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Blanc de Blancs(12)

「あ…」

 ガブリエルとの打ち合わせ通り、初めは冷静に病室の外で待機しながらドアの向こうのやり取りに耳を傾けていたルネだが、次第にじっとしておれなくなっていった。

 特に話の終盤でガブリエルがローランを誘惑しだした辺りからは、半分開いたドアの隙間から覗くだけでは留まらず、いつしか身を乗り出すようにして、はらはらしながらことの成行きを見守っていた。

 そして、気がつけば今、ベッドの上から半ば身を起こしたローランとその傍らに澄ました顔で寄り添っているガブリエル、二人の視線はしっかりとルネを捉えている。

「そんな所でもじもじしていないで入ってらっしゃい、ルネ」

 ガブリエルが平然と促すのに、ルネは緊張のあまりぎくしゃくした動きで病室に足を踏み入れた。

「どうですか、私はうまくやったでしょう? あなたがローランから聞きたがっていた話は、たぶんほとんど引き出せたと思いますよ」

「は、はあ…ありがとうございます。でも、最後のあれはちょっとやりすぎというか、もしかしたら本気であなたは彼を誘惑しているのだろうかとひやひやしました。僕はあそこまでお願いした覚えはないんですけれど…」

 つい詰るような口調で囁くルネを、ガブリエルは悪びれもせずに軽くいなした。

「あんな子供だましの戯れごときで、何を肝の小さいことを言ってるんです、ルネ? この私にものを頼んだからには、最後まで私を信じ、細かいことには目をつぶって任せることですよ」

 無邪気に笑って片目をつむるガブリエルを、ルネはどこまで本気なのかと探るような目で見つめた。

「おまえら、二人して俺を引っかけやがったのか」

 凄みを含んだ声が唸るように言うのに、ルネはとっさにそちらに目を向ける。

「ローラン」

 謀られたという怒りからか、顔を真っ赤にしてわなわなと震えていたローランだが、ルネと目があった途端、動揺もあらわに顔を背けた。

 そんなローランを見ると、彼と正面対決する覚悟でここに乗り込んできたルネも急に心が揺らいで、どんなふうに話を切り出せばいいのか分からなくなった。

「さて、私の役目はここまでです。少なくともお互い誤解や行き違いがあったことは確かめられたんですから、後は当事者同士が腹を割って話し合い、解決することですね」 

 ぎこちなく黙り込んだきりの二人を見比べていたガブリエルは、やがて退屈したようにそう言って、おもむろに立ち上がった。

「お、おい、ガブリエル…」

「あ、ムッシュ・ロスコー…」

 たちまち助けを求めるような視線が双方から飛んでくるのに、ガブリエルはうんざりしたように美しい眉を吊り上げた。

「いい加減になさい、ローラン、あなたもいい大人なんですから、恋人に対する大失態の埋め合わせくらい自分でできるでしょう」

 胸に指を突きつけるようにして叱責されたローランは、うっと言葉に詰まって、ガブリエルに向かって伸ばしかけた手をそろそろと下ろした。

「それから―ルネ」

「は、はい」

「私も責任上、ここまではあなたを助けましたが、後はあなた自身がちゃんとローランと向き合い、自分の言葉で彼に伝わるよう訴えるんですよ。そうして、気持ちが通じたなら、今度こそローランをしっかり捕まえて離さないことです」

 ガブリエルはふいにルネの腕を引き寄せ、その耳元に本気とも冗談ともつかぬ口調で吹きこんだ。

「さもないと、あなたにローランをあげるのはやっぱり惜しいと、私は気を変えるかもしれませんよ?」

「ええっ、それは困ります」

 本気に取ったルネが青ざめて首を振るのを見て、ガブリエルは吹き出した。

「冗談ですよ」

 ルネの肩をなだめるように叩いて、そのままふわりと身を翻し、軽やかな足取りで病室を出て行った。

 こうして、いつの間にかすっかり白々と明るくなった病室に、ルネとローランは二人きりで残された。

 最初に沈黙を破ったのは、ローランだった。

「…おい、いつまでもそんな所に突っ立ってないで、こちらに来て、椅子に座ったらどうだ?」

「はい」

 ルネはすうっと深呼吸をした。改めて腹をくくって、ベッドの上で自分をじっと待ちうける構えのローランに近づいて行った。

「昨夜のあれで、俺にはもう愛想をつかせて田舎に帰ったかと思ったが、意外におまえもしぶといんだな。その上ガブリエルまで使って俺の本心を探りだそうとするなんて、なかなかあざとい真似もする」

