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悪魔のように黒く(2)

「へぇ…驚いたな、本当にムッシュ・ロスコーによく似ている。よく、こんな子を見つけましたね」

 部屋に入って最初にルネに声をかけたのは、ローランと向かい合ってソファに座っていた若い男性社員だった。ミラがボルドー地区の担当マネージャーだと言っていたけれど、ルネともそれほど年が離れているようには見えない。ローランは邪魔で使えない人間をばっさり切って捨てた後、若くても才能とやる気のある人間をどんどん登用していったというが、そのいい例だろう。

「はじめまして、ルネ・トリュフォーです」

 ルネが丁寧に挨拶すると、彼も人当たりのいい笑顔で返してくれた。

「僕は、アシル・クロード・リュリ。よろしくね、ルネ君」

 ローランはと言えば、2人の会話が耳に入っているはずなのに目も上げず、気難しげな顔をして、テーブルの前に広げた書類に目を通している。

「どうぞ、コーヒーです」

「ああ、ありがとう、丁度熱いコーヒーが飲みたかったところだったんだ。昨夜遅くに帰ってきたものだから、まだちょっと疲れが取れてなくってね」

 人懐っこい性質らしいアシルに少し緊張がほぐれるのを覚えたルネは、ローランの前にもコーヒーのカップを置いた。

「どうぞ、ムッシュ・ヴェルヌ」

 ローランは他の何かに心を捕らわれているのか、ルネに注意を払うこともなく、無造作にカップを持ち上げた。温かいコーヒーの香りがカップの中からふわりと立ち上る―それを嗅いだ彼は、鼻をちょっと皺めて、口元に運びかけたカップを再び下ろした。

「…淹れなおせ」

「えっ?」

 つい聞き直してしまったルネの顔を、ローランはじろりと睨んで、苛立たしげに命じた。

「朝っぱらから、こんなまずいコーヒーなんぞ飲みたくない。さっさと淹れなおしてこい!」

 同じコーヒーを飲んでいたアシルが、目をまん丸くして、

「えっ、別に、普通に美味しいですよ…」と呟いたが、ローランは無視だ。

「も、申し訳ありません…すぐに新しいものに変えてきます」

 ルネは慌ててカップを取り下げ、逃げるように部屋から飛び出していった。

「あら、ルネ、どうしたの…?」

 顔を強張らせたルネが副社長室から出てきたのを見咎めて、ミラがデスクから声をかけてきた。

 しかし、それに応えるゆとりもなく、ルネはずんずん部屋を横切って、先程使用したばかりのコーヒー・メーカーが置いてある小テーブルの所まで戻り、コーヒーを乗せたトレイを置いた。テーブルに両手を置き、気持ちを静めるよう、肩で大きく息をついた。

「まずいから飲めないだって…? 口もつけていないくせに、よくも、そんな―」

 ルネは、ずきずきと痛む頭を震える手で押さえた。

 ローランの冷たい言葉を聞いた時は、ただ動揺して、そのまま副社長室から飛び出してきたが、今は怒りと悔しさが勝る。

(先週末以来ずっと会っていなかったのに、僕の顔を見るなり、第一声が、あれか? 例えあの夜のことは遊びだったんだとしても、もっと他の言葉をかけてくれたっていいだろう…いや、違う…!)

 ルネは自分の女々しさを振り払おうとするかの如く、激しく頭を振った。

「一体どうしたというの、ルネ?」

 気遣わしげな声がかけられるのに、ルネが顔を上げると、ミラが傍らに立っていた。

「ムッシュ・ヴェルヌに、何か言われたの?」

 ルネは弱々しく微笑んだ。

「いえ、別に…ただ、僕の出したコーヒーを、まずいから飲めない、淹れなおせと突き返されただけです」

「何ですって?」

 ミラは眉をしかめ、コーヒー・メーカーに残っていたコーヒーを新しいカップに注いで、味見をした。

「…別に、まずくなんてないわよ。いつもここで出しているのと同じコーヒーよ。おかしいわねぇ、豆だって変えてないし、コーヒー・メーカーを使うなら、誰が淹れたって同じ味のはずでしょう。私が淹れても、まずいなんて文句を言われたことはないわよ? だからって、別に美味しいと言ってもらったこともないけど…」

「でも、実際、ムッシュは匂いを嗅いだだけで、駄目だと言ったんです」

「何よ、一口も飲んでいないのに、そんな言いがかりみたいなことを言った訳? それはちょっと酷いわね…私が淹れなおして、代わりに持っていきましょうか、ルネ? 単に機嫌が悪かっただけだと思うわ。あなたが相手だと軽く見て、腹立ち紛れについあたったのかもしれない…」

