「彼は妻と別れて、私と結婚すると言いました」
「彼は、奥様とはもう何年も夫婦らしいことをされていないそうなんです」
そのセリフに、私は思わず眉を寄せた。
目の前に座っているのは今年16歳になるリディア=アーネスト騎士爵令嬢。
私の実家、ロンベルト男爵家の遠縁でもあり、また奇遇にも同じ神学校で聖女修行をする後輩でもある。
そのうえ彼女は私同様、王都の神学校に通う傍ら、同じ神殿でも働いている同僚でもある。
財政に余裕のない地方の小さな騎士爵家の令嬢なら決して珍しいことではない。
家庭教師をしたり、高位貴族家で期間限定の侍女を務めたりと、学業の合間に働く地方出身の令嬢はそれなりにいるのだ。
働くとはいっても、貴族のお嬢様のお小遣い稼ぎにすぎないとよく言われるけど、それはそれ。お役目に対しては私たちはいつだって真剣に取り組んでいる。
それに親同士の縁もあって紹介されたのがきっかけだけど、彼女は何かと私を頼ってくるし、姉のように慕ってもくれている。
彼女の面倒を見るのが嫌だ、なんてことはない。
リディアはいつも明るく素直で、仕事にも真面目なとてもいい子なのだ。
ふわふわとした蜂蜜色の巻き毛に澄んだ青い目。
絶世の美女というわけではないけれど、笑顔を浮かべると、たちまち妖精のような愛らしさを見せる。
『慈しみの御使いアンテローゼ様』の聖女として、治癒の御業で人々を癒す姿にぼーっとなる男の多いこと多いこと。
見世物ではないと蹴散らすのも、先輩聖女としての私の仕事でもある。
お互いまだ見習いではあるけれど。
そんな彼女から「お姉さま」と慕われるのは、クソ生意気でかわいげのない弟が三人もいる身としては、面映ゆくも悪い気分ではない。
むしろ、交換したいくらいだ。いや違う、かわいい後輩として何かと気にかけてやりたくなるものだ。
ところが、今日の彼女はいつもと様子が違う。
目の前に座るリディアは、ひどく思い詰めた顔をしている。
そして、あろうことか、口にしてはいけないことを口にしているのだ。
「奥様とは寝室も別だそうです。お互いに愛情はなくて、家の都合で結婚しただけなのだと」
「それは……」
私は返す言葉を選んだ。
ここからは慎重にならなくてはいけない。
どこで誰が何を聞いているか分からないからだ。
何しろ、ここは王都の中心たる聖神殿の休憩スペースなのだから。
「その方について教えてくれる?」
「はい、あの……アーノルド商会の副会頭で、今年36歳になられます」
「副会頭……36歳……」
「はい。最初は神殿の書類づくりの相談に乗っていただいただけだったんです。私が帳簿のことで困っていたら、丁寧に教えてくださって。それから食事に誘われるようになって……」
リディアは膝の上で指を組み合わせた。
「最初に結婚していると聞いたときは、もちろんお断りしました。でも、彼はもう夫婦関係は終わっているとおっしゃってました。いずれ離婚するつもりだとも」
「それで、お付き合いを?」
「……はい」
私は彼女を責める言葉を飲み込んだ。
既婚者だと知っていたのなら、そもそも関係を持つべきではない。
貴族というのもおこがましい末端も末端の騎士爵とはいえ、貴族は貴族だ。
平民、それも既婚者と付き合っているなどと知られれば、まともな縁談を紹介してもらうのは難しくなるだろう。
それに見習いといえども私たちは聖女だ。
聖女という職は騎士や文官といったお役目と同じで、私たちのような末端でも貴族であればなろうとおもえば誰にだってなれるけれども、神職であることには変わりはないのだ。
世間の人々は、騎士には高潔さを、文官には公平さを、神職には清廉さを求めるものなのだ。
いやそんなことよりも。
そう、そんなことよりも、だ。
跡取りでもない田舎の子爵令嬢が神殿で聖女見習いをしつつ、裕福な平民に見初められ恋愛結婚する。
そんなことだって稀によく聞く話で、全然珍しくもなんともない。
地方の男爵令嬢が裕福な商人の後妻に収まることだって、さほど珍しい話ではない。
よく聞く話だ。
テルナーテ叔母様がそうだ。
平民の後妻となった今では、私の母より上等なドレスを身にまとい、年に2度は外国に旅行に行かれているとか。
