日常と私
朝、雨が地面を叩く音で目が覚める。
頭は覚醒を拒むようにぼんやりとしているが、そのどこかでは意図的に動かない自分もいた。
昨日のことを覚えている。
かつての『私』が望んだことが今、こうして実現している。
なのに、私の頭は鉛のように重く、重しでも乗っているかのように胸が苦しい。
かつての『私』はこんなことになるとは想像もしなかっただろう。
こんなに苦しくて、辛いなんて知らなかった。
あぁ、もう、このまま寝ててもいいかな。
そんなことを思いつつ、でも、そんなわけにもいかない。
昨日より以前のことが手紙を通してでしかわからない今、コウタさんもヴィオも信用できるかわからない。
だから、彼らが信用できるかどうか確かめる必要がある。
その為には今までの『私』と同じように何も知らない風に過ごす必要がある。
このまま眠っていたら何かがあったと知らせているようなものだろう。
ベッドから重い体を持ち上げてチェストへと向かう。
ヴィオは何も知らないような気はするけど、コウタさんは思いっきりアウトだ。
彼は私に『記憶改竄薬』を飲ませ、しれっと知らないようなふりをして『私』に接してきた。
おそらく、たくさんのことを隠している。
それは、私が『研究対象』の『人形』だから?
それが一番辻褄の合う理由と思える。
彼に私の異変を知られてはならない。
とは言っても、昨日の私は異常な行動をしていたように見えるだろう。
それを払拭するように『全てを忘れた私』を演じなければ。
あぁ、頭が痛い。
とりあえず、今日は穏やかな一日にしよう。
朝ご飯を食べて、お茶を飲んで、本でも読んで。
それで、何も知らずに『幸せな一日』に感謝して眠る。
まるで、手紙の中の『私』達の過ごしたようにゆっくりとした時間を過ごしてみよう。
焦ることはない、明日だってある。
薬を飲まない限り忘れることはない。
これからは『私』として生きていくんだから。
コウタさんは昨日と同じく朝食の後どこかへと連れ去られた。
あ、ブロンズの髪のおねえさんがローナさんという名前だと発覚した。
ヴィオと親しげに話していたことからも以前からなんかしらかの交流はあったらしい。
なぜか、コウタさんはふてくされた顔をしていたが。
ローナさんも『人形』の研究をしているのかしら。
なんか、ローナさんとコウタさんは部下と上司の関係っぽいし。
『人形』の研究者が複数いるとすれば、誰かが私をずっと監視しているのかもしれない。
今日の食事、服装、言動、表情や感情。
ずっと見張ってデータを取り続けているということも考えられる。
小型カメラに薄型のセンサー、盗聴器。
食べ物にカプセル型の小型ロボットを混ぜて、体の内側で組成を調べているかもしれない。
そんな風に考えたらのどの奥から何かがせりあがってくるように思えた。
あの部屋の中まで監視されているのだろうか。
いや、多分大丈夫。
今日は手紙を読んでいないが、コウタさん自身なんの変化もなかった。
コウタさんはびっくりするくらい昨日と同じだった。
表情、話すタイミング、話す内容。
研究のためとはいえ、これを何年も続けてきたのだと思うと、ちょっと狂気すら伺える。
それに対称的だったのがヴィオだ。
昨日は私たちよりも少し遅くダイニングに来たのに、今日は私たちよりも早く来てそわそわと落ち着かない。
ちらちらとこちらを見ていて、昨日よりも口数が少ない。
その目に映る感情はおそらく気遣いと呼ばれるものだろう。
それだけで私は彼を信用してもいいのではと思えてしまうのだ。
「おい、顔色悪いぞ、大丈夫か?」
私は曖昧に笑って心配そうなヴィオを誤摩化した。
忘れてはいけない、彼も警戒しなければならない。
いくら毒気がなさそうでも、ローナさんと親しいという疑わしき既成事実があるのだ。
「ねぇ、ヴィオはここに来るまでどんなことをしていたの?」
彼のことを知らなければ。
私はそんな衝動に駆られた。
彼のことが信用できるのかを判断するには、彼のことを知らなければならない。
ヴィオは少し困惑した表情を浮かべたあと、お茶を一口飲んだ。
「前にも言ったけど、俺は旅の商人をしていたんだ。
生地を仕入れ、売り、また仕入れる。
そんなことを繰り返して町から町へとさまよっていたんだ。」
「一人で?」
見たところ彼はまだ成人していないだろう。
長男長女以外は成人する前に町の年長者によって職業を決められ、弟子につく。
一人前になったら独り立ちしたりするのだが、ヴィオは一人で旅商人をするような年齢ではないように見える。
「俺の師匠にあたるおっさんがいたんだけど、旅の途中で落馬して、あたりどころが悪くてそのままぽっくり逝っちまったんだ。
ったく、迷惑な話だよ。
散々こき使いやがって、あげく大量の荷物を押し付けてさっさといなくなりやがった。」
恨み言を言うような口調でそんなことを言うヴィオ。
「でも、いい人だったんだよね。」
大きく目を開け、こちらを見つめるヴィオ。
それ以上に、私は自分の口から出た言葉が信じられなかった。
それほどまでに思ってもいなかった、けれどもすとんとどこかへ収まるような言葉だったのだ。
「まぁ、赤毛だからって村を追い出された俺を旅ができるようになるまで仕込んだのはおっさんだしな。
でも、本当にひどい目ついたんだぜ!」
前半はぼそぼそと聞き取りづらい声で、そしてそれを吹っ切るように後から出てくる文句の数々。
持ちきれなくなった荷物を押し付けられた、売れない生地を渡されてなんとか売ってこいとケツ蹴られた、やれこの金でさっさと売れる生地見つけて買ってこいと明らかに足りない金額でやりくりさせられた、飯作ったらまずいと文句つけられた、肩もめ、酒つげ、馬洗えだのうるさいのなんのって……。
なぜだろう、彼の口から出るのは師匠に対する恨みつらみのはず。
なのに、彼の顔は清々しい?
いや、違う、もっとこう、思いが詰まったような感じ。
話すのが楽しくて、目がキラキラしているような気がする。
きっと好きなんだ、その、師匠という人が。
その人と過ごした時が愛おしいんだ。
その人との思い出を話すのが楽しいんだ。
あぁ、眩しいな、本当に。
彼の苦労自慢はお昼時まで持ち込んだ。
本当に、笑いが絶えない楽しい時間だった。
ちょろいと言われてしまうかもしれない。
でも、この時にはすっかりヴィオの誠意を疑う気は私の中から失せていた。
その後はゆっくりとした穏やかな時間を過ごした。
予定通りお茶をして、書庫の本を読んだ。
今度、ヴィオと二人で町へ行くという約束もした。
海が見れる場所があるらしい。
私が海を見たことがないと言ったら、一緒に見に行きたいとヴィオは言った。
行くとしたら、今度は空が綺麗に晴れた日がいい。
夕焼けに溶ける真っ赤な髪は、きっととても綺麗だろう。
その日は朝見かけた以降でコウタさんを見ることはなかった。