 ミラの言葉に半分耳を傾けながら、一方でルネは、必死に考え続けていた。

(僕の淹れたコーヒーをまずいとあの人は言った…でも、実際舌で味わった訳じゃない。カップから立ち上る香りを嗅いだだけだ…匂い…コーヒーの匂いだけで、受け付けなかった)

 ルネははたと思いついたかのように頭を巡らせ、カップやグラス類と一緒にコーヒー豆の缶が収納されている棚を見上げた。小型の冷蔵庫が入っているキャビネットの上に置かれた細長い棚の上部には、同じコーヒーの未開封のストックが入っているから、缶の中身がなくなったら、それを開封して使うようにとミラから教えられていた。

 何気なく目を上げると、天井に据え付けられている空調機に気がついた。

 ルネが、コーヒー缶を出そうと上げた手を棚の上部にまで持っていき、かざしてみると、空調から出る温かい風が手にあたった。ここ数日急に冷え込んだため、いつの間にか暖房に切り替わっている。

(ふうん…コーヒー豆をストックしている棚に直接エアコンの風があたる訳か…ああ、何となく原因が分かってきたような…)

 ルネは棚を開いて、先程使ったコーヒーの缶を取り出し、蓋を開けた。

「豆が原因だと思うの? でも、ルネ、ここで使っているコーヒーは、ルレ・ロスコー系列のレストランに卸しているのと同じものよ。アラビカ種の上質なものを使っているから、品質的に問題はないはずよ」

 確かにミラの言う通り、予め細挽きにしてあるコーヒーは、ルネが学生時代1人暮らしのアパルトメンで暮らしていた頃に使っていたような、スーパーで買うものと比較にならないほど上質だと思っていた。けれど―。

「普通の人は気付かず、満足できるレベルだと思うんですけれどね…でも、あの人は…」

 ルネは蓋を外した缶を鼻の近くに持って行って、中のコーヒーの匂いを嗅いでみた。

(うん、やっぱりいい豆を使っている。この甘くてフルーティーな香り…スーパーのコーヒーとは比べ物にならないや。でも、注意してみると、心地よい芳香の中に微かな異臭が混じっている。何だろう、古くなった油のような…酸化した臭い…)

 先程このコーヒーを出した時のローランの反応が、閉じた瞼の裏に浮かぶ。鼻腔に入ってくる香りに、我慢できないとばかりに顔を背け、コーヒーを運んできたルネを苛立たしげに睨みつけてきた。

(そう言えば、出勤途中に前を通るカフェ…とても美味しいコーヒーを出すと評判だったな。いつもたくさんの人で混み合っていて、なかなか立ち寄る機会がなかったけれど、いつかあそこのコーヒーを飲んでみたいと思うような、とても素敵な香りが漂っていて…確か、焙煎した豆の販売もしていたような…)

 はたと目を開けたルネは、コーヒー缶をもとの場所に戻しながら、腕を組んで自分の様子を窺っていたミラを振り返った。

「ミラさん、すみません、ちょっと出かけてきます」

「え?」

「ムッシュがこのコーヒーを駄目だと言った理由がどうやら分かったんで、代わりのコーヒーを調達してきます」

 やけにやる気になっているルネの様子に、ミラは呆れたように目を丸くした。

「あの人の我儘のために、わざわざ外にコーヒー豆を買い出かけることはないと思うけれど?」

「それは、そうかもしれないですけれど…やっぱり、行ってきます。あんな言い方されたら、何だか僕もむきになっちゃって…そんなに遠い場所じゃないし、20分以内に帰れると思いますので、後はよろしくお願いします」

 賛同しかねるといった表情のミラに、にこっと笑って頷き返したルネは、時間が惜しいとばかり、そのまま部屋から飛び出していった。

「全く、何をそんなに一生懸命になるのだか…」

 ミラの溜息混じりの呟きなど、何が何でもローランを満足させるコーヒーを淹れてやるという意地と使命感に駆り立てられている、今のルネには届かなかった。

 それにしても、本人は気付いていなかったかもしれないが、この数日人形のような無表情で淡々と仕事をこなしていたのが嘘のように、今のルネは生き生きしている。ローランに怒鳴りつけられたことが、劇薬のようによほど効いたのか。しかし、ルネを失意のどん底に叩きこんだ元凶であるローランが戻ってきた途端、腹を立てたり、悔しがったり、笑ったりという人間らしい感情を、ルネが取り戻したのは、思えば不思議な話だった。