子を成す必要がないから体型がかわらないの、と少女のような笑みを浮かべておっしゃっていたっけ。
だからそうではない。
そんなことが気にかかっているわけではない。
私は静かに大きく息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。
そもそも貴族ではなく平民同士だったとしても問題だ。
好きになった相手から「夫婦関係は終わっている」「君と一緒になりたい」と言われれば、信じたくなる気持ちも分からなくはない。
分からなくはないのだが。
大問題だ。
「彼が、私と結婚したいと言ってくれたんです」
「それは……いつ頃の予定なの?」
「奥様との話がまとまってからだそうです。今は商会の仕事が忙しいので、もう少し待ってほしいと」
「もう少しって、どのくらい?」
「来年の春までには、と」
「来年の、春……」
私は思わず繰り返した。
今は秋だ。
半年近く先の話になる。
半年。
それは「もう少し」という言葉が許される範囲を踏み越えていると思う。
「それまで今の関係を続けるつもりなの?」
「……はい。そのつもりです。彼は、私たちのことを誰にも知られたくないそうです。奥様との話がまとまるまでは、慎重にしたいって」
「リディア、それは……」
「分かっています。よくないことだって。でも、彼を信じたいんです」
彼女の目には、涙が浮かんでいた。
「私、彼と結婚したいんです。彼のことが好きなんです」
私は何も言えなかった。
16歳の女の子の「好き」に、正論を投げつけるのは簡単だ。
けれど、投げつけたところで届かないことも私は知っている。
正論というのは、たいてい恋の前では紙の盾なのだ。
リディアから視線を背ける。
アデリア様が、聞いていませんよ、という顔でしっかりと聞き耳を立てているのがわかる。
アデリア様は私たちの話に口を挟まない。
挟まないくせに、いつだって話を聞きたがるのだ。
しばらく黙っていたリディアが、小さな声で尋ねてきた。
「マリアンヌ先輩。私、不安なんです」
「それは……」
私は困ってしまった。
好きな人と一緒になりたいという気持ちを否定したくはない。
けれど、相手は既婚者だ。
奥様がいる。
しかも、離婚すると言いながら半年先まで何も決めていない。
いやそもそも離婚できるかどうかの話だってまだ終わっていない。
「彼にきちんと話をしてみたらどうかしら。いつ離婚するのか、具体的にどうするのか。口約束ではなく、ちゃんと確認したほうがいいと思うわ」
「でも、彼を追い詰めたくないんです」
「追い詰めるって……」
「彼も大変だと思うんです。奥様とのこともありますし、商会の仕事もありますから」
私は、ますます返す言葉に困った。
大変なのは、あなたの今後の人生のほうだと思うのだけど。
そのとき、リディアが視線を彷徨わせた。
「アデリア様はどう思われますか?」
ぱたん、と本が閉じる音が聞こえた。
「彼は、今の奥様を裏切っているのよね?」
「はい……」
「その彼が、あなたには誠実だといえるの?」
「それは……」
「いえるの?」
リディアが顔を上げた。
「『私を愛しているから』?」
リディアが口を開く前にアデリア様が答えた。
アデリア様に怒っている様子はない。
リディアを馬鹿にしている様子もない。
浮気を咎めようとする様子すらなかった。
ただ、いつものように純粋に疑問を口にしただけのようだった。
「奥様には愛情がないと言いながら離婚はしない。あなたとは結婚したいと言いながら具体的な話をしない。奥様と離婚されてからあなたとの結婚の話をされるようだけど、まったくなんの見通しも立っていない。今のところ、彼が実際にしていることは、娘ほどの歳の若い女を好き勝手に弄んで不倫をされているだけでしょう?」
「アデリア様!」
「何か間違っているかしら?」
「そんな言い方をしなくても……」
「事実を並べただけじゃない」
リディアは俯いてしまった。
私が声を荒げても、アデリア様は気にする様子はなかった。
慣れているのか、そもそも視界に入れていないのか。たぶん両方だ。
