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キナ臭さは、アンモニアよりも刺激的

 時刻は午後五時を回っていた。一日中研究室にこもりきっていた新堂圭護(しんどうけいご)は喉の渇きを癒すため、飲み物を取るために立ち上がる。それまでエアコンの出す送風音やペンの音しかなかった静かな空間に、歪みから解放された背骨がバキバキと音を響かせた。残念なことに備え付けの冷蔵庫は空っぽだ。短い溜息ののち、仕方なく外へ出ることにした。ところどころ錆びついた金属製の扉を開けると、軋んだ音とともに残暑の空気が肌にまとわりついてくる。ここでの九月はまだまだ暑い。階段を上り下りするだけの簡単な動作でも、全身が汗ばんでくるほどだ。さらに嫌なことは、自動販売機のボタンを押した瞬間に、汗による嫌悪感を助長させるような男が通りかかることだろう。

 いまに始まったことではないが、その男、織本真哉(おりもとしんや)は俺のことが嫌いらしく、出会うたびに皮肉を口にするのはもはや癖みたいなものなのかもしれない。特に日差しを遮るものがない外で、なおかつ西日のきついこの時間帯に出会ったときは最悪だ。侍らせた女で道を塞ぐように歩いてくるこの男のせいで、直射日光に焼かれる時間が無駄に増える。同じ研究棟を使用している以上、廊下から外へ向かって歩いてくるのは普通なことだから別に構わない。だがわざわざ出入口を塞ぐ陣形を取るのは、やめてほしいものだ。入れなくなる。

 この日も結局例にもれず、わざわざ立ち塞がるように行軍を止めると、ニヤついた顔で嫌見たらしく言葉を発するのだった。


「おっと、新堂じゃないか。どこでいつ見ても、当たり前のようにみすぼらしいな。その汚い白衣くらいは脱いだらどうだ? もっとも、その下に来ているものもボロ同然だろうがな。目が腐っちまうぜ」

 

 取り巻きのけばけばしい女どもがくすくすと笑いをこぼす。香水の匂いが鼻に付き、自然と顔に皺がよる。


「ああ、腐りそうなのは同感だ。お前と同じ空間にいると鼻がひん曲がりそうになる。昼に何か悪いものでも食ったんじゃないのか? それ以上近づいてほしくないもんだな、腐臭がうつる」

 

 織本の整った顔が険しくなる。脳味噌の血管のうち、一本二本は切れたかもしれない。

 能力は確かにあるが、年齢に比べて幼稚なことが織本の短所だ。すぐに頭に血が上る。幸いなことに、いまに至るまで散々罵詈雑言の応酬はおこなわれたが、未だ暴力沙汰へ発展したことはない。それにお互い二十を超えた身だ。酒の力もない以上、簡単に逆上して襲い掛かるような子供ではないだろう。


「《成り損ない(ネグレイド)》の分際で調子に乗るなよ。お前の研究室くらい簡単に潰せるぞ」


「おお、天下の《特別者(スペシャル)》様は言うことが違うな。その台詞は何度目だ? いい加減飽きたところだ。新しい捨て台詞はないものかね」


 あからさまな差別用語だが、今更それに反応する人間もそう多くはないだろう。少なくとも、こちら側には。《成り損ない》は誇りと権威を捨てた敗北者という意味を込めて呼ばれる。逆に《特別者》は能力と才能に富んだ者の総体として定められた呼称だ。どちらも同じくらいの人数が存在しているが、《成り損ない》は畏怖や嫌悪の目で見られることが圧倒的に多い。取るに足ることでもないが。


「この野郎。……そうだ、聞いてるぞ? お前の所の教授、腰やっちまったんだってな? いい機会だ、大した価値もないお前らの研究室も解散したらいい。どのみち、来月の大会にはお前も出るんだろ? 適性試験に通ったのは聞いているぜ。そのときにでも徹底的に潰してやる」


「来年度の予算配分にかかわるからな。そろそろ大きな結果が欲しいと思っていたところなんだ。潰しにくるのは構わないが、俺を眼中にいれておく必要はないんじゃないか。目が腐るんだろう?」

 

 芳村教授は薬学科の権威であり、俺の親同然の存在でもある。馬鹿にすることは許せないが、ここで憤ってもどうにもならないだろう。それになにより、問題を起こして教授に迷惑を掛けることはできない。口撃だけにとどめておくべきか。

 

「ふん、精々足掻くことだな! 楽には終わらせないぞ。今年こそ、魔術科の人間が優勝する。この俺がな」

 

 織本は言い終わるとまた歩き出し、わざとらしく肩をぶつけて立ち去って行った。

 

 十月のメインイベントとなるのは「召喚大会」だ。理事長の思いつきで二十一年前からおこなわれているらしい。だが一番適性があるはずの魔術科の人間が優勝したことは一度もないとは皮肉なことだ。良くも悪くも、魔術科に振り分けられた学生は新種の人間の中でも取り分けてこれといった特徴がない。魔力制御に長けているだけでは乗り越えられない壁が多すぎるのだ。突出した化け物がほかの科に多いことも原因だろう。