 そして、約20分後、小さな紙袋を片手に引っ掴んだルネが、息を弾ませ、オフィスに帰ってきた。

「ミラさん、ミルは確かありましたよね?」

「え…ええ、コーヒー・メーカーと一緒に買ったのがあったはず…面倒だから、この頃は使わなくなっていたのだけれど…あら、豆のままで買ってきたの?」

「はい、カフェの人と相談して、挽いた状態より、この方が少しでも劣化しにくいだろうということでしたので」

 それがどうしたのだと言いたげなミラに探し出してもらったミルを使って、買ってきた豆を挽いてみる。それだけで、ふわりとコーヒーの良い香りがたつのに、ルネは目を細めた。

「ここのカフェ、豆は自家焙煎なんですって…これも今朝火を入れたばかりで、僕も香りを確かめさせてもらったんですけれど、鮮度なら文句のつけようのないくらいのものです」

「鮮度が問題だったっていうの…? ここにあるコーヒーだって、取り寄せてから、まだそんなに経ってはいないと思うけれど…」

「確かに、あれを古くなったと処分してしまうのはもったいないと思います。たぶん、普通の人なら気にならないほどの微妙な変化でしょうね。僕も、こんなものかと思えば、まあ、普通に美味しく飲めますし…ただ、本当に新鮮ないいものと比較してしまうと、ああ、やっぱり違うなって分かってしまう」

 ミラに説明する間も、ルネはてきぱきと動いて、先程と同じコーヒー・メーカーを使って、同じ分量のコーヒーを作った。

「豆の量もお湯の温度も同じ…ブレンドの配合もここのストックに近いものを選んできました。これで駄目だと突っ返されるようなら、僕にできることはもうありません。正直に、僕はコーヒー職人じゃないので無理です、あなたの口に合う美味しいコーヒーを飲みたいなら、どうぞ外で飲んでくださいって、言ってやります」

「あら…」

 やれるだけのことをやったルネは、ミラに向かってはっきりと宣言した後、コーヒーのカップをトレイに乗せて、再び副社長室に向かった。

「失礼します」

 ルネは軽くノックした後、ドアを開いた。

「遅くなって申し訳ありません、ムッシュ・ヴェルヌ、コーヒーを淹れなおしてきました」

 落ちついた声音で呼びかけながら、ルネが素早く目を上げ確認すると、アシルは既に退席した後のようで、部屋にはローランが1人、デスクに座って、分厚い書類の束に目を通している。

(まだ低気圧は去っていないみたいだな)

 顔を上げてルネを見やる気配もなく、眉間に皺を寄せて、目の前の仕事に集中しているローランを注意深く観察しながら、ルネは滑らかに動いた。

 そうしてローランの傍に立ったルネは、ごく低い声で話しかけながら、デスクの上にそっとコーヒーのカップを置いた。

「どうぞ、熱いうちに召し上がってください」

 真っ白なカップの中で揺れるコーヒーに目を落としながら、ルネはふと、この黒い液体の味と香りに魅せられた、昔のある政治家が残した言葉を思い出した。

(確か、ナポレオンに仕えた人だったな…よいコーヒーというのは、悪魔のように黒く、地獄のように熱く…とか言ったんだ。その後に、どう続いたんだったっけ…?)

 カップから立ち上る芳香の素晴らしさに惹かれたのは、ルネだけではなかったようだ。ローランが黙々と仕事を進める手を置いて、ちらりと目の前のカップに視線を向けた。

(ローラン、今度は味見くらいしてくださいよ。でないと僕、さすがに切れて、そのコーヒーを頭からぶっかけちゃいますよ…?)

 ルネが固唾飲んで見守る中、ローランはカップを持ち上げ、口元に運んだ。そのまま、立ち上る香りを確かめるよう、しばし手を止めた後、彼は、ルネが思案の末に用意したコーヒーに口をつけ、その一口を深く味わうよう、ゆっくりと飲んだ。

(あっ、笑った…!)

