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愛とスープの法則(4)

「お願い、ローランには何も話さないでください! 僕が武道の達人だなんて、彼は知らないんです。もしも僕の半端じゃない腕っ節を知ったら、ローランはきっともう僕を可愛いなんて思ってくれなくなる…そんなことであの人に嫌われたら、僕、死んじゃいますっ」

 ルネはガブリエルの前に身を投げ出す様にして跪き、両手をついて、涙声で懇願した。そんな彼を、ガブリエルはしばし何も言わずに見守っていた。

「…シュアン、あなたは少しの間席をはずして下さい」

 ガブリエルが低い声で命じるのに、おろおろと2人を見比べていたシュアンはちょっとほっとしたような顔をして、隣接した秘書室の方に戻っていった。

「さて」

 ガブリエルはシュアンの姿がドアの向こうに消えたのを確認し、改めて、がっくりと頭を垂れて床に座り込んでいるルネに向き直った。

「解せませんね、ルネ…どうして、ローランがそんなことであなたを嫌うなんて思うんです…? それはあなたの才能であり、誇るべきものではないですか。ローランだって、きっとそう思うはずですよ?」

「もしも僕とローランの間に特別な感情が何もなければ―僕がただの部下なら、あなたの言う通り、ローランは僕の武道も特技の1つとして何の躊躇もなく認めてくれたでしょう。でも、恋人となるとたちまち話は変わってしまいます」

「変わると言うと、どんなふうに?」

 ガブリエルはルネの言わんとしていることがさっぱり分からないというかのごとく、そっと首を傾げた。

「男って生き物は―いや、僕だって男なんですけど―少なくとも自分の強さや逞しさを自負している類の男は、自分よりも強くて能力のある相手をライバル視はするけれど、恋人として心を許してはくれないものなんです。僕のことを最初のうちは可愛がってくれても、正体を知ったら、たちまちドン引きして逃げて行ってしまいます」

「…それは、あなたの経験?」

 蘇ってきた苦い記憶に、ルネは床についていた手を、関節が白くなるくらい強く握り、震える唇を噛みしめた。

「そこまで話したなら、いっそ全て吐き出してしまったらどうですか、ルネ。そうすれば、胸のつかえも少しは下りて、気分は楽になるでしょう」

 優しい声に促されてルネがおずおずと顔を上げると、まさに慈悲深い天使のごときガブリエルが柔らかく微笑みかけてきた。

 その微笑にたぶらかされた訳ではないが、気がつけばルネは、ぽつんと呟いていた。

「昔、好きだった人に振られたんです」

 まるで途方に暮れた子供のような自分の声に、ルネは一瞬顔をしかめたが、抑えようとしても言葉は堰を切ったように次から次へと唇から溢れ出して、とめられなくなった。

「高校時代、僕が柔道を習いに通い出した道場の先輩で…すごく強くて、素敵な人で、僕は密かに憧れていたんです。自分が同性に惹かれる性向があることも自覚し始めていた時期で、だからと言って積極的にどうこうできる程の勇気もなかった僕は、彼に認めてもらえるよう、気に入ってもらえるよう、熱心に稽古に打ち込みました。もともと柔道も空手も子供の頃からやっていて…少しプランクはあったんですけれど、基礎があるから覚えもいい僕に、彼はすぐに注目してくれました。それが嬉しくて、もっと熱心に練習して、僕はどんどん強くなっていきました。子供の頃はただの遊びでしかなかったものが、何しろ先輩に気に入ってもらうという目的ができた分、そりゃ集中力も増すってものです。たぶん、僕自身、すごく伸びる時期に差し掛かってもいたんでしょう。自分でも気がつかなかった才能が一気に開花して、その道場にいた3年の間に黒帯までいただきました。全国レベルの大会にも出場しましたし、当時の僕は、この国のトップクラスの実力を確かに持っていたと思います。天才だと周りに持ち上げられて、皆がこんなに喜んでくれるなら、たぶん先輩も喜んでくれるだろうと思っていたんですが…現実は、そうではありませんでした」

「その人は、強くなったあなたを認めてはくれなかったんですか?」

「実は、僕と先輩は一時付き合っていたんです。いつも一生懸命な僕を可愛いと思うって、向うから声をかけてくれたんですよ。まあ、付き合うと言ったって、彼にも同性の僕を相手に躊躇う気持ちがあったのか、たまにキスしたり抱きしめてもらったり、その程度の関係でしたけれど…」

