行き倒れと私 b
「今日は天気がとてもいいですよ。外で朝ご飯を食べませんか?」
黒髪の男の人は自己紹介のあとそう言った。
私もやりたいことは特にないので、そのまま庭に出ることにした。
コウタさんの指示に従って外に出てみると、なるほど、これは快晴だ。
青白い空には珍しく太陽の輪郭が見える。
紫外線が少し心配だが、今は『徳碌23年』。
『紫外線遮断層』の張り替えには50年近く余裕がある。
大きく息を吸うと朝露を含んだ空気がとてもおいしく感じる。
肌をなでる風が心地よく、空からの光が温かい。
なるほど、五感に訴えるとはこのことか。
もっといろいろ見て回りたい。
そんな衝動に従い、私は用意されていたテーブルから少し離れ、朝食までの待ち時間の間にちょっと散歩をすることにした。
朝の音はとても静かだ。
何処からか聞こえる鳥の鳴き声と芝生を踏む音しか聞こえない。
サク、サク、サク、サク。
歩いているうちにだんだん愉快になってきた。
わざと音を立てるように踏んでみたり、歩幅を大きくしてみたり。
気がついたら鼻歌混じりでステップを踏んでいた。
今の『私』は知らない曲だが、ゆったりと優しく、懐かしい旋律だ。
私はまるで踊るように芝生の上を歩いていった。
けれど、少し調子に乗りすぎてしまったようだ。
ここの庭は思っていたよりも広く、ここからでは木の下のテーブルは見えなくなってしまった。
その代わり、すぐそこに庭と外を隔てる木の柵が立てられているのが見えている。
もういいや。
ここまで来たついでに庭の外も見てみよう。
そんな好奇心で柵から身を乗り出してみると、なんと、人が倒れているではないか。
大きなバックパックを背負い、うつぶせに倒れた姿は、まるで大荷物に押しつぶされているようにも見える。
「……おーい、大丈夫ですかぁ?」
返事はない、が、屍認定するのにはまだ早い。
足を引っ掛けないように気をつけながら柵を乗り越え、行き倒れに駆け寄った。
とりあえず、手首に触ってみる。
体温は冷たいが弱々しくも脈はちゃんとある。
大丈夫、死人の冷たさではない。
しかし、困った。
この人、どうしようか。
ちなみに、このまま放っておくという選択肢はない。
いくら明日には全て忘れるとしても、今日に心残りは作りたくない。
そんな後悔をするなら、ここで精一杯やって後悔をしない方を選ぶつもりだ。
だが、勝手に庭に入れてもいいかわからない。
行き倒れに見せかけた強盗の可能性もある。
でも、このぼろぼろのぞうきんのような様を見る限り、そんな悪行をする体力もなさそうだ。
このまま放っておいたら明日には本当に屍になってしまいそうだし。
どう対処するのであれ、私一人だとどうしようもない。
しかし、コウタさんを呼びにいき、ここを離れてまた戻って来れる自信はない。
意外とこの庭、広いのだ。
とりあえず、この人を押しつぶしているであろう荷物をよけておくことにする。
肩ひもを最大まで伸ばし、無理矢理腕を抜く。
なんとか腕は抜けたが、バックパックが持ち上がらない。
何が入っているのかわからないが、ずいぶん詰め込んでいるようで、私の細腕では持ち上がらなかった。
汚れてしまうが仕方ない。
脇のほうから押して転がし、柵のほうに寄せる作戦にでることにする。
えっちらおっちら転がして、なんとか荷物を運んだはいいが、バックが埃まみれになってしまった。
元々薄汚れているから大した問題にはならないし、人命優先だ。
そんな言い訳をしつつ後ろをみると、そこにはバックパックにつぶされていたときには見えなかった、燃えるような赤い髪の少年が倒れていた。
16、7ほどだろうか。
濃い青の防水性のジャケットに色の薄くなったジーンズ。
全体的にほっそりとしていて、あんな大荷物をどうやって運んでいたのか疑問に思うほど肉がない。
さて、この場合って動かしたほうがいいのかしら。
それとも動かしちゃだめなんだっけ?