 その厳しく寄せられた眉が和らぎ、口元が僅かに綻んだのを見た時には、ルネは、嬉しさのあまり、やったと叫んで飛び上がりそうになった。

「…確か、タレーランだったな」

 ローランはもう一口、コーヒーを味わった後、満足そうに微笑みながら、こんなことを呟いた。

「良いコーヒーというのは、悪魔ように黒く、地獄のように熱く…と言ったのは…」

 さっき自分が思い出しかけていた言葉をローランが口に出したのに、ルネはどきりとなった。

「そ、それから…?」

 続きが知りたくて、思わずルネが催促すると、ローランはもう少しこの香りに浸っていたいというように目を閉じて、言った。

「…天使のように純粋で、そして、愛のように甘い、だ」

「ああ、そうでした…思い出して、すっきりした」

 美食家としても有名な敏腕政治家のタレーランが、美味しいコーヒーを口にした際の賞賛として伝えられているこの名言は、今でも度々良いコーヒーを語るのに用いられる。

(この言葉を引き合いに出したということは…ローランは、僕の淹れたコーヒーを美味しいと思ってくれたんだ)

 苦労が報われたルネは、肩から力が抜けるのと同時に、無性に嬉しくてたまらなくなってきた。ローランに酷いことを言われて、悔しさのあまり泣きそうになったことも忘れ去るほどに。

「…やっと人心地ついた気がするな。ボルドーでは、出された食事もコーヒーも最悪だった…毒を盛られなかっただけ、まだましだが―」

 ボルドーのホテルでトラブルが起こったとミラが話していたのを、ルネは思い出した。新しいトップ2人に対して批判的な保守派の人間はまだ残っていて、その急先鋒がボルドー地区にある古いホテルなのだそうだ。マネージャーの手に負えず、副社長のローランが直々に出て行った程なのだから、相当にもめたのだろう。

「お疲れのようですね」

「今回は穏便にすませるつもりだったんだがな…結局うまくいかず、ホテルの支配人と他何名かを処分した。中にはできれば残しておきたかった有能な人材もいたんだが、こちらの気持ちは通じなかったようだ。人でなしの悪魔だのと散々に罵られぞ。やれやれ、面罵されるのにも大概慣れたつもりだが、今回ばかりは、少々疲れた」

 嫌なことを思い出したのだろう、ローランは再び眉をしかめ、カップに残っていたコーヒーを一息に飲み干した。

「人の上に立つ人間は、舐められたら終わりだ。そのくらいなら、悪魔のように恐れられた方がいい」

「でも…人の上に立つ人間は、部下に憎悪されるようなことも避けるべきではないですか…?」

 つい口を挟んでしまったルネは、これでまたローランの機嫌を損ねるのではないかと一瞬恐れたが、彼が気にした様子はなかった。

「ああ、そうだな…その辺り、今回の相手は、どこかで扱いを間違ったんだろう。しかし、憎まれることを恐れていては、大きな変革はなしえない。だから、何かあった時は、俺が憎まれ役を引き受けることになっている。そのためのツートップ体勢だ…社長のガブリエルのイメージは、あくまで綺麗なまま守られなければならないからな」

 ガブリエルの名前をローランの口から聞いた途端、思い出したくないことを思い出してしまったルネは、顔を強張らせた。

「まあ、ボルドーでの一件はもう終わったことだ。それよりも、ルネ、美味いコーヒーをありがとう」

 ローランは椅子の背にもたれかかりながら、デスクの傍に立ちつくしているルネに向かって、柔らかく微笑みかけてきた。

「さっきは酷いことを言って、悪かったな」

「い、いえ…」

 職場では鬼みたいに眉を吊り上げてばかりいるのかと思っていたら、突然こんな優しい目を向けてくるなんてずるいと、ルネは密かに唇をかんだ。

(ううん、それより何より、僕に嘘をついて騙しておきながら、何食わぬ顔をして親しげに話しかけ、僕の心をかき乱すことが許せない…)

 突然胸の奥からこみ上げてきた、怒りと悲しみがないまぜになった感情に、ルネは唇を震わせる。

すると、ローランは怪訝そうに瞬きをして、椅子から僅かに身を乗り出した。

「ルネ、どうした…何だか、顔色が悪いぞ。おまえこそ、随分疲れているんじゃないのか…?」

 ああっ? 一体誰のせいなんだ、誰の?! 