「その時点では、彼はあなたを恋愛対象として受け入れてくれていた。しかし、あなたが強くなりすぎると彼の気持にも変化が生じた…つまり、そういうことですか?」

「ええ、その通りです。付き合い始めて最初の頃は、先輩は僕が大会でいい成績を出す度に自分のことのように喜んでくれました。だから、単純な僕は、強くなればもっと彼に喜んでもらえるものとばかり思って、切磋琢磨して技に磨きをかけたんです。ところが、いつの頃からか、彼は、僕が大会で優勝しても、地元の新聞の記事になっても、笑ってはくれなくなりました」

 ルネは、今でも鮮明に覚えている辛い記憶に息がつまり、抑えようとしてもこみ上げてくる涙にむせそうになった。

「ある日、全国大会の直前でしたが、肩を痛めてしばらく道場を休んでいた先輩から連絡があって、彼の家の近くの農園に呼び出されたんです。そこで、いきなり別れ話を切り出されました。僕が理由を尋ねると、彼は、自分が想像していた以上に強くなってしまった僕に対し、もう可愛いとか愛しいという感情を覚えられなくなってしまったんだと言いました。僕を武道家として尊敬するし、その天才を羨ましく思うけれど―恋人として見ることはもうできない。ごめんと謝られました」

 ルネは肩で大きく息をして、気持ちを静めた後、弱々しい声で付け足した。

「その後すぐ、僕は道場をやめ、武道家としての道を極める夢は断念しました。僕に期待をかけていた人達はこぞってとめたけれど、もともと僕が柔道に力を入れた動機は不純なものだったから、そうするのは当然だったと思います。何より、僕は分かってしまったんです。武道の才能は、僕の望むような幸せをもたらしてくれるものではない。初恋に破れた経験から、僕が学んだ結論です」

 ルネが語り終えた後もしばらく、ガブリエルはソファの背もたれに身を預けたまま、瞼を半分おろして何事か考え込んでいた。

「…ムッシュ・ロスコー?」

 この静寂に耐えられなくなったルネが声をかけると、ガブリエルは目を閉じて、ふうっと胸に溜めていた息を吐いた。

「初恋の相手にそんな酷い振られ方をしたから、あなたは世の中の男は皆そうだと思いこんで、せっかく開花しようとした才能を無駄に腐らせるに至った訳ですか。全くもって、もったいない…その短絡思考は何とかならなかったものですかねぇ」

 ガブリエルは額に手を当てて、嘆かわしげに頭を振った。

「僕の主観を申し上げるなら、柔道界から身を引いたことは正解だったと思います」

ガブリエルが手で促すのに従って、改めてソファの上に身を落ち着けたルネは、言った。

「もともと僕は、格闘技は好きだったけれど、それで頂点を極めたい訳ではなかったんです。単純に、強い相手と戦って思い切りぶん投げて一本勝ちした時の爽快感が好きなだけで…大体、今の大会なんて、いかに相手からポイントを取るかに重きを置きすぎて、それって本来の武道とは何だか違う気がしますし…少なくとも、僕が自分の幸せを犠牲にしてまでやりたいことではありません」

 その点に関しては、ルネは迷いなく、はっきりと答えることができた。

「あ、今でも、ローランには内証でこっそり道場通いはしているんですよ。ただ、これは全く趣味的なもので、日頃たまったうさを晴らすためのものにすぎません。しばらくブランクがあったんですが、それでもやっているうちに勘が戻って、また腕を上げてしまったんだから、僕ってやっぱり天才なんですね。全く役にも立たない才能ばかり持ってて、困ったものですよ」

 頭をかきながらははと力の抜けた笑い方をするルネを、ガブリエルは半ば呆れたような半ば同情的な目で見た。

「成程、分かりました。ルネ、それでは別の質問をしますよ。今もローランには秘密で道場に通っていると言うあなたは、この先も彼にずっと嘘をつき通すつもりなんですか?」

 ルネの顔がたちまち強張った。

「あなたの先輩は強くなったあなたを受け入れられなかったから、ローランも同じだと考えるのは、いくらなんでも短絡的過ぎはしませんか? あなたが昔好きだった人を悪く言うようですが、武道の才能あるあなたを恋人として受け入れられなかったのは、所詮その男の器がその程度のものだったからですよ。大体、大切な大会の直前にあなたを呼びだしてわざわざショックを与えるなんて、武道家ならばすべきことではないでしょう。ローランは、人間性に問題なしとは言えませんが、少なくとも度量は大きい人物です。あなたの秘密を知ったって、そのくらい個性の1つとしか思うものですか」