「そうですよ、僕はこう見えても、なかなかあきらめが悪いんです。昨夜のあなたのひどい言い草には激怒しましたけれど、後から考えるとなんだか色々腑に落ちなくて…最後の手段として、ムッシュに頼ることにしたんです。僕には言ってくれないことでも、あなたはガブリエル相手ならうっかり漏らすかもと期待したんですが…本当にダダ漏れでしたね」

 苦虫をかみつぶしたような顔になるローランを、ルネは白々と冷たい眼で見つめた。

「僕の頭の中にお花が咲いてるなんて、よくも言ってくれましたね。あなたの僕に対する認識不足は相当なものですよ、ローラン」

 ローランはいつもの癖でパジャマの胸のあたりを左手で探るような仕草をしたが、そこに煙草はなかった。

「煙草なんかに逃げようとしないで、僕とちゃんと話をしてください」

 ルネが真面目な顔つきで訴えると、ローランも観念したのか、意外にあっさりと応えた。

「逃げるつもりなんかないさ、ルネ…まあ、どのみちこの状況では逃げられはしないがな」

「あなたが昨夜、あんなひどい態度を取ってまで僕と別れようとしたのは…つまり、そうすることが僕のためだと考えたからなんですね?」

 ローランの唇に自嘲めいた薄い笑みが浮かんで、消えた。

「まあ、そういうことだ。俺は、もともとからして、純粋におまえに惹かれたというより、駒として利用するためにパリに呼んで誘惑したようなものだからな」

「んー、やっぱり、そうだったんですか?」

 ルネはどう反応すべきか迷うような微妙な顔つきで、首を傾げながら問い返した。

「最初は、何かあった時のためにガブリエルの護衛兼影武者として雇おうかとも考えていたんだが…いざおまえを手元に置いてみると手放すのが惜しくなっていった。あくまで秘書として俺の傍に置きながら、ガブリエルを煩わせるうるさいマスコミの目を撹乱するためにでも、たまに役立ってもらえれば充分だった。それでも、ガブリエルの身辺がいよいよ怪しくなってくると、おまえには無断で敵をおびき寄せるための道具として利用することに、俺はためらわなかった」

「人でなしですね」

 ルネが小さくなじるとローランは一瞬目元を震わせたが、それ以外は感情の揺れなどそよとも見せず、至って冷静に話を続けた。

「全く、その通りだ。俺にとって、大切な恋人だろうが身内だろうが、目的のために利用できるものはとことん利用するのは当たり前だった。そういうことをお前が知れば、どんなにか傷つくだろうとは分かっていたが…動き始めた計画の途中で私情を挟んだがために下手を打つような危険は冒せない。結局俺は、おまえよりも自分の目的を優先した」

「それなら、最後まで僕をだましてくれたってよかったのに…?」

 ルネが悲しそうに微笑むと、ローランの顔にもほろ苦い表情がうかんだ。

「おまえを騙し続けることに、だんだん自信が持てなくなってきたからな。罪悪感なんてものの持ち合わせが、俺にあったとは驚きだが…」

 ローランは途中で言葉を切って、しばし放心したように黙り込み、茫洋と何もない空を眺めた。再びルネに視線を戻すと、淡々と感情を欠いた声で続けた。

「おまえをあくまで駒として利用することに徹しようと決めた代わりに、この件が終われば、おまえに俺の正体を知らせた上で手放すことにした。これ以上は続けられないと思った…おまえの信頼を裏切ることも、俺の酷い部分を見せつけることも…」

「いい加減にしてください!」

 ルネがいきなり大声をあげて話を遮るのに、ローランははっとなった。

「もうたくさんです…昨夜のあの悲惨な体験が、僕のためにしたことだなんて聞かされても、はい、そうですかって素直に納得できるわけがないでしょう! 大体、あなたの傍にいれば僕が傷つくとか不幸になるとか、僕のことなど本当はちっとも分かっていないあなたに勝手に決めてもらいたくはない!」