 口から飛び出しそうになる罵詈雑言をぐっと飲み下して、ルネは空になったコーヒー・カップを素早くトレイに乗せると、くるりとローランに背中を向けた。

「失礼しました」

「おい…」

 ローランが何か言いかけるのを拒絶して、ルネはそのまま逃げるように部屋から飛び出していった。

(駄目だ…やっぱり僕は、ローランを前にして平静でなんていられない。裏切られたと思い知ったのに、まだ、あの人のことが好きなんだ…ああ、最悪…)

 副社長室のドアにもたれかかったまま悄然と肩を落としているルネに、ミラが近づいてきた。

「何よ、今度もうまくいかなかったの?」

「い、いえ…コーヒーはうまくいきました。美味しいと言って、ちゃんと全部飲んでくれましたよ」

「それなら、どうして、そんな浮かない顔をしているのよ…?」

「別に…ただちょっと緊張が途切れて、脱力していただけです」

 ミラの手前強がってみせたルネは、本当に何事もなかったかのような自然な態度を心がけながら、残ったコーヒーを彼女と一緒に味見した。

「確かに、美味しいわねぇ」

「そうですね、悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、愛のように甘いかどうかは分からないけど…」

「え?」

「いいえ、何でもないです。えっと、ミラさん、説明しますね…ムッシュが最初に僕が淹れていったコーヒーを駄目だと言ったのは、たぶん、エアコンの暖かい風にあたり続けたコーヒーの香りの劣化に気付いたからです。あそこの棚はコーヒーの保管場所としては適切ではないので、他の場所に変えましょう」

 ミラは、ルネが指差したエアコンの位置を目で確認しながら、なるほどというように呟いた。

「そうだったのね…一か月ほど前に部屋の模様替えをして、その時にあの棚の場所も変えたのよ。それがエアコンの近くになっていたことが、悪かった訳ね」

「それから、コーヒー自体は、今までと同じ豆で十分ですが、なるべく少量ずつ、こまめに新しいものを購入するようにすること。そして密閉できる容器に入れて冷凍保存するか、でなければ豆のままで保管して、使うたびにミルで挽いてからコーヒーを淹れるようにする…こうすることで少しでも鮮度を長く保てると、カフェの店員さんに教えてもらいました」

「ううん、いちいち豆を挽くのは面倒だわねぇ…忙しい時にそんな注文されたら、私なら、切れちゃうわよ?」

「でも、ムッシュは外出されることも多いようだし、日に何回もコーヒーを淹れる訳じゃないでしょう…? 来客のあった時も含めて数回程度なら、僕がご用意します」

 ミラは白々とした冷たい目で、ルネの真面目な顔をじいっと見つめた。

「あなたって、馬鹿ね」

「は?」

「私に言わせれば、あなたはムッシュの我が侭を聞き入れるべきではなかった。大体、私相手なら、今までそんな文句をつけたことはなかったのよ。それを、あなたが一度許してしまったために、今後もずっと、同じ要求を叶え続けなければなくなってしまった。それに、あなたなら多少の無理はしても解決策を見つけてくると分かった以上、あの人はまたいつか、別の難題を突き付けてくるでしょう。あなたはそれでよかったの、ルネ?」

「そ、それは…」

 ミラの鋭い指摘に、ルネはぐっと言葉に詰まった。

「コーヒーくらいなら別にいいですけれど、何でもかんでも僕が聞き入れると思われるのは…ちょっと…」

 もしかしてまずいことをしたのかと後悔しかけたルネだったが、その時ふと、自分の淹れたコーヒーを美味いと言って飲んでいた、ローランの柔らかな笑顔を思い出した。

(ミラさんの言う通りだとは思うけれど、あんな顔をされちゃったら…やっぱり僕は許してしまうんだろうなぁ…ほんと、ずるい人だ…)

 ルネは観念したように肩を落として、小さく笑った。

「仕方ないですね。ムッシュにまた何か難しい注文を突きつけられたら、その時はその時、僕は今日と同じように自分のできる限りのことをしてみるだけです」

 これもまた惚れた弱みというやつだ。この弱みに付け込まれること自体、それほど嫌ではないルネだったが、惚れた相手の心が自分のものではないということは、どうにもならないくらいに辛い。

「ほんとに馬鹿な子…がんばりすぎて壊れないよう、気をつけなさい」

 ミラは諦めたように、溜息混じりの忠告を残して、自分のデスクに戻っていった。

(がんばりすぎて壊れないように、か)

 コーヒー豆の保管場所を冷蔵庫に移し、片づけものをしながら、ルネはぼんやりと思った。

(でも、僕は一体どう気をつければ、壊れないですむのかな? どうすれば、あの人がすぐ傍にいる状況で、これ以上平静を保ち続けることができるのかも分からない…本当は、今にも砕け散ってしまいそうなのに…)

 ローランが戻ってきた金曜日。今日一日を乗り切れば、明日は休みだから何とかなると言い聞かせながら、ルネは黙々と仕事に打ち込み続けた。

 しかし、そうやって自分の殻に閉じこもることで副社長室にいるローランの存在を忘れようとしても、結局、そんなことは無理だと思い知るばかりのルネだった。

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