のナンバー2に就くのに適切な人は、居ません。
もっと言うと、秀頼は、秀忠と手を取り合って天下を治めていくのが理想でしょう。秀忠を失う事は、秀吉が前田利家を失うくらいの損失です。
秀忠が秀頼に忠誠を誓えば、三成が徳川家を排除しようとしても、秀頼や、茶々が徳川を守ろうとするかもしれません。
そうなれば、豊臣家を守りたい三成VS豊臣秀頼、茶々。という構図に成るので、三成は、それ以上徳川家に手出しできないでしょう。
秀忠が謝罪すれば、徳川家は潰れないと家康は考えていたとおもいます。
さすがは、天下を取った戦国武将であると私は思います。
最後に、
ここまでお付き合いくださって有り難うございました。
伊井直政の先駆けこそが、家康の目的が現れている集約点だという事でまとめてみました。
家康の行動から、心情やその後の展開を推測してみましが、
歴史の解釈は人の数だけ有るという事でお許し頂きたいとおもいます。
ここまで書いておいてなんですが・・直政は、ただの眼立ちたがり屋だったという可能性も有るのです。
本当の本当は分からないのですから・・・そこが歴史の面白さだと私は感じます。