 怒り心頭に発したルネは椅子から身を乗り出し、彼の剣幕に呆然となっているローランの胸倉を掴んで自分の方に引き寄せた。

「僕はあなたの夢みているような清廉潔白な人間じゃない。ごく普通に、好きになった人によく思われたいからと自分の正体をひた隠しにして下手な芝居をすることもあれば、恋敵が現れれば表面上はおっとりと気にしてないふりをしても胸の中はどろどろした嫉妬でいっぱいにもなる。あなたの横柄な態度はことあるごとに僕の忍耐をぎりぎりまで試してくれましたが、想像の中では、そんなあなたの横っ面を何度張り飛ばしてやったかしれない」

 火を噴くように言い放った後、ルネはふうっと一呼吸し、幾分冷静さを取り戻した口調で尚も続けた。

「大体、あなたのあくどいやり口に僕が耐えられないなんて、一体僕の何を誤解してそう思ったんですか? 確かにあなたは、必要と思った時には随分と悪辣で容赦ない策を弄する人だけれど、たとえそのために人の恨みや非難を受けることになったからといって、言い訳したりこそこそ逃げようとしたりはしない。自分のしたことの結果はちゃんと引き受けるつもりでいる。あなたのそんな揺るがぬ強さは…自分の立ち位置を定められないで迷い続けてきた僕には、羨ましく感じられたことすらあったんですよ」

 信じられないことを聞いたかのように、ローランは一瞬大きく目を見開いたが、ルネの告白に途中で口を挟もうとはせず、彼の手がゆらゆらと自分を揺するのに任せながら、その語ることにじっと耳を傾けていた。

「肉親との縁は薄く、上流な親戚同士の諍いを見ながら育ったせいか、あなたは基本的に人を信じない。その中で唯一愛した、大切なガブリエルを守ることが、あなたの行動規範となった」

 ルネはここに乗り込む前にガブリエルから聞いた話を思い出しながら、言った。

「極端な愛し方だけれど、そんなあなたを道徳的に許せないと思うほど、僕はかっちん頭のモラリストではないつもりです。だから―あなたのことを、自分でそう嘯くほど芯から悪い人間だとは、今でも僕は思いませんよ、ローラン」

 ルネは、相手の反応を窺うかのように、一瞬口をつぐんだ。

 ローランは、物思わしげな深い緑色の瞳をルネにじっとあてたまま、黙りこんでいる。その表情からは、今の話を彼が理解しているかどうかは読み取れなかった。

「ああ、もうっ、どう言えば分かってもらえるのかなぁ!」

ルネはもどかしさのあまり頭をかきむしりながら、一声唸った。そうして今度は両腕をローランの体に巻き付け、ありったけの気持ちを込めて訴えた。

「ねえ、ローラン、僕はプラン・ド・プランなんかじゃない。それであなたをがっかりさせることになっても、これ以上、あなたに対して嘘はつけない…どうか、ちゃんと本当の僕を見てください、分かってください。あなたの傍にいることで僕が不幸になることなんかないし、むしろ、あなたを守り支えることこそが僕の幸せなんです!」

 一気にまくしたてて酸欠でも起こしたのか、頭がくらくらする。

「…愛しています」

大好きないつものコロンの代わりに消毒薬のにおいの染みついたローランの胸に顔をうずめて、ルネは震える声でそう囁いた。

 言いたいことを全て吐き出したルネが口をつぐむと、たちまち深い静けさが部屋を包みこんだ。

(う…ど、どうしよう、気まずい…ひょっとして怒らせたんだろうか、ローランは黙りこんだままだし…ちょっと言い過ぎたかな…?)