「で、でも…彼が僕のことをどう考えているのか、今でさえ本心を測りかねて不安でたまらないのに、この上、僕の秘密を彼が知ったらどんな反応が返ってくるかなんて、もう考えたくもないです」

 ガブリエルは嘆息した。そうして、我が身を守るかのように両腕を体に回してぎゅっと抱きしめているルネを凝然と眺めながら、冷静に指摘した。

「あなたがローランに対していつも言いたいことも言えずに黙ってしまうのは、その臆病さのせいなのでしょうね。ただ、いつまでも黙ったままだとローランは―これはあの男の悪い所ですが、あなたに不満はないものと勝手に判断して、迷惑かけ放題のまま、やりたいように我が道を突き進んでいきますよ? あなたは、それでいいんですか?」

 ガブリエルに痛い所を突かれて、ルネはまたしても答えに窮した。

「う…そ、それは―」

今回のスキャンダルについて簡単な説明を受けた際、ルネがちょっと怒って見せても、本気で逆らうことはあるまいと高をくくっているからか、ローランは楽しげに眦を下げるだけだった。あの時の彼の憎たらしい顔を思い出して、ルネは悩ましげに眉を寄せた。

(僕はもっと怒るべきなのだろうか、あの人の横暴を許すべきじゃないのだろうか―たぶん、そうした方が、僕の尊厳を守るためにはいいんだろうな)

 ルネはこの問題について真剣に考えを巡らせながら、ゆっくりと答えた。

「もちろん、よくはないですよ…でも僕は、仕事でもプライベートでも、よほど無茶なことじゃない限り、何でもローランの好きなようにやらせてあげたいし、そのための苦労なら我慢できるかなとも思うんです。まあ、さっき、あなたに聞かれてしまった絶叫も僕の紛れもない本音で、確かにもう少しくらい気遣って欲しいとは思いますけれど…僕は別に、あの人の感謝の言葉が欲しくて尽くす訳じゃない」

 ルネは首を傾げてまた少し考え込んでから、続けた。

「あの人の身勝手や我が侭に振り回されて、たまに本気で投げ飛ばしてやろうかと思うことはあっても、僕がそれをしないのは、その苦労に見合う何かを、僕があの人からもらっているからなんです。そりゃ、僕にだって、あの人の心を知りたい、もっと愛してもらいたいという気持ちはありますよ。でも、それ以上に強く、あの人のためにと僕を突き動かしている欲求があって、それが満たされると幸せな気持ちになれる…ううん、何が言いたいんでしょうね、僕―」

 次第に頭の中が混乱してきたルネは、途中で理路整然と語ることを放棄して、両手で顔を覆いながら言った。

「こんな甘いこと言っているとますますローランを図に乗らせそうだけれど、僕は結局、あの人が喜ぶ顔を見たいから尽くしている気がする」

 言った瞬間、ルネはげっと思った。自分の満足よりも奉仕する相手の幸せが優先だなんて、これでは、ローランと同じ忠犬体質のようではないか。

 ガブリエルに滅私奉公するローランの気持ちなど理解できない、したくもないと思っていたはずの自分がうっかり漏らしてしまった台詞に、ルネは慄然とするしかなかった。

「ああ…そういうことですか…」

 やけに納得したようなガブリエルの呟きに、ルネはとっさに伏せていた手から顔を上げた。

「そ、そういうことって…?」

 分かったような顔でしきりに頷いているガブリエルにルネが恐る恐る聞いてみると、彼はふいに小さく吹きだした。

「すみません、笑ったりして…いつも他人の評価に厳しいローランが、どうしてあなたをあそこまで気に入って自分の秘書にしたのか、その理由が分かったので、おかしくなってしまったんです」

 ガブリエルはくつくつと笑いながら、目じりに浮かんだ涙を指先で拭うと、呆気に取られているルネに向かって、こう言った。

「ルネ、どうしてローランが身を粉にして私に尽くすのかというとね…もちろん私を愛しているからではありますが、それと同じくらい彼が、全力で奉仕している自分のことも大好きだからなんですよ。愛する者のため、我が身に鞭打ち一生懸命働くことが気持ちいいんです。そして私が彼に対していつも我が侭に振舞うのは、そんな彼の欲求を知っているからで…もしも私が、彼の手を借りずに何でも自分でやろうとしたら、生き甲斐をなくしたローランは、きっとがっくりきてしまうでしょうからね」