 こういったイベントのある日だけは日本国内から報道機関が立ち入ることが認可されている。「プレーン」の治世を掌握した総括理事アルダー・フィリップスの手によってここ四十年でこの隔離都市は著しく成長した。それは政府が不安になるほどのものだった。実際、日本政府が提示した制約はほとんど役に立ってはいない。政府はこの都市を監視している体を国内に向けて示しているが、実情はアルダー理事の手によって、ほとんど全ての情報が隠匿されている。

 だからこそ、大衆へ向けたエンターテイメントや、プロパガンダの一環として、限定的にだが、新種と呼ばれて蔑視されてきた人間の生活を放映することにしている。

 理事長はこれを、撒き餌のようなものだと言っていた。一部の人間だけでもこういった人種を認めてくれるのならば、それが火種になって新しい思想の団体が生まれる。新しい人の形として受け入れるための思想が必ず、と。いま存在する「プレーン」に子を捨てるという発想が、いずれは我が子を預けるという安定した思考に変化していくというものだ。

 ただでさえ政府からの助成金以外にも交易その他で儲けているというのに、今度は子の親からも同様に金をせしめるつもりなのだろうか。理事長の真意は読めないが、差別からの解放は素直にすばらしいものだと感じられた。協力することで居場所も保障されるのだから、ここで生きる人間が彼に反抗心をもつこともない。


 まだぎりぎりで冷たいといえる缶ジュースを取り出し口から引き抜きながら、来月のことを考える。召喚するものはどうしようか。いまの実力の下ではどんなにいい触媒があってもアメーバ以下の低次な霊格しか呼べないだろう。多少は強引なアレンジも加える必要があるかもしれない。

 五階にある研究室に戻る頃には、三五〇グラムの缶ジュースはだいぶぬるくなってしまっていた。エレベータの改修工事は、存外疎ましいものだった。

 それ以上に、研究室の中までぬるくなっていたのは心にくるものがあった。


「……おい、お前いつ来たんだ?」

 

 エアコン直下のソファに寝転んでノートを広げている少女がいた。芳村千佳(よしむらちか)、一年生だ。

 ここにくるまですれ違った記憶はないし、そもそもあらゆる施設に近い内向きに設計された出入口は織本のせいで埋まっていたはずだ。ともすれば、


「……反対側まで回って入った。なんか……不穏だったから」


 予想通りだった。

 

「やっぱりか。それに見てたのか、普通に出てきてもよかったろうに。つうかエアコンの温度上げんなよ。暑くて死にそうだ」


 彼女が一歳の頃からの付き合いだ。気心は知れている。だが愚痴らずにはいられない。


「……あの人、嫌な匂いがするから、無理。あと……私寒いの、無理」


 どうやら織本が趣味じゃないだけだったらしい。尊敬できるような人間でもないし、そんなものだろう。


「そう。で、また何の用でここに? 先に言っておくが、俺はあの家に帰るつもりはないぞ」


 千佳は起き上がってノートをよけて、こちらをじっと見据えてくる。核心だったらしい。いつもと一緒だ。

 センターで分けた黒のショートヘアが揺れる。少し垂れた目尻と眠たげな瞳が真っ直ぐ俺を射抜いていた。小動物めいた可愛さがあるが、いつも通りそれだけだ。多くを喋らず、目で訴える。引っ込み思案なところがあった幼い頃と、コミュニケーション方法がほとんど変わっていない。


「……私は、別に。ただ……お父さんいま動けないし、たまには……昔みたいに、家族で一緒にいたいなって」


「全部、先生とも話はついたことだ。ここで会う分には普段通り接しているし、様子を見に行く分にも構わない。……だけど一緒には住めない。甘えっぱなしなのは(しょう)じゃないんだ。俺もそろそろ家族離れしないと、いろいろ駄目になりそうだからな。わかってくれ」


「……じゃあ、しばらくここにいる」


 どうやら完全に拗ねてしまったようだ。千佳はまた横になってノートを開く。これ以上何を言っても無駄だろう。真面目に勉強もしているようだが、最近できたという不良の友人との関係も不安だ。


「……今日は七時から寄合だから、ここ閉めるぞ。時間になったらちゃんとまっすぐ帰れよ。先生が心配する」


「……了解」


 パイプ椅子に腰を下ろす。書きかけの論文が目に入る。無性に初めから書き直したくなってしまった。だがやり直すことは、難しい。それがなんであれ。


「ああそうだ。これ飲むか?」


 ぬるい、赤とピンクの色合いが特徴的な缶を持って見せる。千佳はちらっと見ただけで、すぐに視線を戻してしまった。


「……ネクターは、モモよりリンゴのほうが、絶対においしい」

 

 御眼鏡に適わなかったらしい。非常に残念だ。昔から、これだけは絶対に逆らってくる子だった。何度も教育的指導をおこなったはずなのに、一向に改心する気配がない。


「絶対モモだろ。ふざけんな、ちくしょう」


 

 開けてちびちび飲んでみると、やはりぬるくて、やはりおいしいのだった。


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