悶々としていたら庭の方から芝生を踏む音が聞こえる。
コウタさんが私のことを探しに来てくれたようだ。
声をかけて行き倒れ君を指差す。
コウタさんは私を見つけた安心と、めんどくさいものを見つけた困惑が混じり合った顔でやってきた。
それでも無視することはできないのか、行き倒れ君の脈を計ったり、全身のケガの様子を確かめたりした。
結局、特に目立った外傷はなく、疲労等による衰弱だと診断された。
彼のバックパックを背負い、腕を肩にかけて引きずるように家へと連れて行った。
よくもまぁそんな重いものを運べるなとは思ったが、それはきっと男の人だからだろう。
筋肉のつき方が違うのだ。
そのまま彼は一階の一室に連れてこられ、ベッドに寝かされ点滴を受ける。
ここはコウタさんの部屋なのだろうか。
家具はほぼ私の部屋と同じで、デザインもとてもシンプルだ。
違いを言うなら机の上にファイルが並んでいないことぐらいしか思いつかない。
点滴をしたら少し顔色が良くなった気がする。
行き倒れ君を眺めていたら、コウタさんが朝食を持って来てくれた。
レタスとオニオンとツナマヨネーズのサンドイッチ。
ぴりりとからいタマネギに顔をしかめたら、コウタさんがおかしそうに笑った。
そんなこともまったく気にならないくらいおいしくて、夢中になって食べてしまった。
ミルクティーを飲んでゆったりとしていたら、行き倒れ君が目覚めたようだ。
「……ここは?」
そう聞かれても、私にもわからない。
困ったようにコウタさんを見たら、「ここは僕たちの家です。」と無難に答えた。
そうか、ここは私たちの家なのか。
気分はどう?
「ちょっとくらくらしますが大丈夫です。」
そう。
ところで、どうしてあんなところに倒れていたの?
「僕は旅商人をしていて、次の町へ行こうとしたら、途中で馬が死んでしまい、仕方ないから歩いて移動いていたんだ。
水も食料もなくなっちゃって、もう何日食べていないのかわからない。
意識ももうろうとしてきて、あともう少しと言い聞かせながら歩いていたんだけど、次に意識がはっきりしたのがさっきなんだ。」
そばかす顔の旅商人君は申し訳なさそうに答えた。
でも、私が気になるのはそこではない。
旅商人?
「そうだよ。僕は主に生地を扱っているんだ。
町から町へと生地を売り、仕入れてまた隣町に売り歩くんだ。」
大変じゃない?
「確かに大変だし、余裕のある生活ではないね。
だけど、旅にでて、いろいろなものを見て、いろんな人と話すのが楽しくて仕方がないんだ。」
旅、それはきっと私からはほど遠い言葉なのだろう。
私はここから離れることなく、毎日同じような生活をして、忘れていく。
うらやましかった。
妬ましいという感情すら起きたかもしれない。
一瞬過ぎ去った様々な感情を無視するように、私は旅の話を彼にねだった。
行き倒れ君は助けを求めるようにコウタさんを見たが、しれっと「紅茶のおかわりを持ってきます」と出て行ってしまった。
コウタさんは助け舟を出すつもりはないようだ。
やがてつかれたように笑って、「ちょっとだけだよ。」と旅の話を聞かせてくれた。
旅の話をするそばかす君はとても生き生きとしていて、とても楽しそうで、私は彼の話にすぐに引き込まれていった。
結局、彼はお昼を過ぎても休むことができなかった。
今日は昨日とは違った、とても興味深い一日となった。
このまま明日には今日がなくなってしまうなんて信じられない。
今朝の混乱が遠い昔のように思えてくる。
あぁ、でも、明日からの私がうらやましい。
私に新たに友人ができたのだ。
たとえ、明日には『私』がいないとしても。
目の前にはまっさらな便せん。
さて、どうやって明日の私に伝えようかな……。
あぁ、頭が痛い。
後でコウタさんに薬をもらおう。