 顔を引きつらせているルネに向かって、ガブリエルは揶揄するように、片目を瞑って見せた。

「ルネ、どうやら、あなたにもそういう性向があるようですね?」

 ルネははっと息を吸い込んだまま、しばし固まった後、顔を真っ赤にして反論した。

「そ、そんなはずないです…! 確かに僕はあの人に尽くすのは好きだけど、ローランのあなたに対する盲目的忠誠に比べたら全然常識的なはずです。僕は別にローランの飼い犬って訳じゃないですし…い、嫌ですよ、そんな同病相哀れむみたいな…」

 言いかけて、ルネはまたしても黙りこんだ。

(いや、傍から見ていれば、僕のローランに対する懲りない忠実さは、やはり犬のように思われていたんだろうか。ローランのガブリエルへの忠実さを目の当たりにするたび苛々したのも、単なる嫉妬を超えて、同族嫌悪が混じっていたりして―)

 ローランは彼の絶対的君主であるガブリエルの背を追い、そのローランを熱愛するルネはやはり彼の注意を乞いながら追いかけていく、これこそ正しい犬の姿であるかのごとく。

(いや、そんなことは認めたくないな…冗談じゃない…だって、それじゃあ、僕はガブリエルへのあの人の忠誠を理解できるはずってことになる。どんな時でも主を最優先する、あの人の非常識ではた迷惑な行動を全て許して、受け入れて…? いくら僕でも、愛する人のため、そこまで馬鹿になれやしないよ)

 どんよりと落ち込むルネに向かって、ガブリエルは厳かに告げた。

「別に卑下するようなことじゃないでしょう、ルネ。ローランは私に隷属している訳ではないし、あなたもローランの所有物ではない。全て、あなたやローランが自分の自由意思で行っていることで、だからこそ、その忠誠心は、それを捧げられる者にとって、とても得難い貴重なものなんですよ」

「そんなこと言われたって…そりゃ、あなたはヒエラルキーのトップにいて、愛情も忠誠も一方的に捧げられる側だからいいでしょうけれど…」

 情けなそうに頭を振るルネに、ガブリエルは椅子から立ちあがって、近づいてきた。

「ルネ」

「は、はい」

 ルネは、目から出かかっていた涙を引っ込め、反射的に顔を上げた。すると、自分を覗きこむガブリエルの美しい顔が、その芳しい吐息がかかりそうなくらい間近にあった。

「私は、あなたを気に入りましたよ。あなたになら、いつかローランを譲ってあげてもいいかもしれないですね」

 天使は楽しげな笑みに唇を綻ばせながら、優しく告げた。

「ムッシュ・ロスコー…?」

 これまでの話の流れの中で、一体自分のどこをどう気に入っていただけたのか、ルネにはさっぱり分かなかったが、存外に温かく好意的なガブリエルの眼差しに、不思議なほど心が安らぐのを覚えた。

 その時、副社長室のドアが、今度はさっきよりも控え目にノックされ、シュアンが遠慮がちに声をかけてきた

「あの、ムッシュ・ロスコー…そろそろここを離れませんと予約したフライトに間に合わなくなります」

「そうですか…分かりました」

 ガブリエルは、半分開いたドアの向こうに影のように立っているシュアンにそっと目配せし、もう一度、名残惜しげにルネの顔を覗き込んだ。

「あなたと話すのがあんまり楽しくて長居をしすぎたようです、ルネ」

「フライトって…ムッシュ・ロスコー、これからパリを離れてどこかへ行かれるのですか…?」

 頭に浮かんだ素朴な疑問をそのまま口にするルネに、ガブリエルは丁寧に答えてくれた。

「ええ、ローランとも話し合って決めたことですが、しばらく私はフランスを離れることにしたんです。私がいるとやはりマスコミの注目を集め過ぎて、それは敵の活動を抑えるのに一役買ってはくれるんですが、こちらも動きにくくて不便なことも多いんです」

「敵というと…例のジル・ドゥ・ロスコーっていう人ですか…?」

 読んでいた雑誌の記事を思い出しながらルネがまた単純に尋ねると、その質問に関しては秘密ですとでもいうかのごとく、ガブリエルはふっくらと官能的な唇の前で人差し指をそっと立てた。

「ローランのことをくれぐれも頼みますよ、ルネ」

 ガブリエルはふいに真顔になって言い、戸惑うルネの手をぎゅっと握りしめた。

「私の姿が見えないとローランは気分的にどっと落ち込みそうなので、心配です。もしも彼が鬱になっていたら、あなたが私の代わりに慰めてあげてくださいね」

「そ、そんな…あなたの代わりなんて、僕にはとても無理です。外見を少しくらい変えて真似てみた所で、僕では本物の『大天使』のカリスマを再現することは不可能だということは、あなたに会って実感しましたから」