 ルネが次第に胸に不安を募らせていった、その時、ローランの唇から苦痛を押し隠したような低い声が漏れた。

「…痛い」

 ルネはさっと青ざめて、ローランの体をぎゅっと抱きしめていた腕を離した。感極まるあまりつい忘れていたが、相手は怪我人なのだった。

 ルネが熱を込めて訴え続けていた間我慢していたのだろうか。ローランは額に薄っすら汗をかき、眉を辛そうに寄せながら、身を屈めて浅い呼吸をしている。

「あ…ご、ごめんなさい、ローラン」

 ルネはおろおろしながら立ち上がり、じっと痛みに耐えているローランに向かって言った。

「今ドクターを呼んできますから、待ってて下さいっ」

 ドアの方にくるりと身を翻そうとするルネの手首を、いきなり伸びてきたローランの手が掴んで強引に引き戻した。 

「わっ…?!」

 ローランの体の脇に仰向けに引っくり返った格好のルネは、一体何が起こったのかと、目をパチパチさせた。

「ローラン…?」

 戸惑いながら問いかけると、ローランは、してやったりというような憎たらしい顔で笑いながら、ルネを覗きこんできた。

「あ、あーっ、僕を引っかけたんですね!」

 すぐに察したルネは、顔を赤くして、抗議の声を上げた。

「ガブリエルを使ってまで俺をだまくらかしたことへの仕返しだ」

 ローランは楽しげに目を細めながら、ルネに身を添わせるようにベッドに横なった。

 ルネは不満そうに頬を膨らませてそっぽを向こうとしたが、追いかけてきたローランの手がそれをとめた。ルネは振り払おうとはしなかった。指先で顎を捕らえられれば、逆らわずに、ローランの方を振り向いた。

「ルネ、どうやら、俺はおまえを甚だ見損なっていたようだな。俺はおまえのことをすっかり分かっているつもりでいたが、本当の意味では全く理解してなどいなかった。おまえが、俺が想像していたような繊細さとは程遠く、いざとなれば肝が座っている上に打たれ強いということも、意外とあざといことも分かったさ。確かにお前なら、俺の強引なやり方に振り回されようが、目的達成のために容赦ない手段を打とうが、耐えられないなんて泣き言は言わないだろう。ちょっと困った顔をして嘆いて見せながらも、案外平気でついてきそうだな」

 頬を滑るローランの指の心地よさに目を細めながらも、ルネは冷静に釘を刺すことは忘れなかった。

「まあ、その通りですけど…僕がどんな時でもひたすら黙ってついてくるなんて思わないでくださいよ? あなたがあまり暴走しすぎて放っておくと法に触れそうだと思えば、僕は体を張って止めますからね。僕の腕っ節の強さを隠す必要はもうないんですから、あなたもそれは覚悟して下さいよ」

 ローランは面白そうに軽く眉をはね上げた。ルネの顔をつくづくと眺めたかと思うと、掠めるように彼の鼻先に自分の鼻先を軽く触れさせた。

「ふん、化けの皮がはがれると、本当にお前も言うようになったな」

「ええ、でも…僕がこの力をふるうのは、あなたを守るために必要な時だけ…それ以外の大半の時は、僕は今までと変わらない、あなたのルネです」

 ルネが自分の頬に添えられているローランの手に触れながら囁くと、ローランの顔に浮かぶ微笑みも深くなった。

「こんなふうに再びお前を腕に抱きしめられるなんて、俺に向かって微笑むこの顔を見られるなんて、今でも信じられない…夢のようだぞ、ルネ」

 ローランは、現実主義者の彼らしくもなく、込み上げてくる喜びに声を震わせながらそう囁くと、期待を込めて身を寄せてくるルネを懐深くかき抱いた。

「もう二度と僕を離さないでくださいね、ローラン」

「当然だ。おまえがもう俺の顔なんか見たくないと泣き叫んで嫌がろうが、二度と手放してはやらないから、覚悟しろよ。…全く、無理してあんなしんどい思いをするのは、俺だってもう沢山だ」 

 2人はちょっと思い出しかけた苦い記憶をふるふると頭を振って追いやると、どちらからともなく顔を寄せ合い、互いの存在を確かめ合うようにゆっくりと唇を重ねた。

 嘘や取り繕い、心を隔てる見えない壁を取り去り、初めて素顔の自分に戻って愛する人と共にいようと誓いあえた、この喜び―。

 ルネにとって、それは彼と交わしたどんなキスや抱擁よりも快く、体中の隅々までも温かさで満たしてくれるものだった。

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