 ルネが訴えても、ガブリエルは彼の手を離してくれず、微笑みながら、きっぱりと首を振った。

「無理だなんてとんでもない。私の単なる代役に留まらず、ローランのため、あなたでなければできないことはたくさんあるはずですよ。どうか彼を支え、助けてあげてください…誰かに命じられたからではなく、あなたの自由意思でね」

 ガブリエルは、自信なさそうに黙りこんでいるルネの手を離して立ち上がり、ドアの前で大人しく控えているシュアンの方に歩いていこうとした。

 その後ろ姿を見送りかけたルネは、思い出したようにいきなり声を張り上げた。

「そ、そうだ…ムッシュ・ロスコー…!」

「はい?」

 うろんそうに振り返るガブリエルに、ルネは慌てて駆け寄った。

「すみません、ムッシュ…あなたとローランの間に秘密はないとさっき言われていましたけれど…お願いします、僕の武道の腕や今でも道場通いをしていることは、やっぱりローランには黙っていていただけませんか?」

 今更こんなことを蒸し返してしつこいと思われそうだが、この秘密はまだ当分の間秘密にしておきたいルネは、ガブリエルの確約を取る必要に駆られたのだ。

「何を言い出すかと思えば―」

 ガブリエルは虚を突かれたように瞬きし、ルネの思いつめた顔を、しばし信じられないものを見るかのような目つきで凝視した。

「ルネ、あなたという人は…賢いのか馬鹿なのか、よく分かりませんねぇ」

「えっ?」

 ガブリエルはふっと微笑み、不安そうなルネの頭に手を伸ばし、宥めるように撫でた。

「安心なさい、ルネ、あなたが秘密にしたがっていることを、私の口からローランに伝えるつもりはありません。確かに私とローランの間に秘密はないと言いましたが、聞かれていないことを逐一報告する義務も、私にはないですからね」

「あ、ありがとうございます、ムッシュ・ロスコー!」

 感動のあまりぱっと頬を紅潮させて、ガブリエルの手をぎゅっと握って振り回すルネを、彼はまだ少し何か言いたげな目で見ていた。

「しかし、できるだけ早い時期に、あなたの口からローランにその秘密は打ち明けた方がいいですよ、ルネ…勇気を出して一言言えば、ああ、こんなつまらないことでくよくよ悩んでいたのかとあなたは思うはずです」

「は、はい…すみません、ムッシュ・ロスコーにまで余計なご心配をかけてしまって…そうですね、いつまでもローランに嘘をつき続ける訳にもいかない…」

 またしても深いジレンマに陥りかけるルネの肩を、ガブリエルは優しくかき抱いた。

「大丈夫、ローランがそんなつまらないことであなたを嫌いになったりするものですか。あなたはとても魅力的で可愛い人ですよ、ルネ、もっと自分に自信を持ちなさい」

「ムッシュ・ロスコー」

 ぱっと頬を赤らめ瞳を揺らせるルネの髪に指を滑らせながら、ガブリエルはしばし次に言うべき言葉を考えていたようだったが、ふいにルネの顔から視線を外して、笑いをかみ殺した声で囁いた。

「ふふ、自分と同じ顔に向かってこんなセリフを言うのは、さすがの私もちょっと照れますね」

 ルネも同感だとばかりに、頷いた。

「僕も、何だか変な気分です」

 ルネとガブリエル、兄弟のようによく似た、しかし同時に全く似ていない2人は、目を見合わせて笑いあった。

「次にあなたと会う時には、ローランに自分の口から秘密を打ち明けたあなたが、彼の本当の心も確かめられて、失った自信を取り戻していることを願っていますよ」

 そのままシュアンを連れてオフィスを立ち去るガブリエルを見送った後、ルネはしばらく、彼に言われたことについて考えを巡らせ続けていた。

 結局、今回のガブリエルの唐突な訪問について、ルネはローランに報告しなかった。ガブリエルの目的はルネ個人であったし、報告することで彼と交わした会話の内容をローランに追及されることが怖かったからだ。

(ローランが、かつて僕を振った先輩と同じ、『度量の小さい男』だとは思わないけれど―)

 ガブリエルにいくら促され励まされても、大好きなローランに嫌われたくなくてずっと秘密にしていた本当の自分の姿を明かす決意は、今のルネにはできなかった。

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