「リディア。彼は奥様と別れるために何をされているの?」
「……まだ、何も」
「では、結婚するために何をされているの?」
「それも……まだ、何も」
「そう」
アデリア様はそれ以上、何も言わなかった。
***
その翌週、リディアは再び私のところへ来た。
今度は、目の下に薄く隈ができていた。
先週よりさらに顔色が悪かった。
かわいい後輩のこんな顔を見て、平気でいられる人がいたら、それはもう人ではない。
「マリアンヌ先輩。彼と話をしました」
「そう。どうだった?」
「来年の春まで待ってほしいと言われました」
「それは前と同じね」
「はい。それから、奥様が離婚に応じてくれないとも言っていました」
私は嫌な予感がした。
こういう予感だけは、外れたためしがない。
「奥様が?」
「彼が言うには、奥様は彼の財産を手放したくないそうです。だから離婚を拒まれるのだそうです」
「そうなの……?」
「はい。彼は、奥様が自分を縛りつけていると言っていました。私と一緒になりたいのに自由になれないのだと」
リディアが視線を落とす。
「それから……少しお金を貸してほしいと言われました」
「お金?」
あ、と思った。
「離婚の話を進めるために、弁護士を雇われたいそうです。今は商会の資金繰りが厳しくて、すぐには用意できないからって」
「……いくらなの?」
「金貨10枚……だそうです」
私は絶句した。
金貨10枚。
平民の家庭なら5年、あるいは3年くらいの収入だろうか。
リディアが簡単に出せる金額ではない。
そもそも、商会の副会頭が「すぐには用意できない」と言う金額を、騎士爵家の令嬢が学業の合間に稼 いだ小遣いのような給金で用意できるわけがない。
けれど『未婚の若く愛らしい聖女見習いの騎士爵家のご令嬢』なら、用意できなくもない金額だ。
思い至って、背筋がぞっとした。
「貸すつもりなの?」
「彼は、結婚したら必ず返すと言ってくれています。それにこれは私たちの将来のためだって」
「リディア。少し考えたほうがいいわ」
「でも、これを断ったら、彼はいつまでたっても奥様と別れられないかもしれません」
私は頭を抱えたくなった。
彼女は本気で、そう考えている。
自分がお金を出せば彼は自由になれる。
自由になって、そして2人は幸せな結婚ができる。
そんなふうに、本気で。
「……アデリア様はどう思われるでしょうか?」
リディアが縋るようにアデリア様に問いかけた。
噂好きの、困りごと好きのアデリア様が、にまーっと笑ったような気がした。
「貸すの?」
「私は……」
「貸したいの?」
「彼の力になりたいんです」
「なら貸せばいいと思うわ」
「アデリア様!」
思わず声が大きくなった。
周囲の視線が集まったので、慌てて咳払いをして声を落とした。
「金貨10枚ですよ! そんな簡単に言わないでください!」
「私が払うわけではないもの」
「そういう問題ではありません!」
アデリア様が私の抗議を聞き流すように肩をすくめられたような気がした。
「……私、彼のことを信じたいんです」
リディアが口を開いた。
「なら、信じればいいわ」
アデリア様が淡々と告げる。
「でも、そのお金は決して返ってこないと思うことね」
「そんな……」
「返すつもりがある人間なら、借用書を用意してからあなたにお願いするはずだわ」
「あったの?」
と私が聞くと、リディアは顔を上げてつぶやいた。
「借用書……」
「結婚するつもりなら、なおさら金銭関係は明確にしておくべきよ。夫婦になる前から曖昧にする必要はないでしょう?」
リディアは、何かを考えるように黙り込んでしまった。
***
翌日。
休憩スペースの扉を開けるなり、リディアが駆け寄ってきた。
「マリアンヌ先輩!」
「どうしたの、そんなに慌てて」
「昨日、彼に借用書をお願いしたんです」
「えっ」
私は目を見開いた。
昨日の今日である。
行動力があるのは、この子の美点だ。
ただ、方向を間違えたときが怖い。
今がそうなのかもしれないけれど。
「それで、どうだったの?」
「……すごく、怒られました」
隅のテーブルに座らせたリディアは、ぽつぽつと昨夜のことを話してくれた。
借用書を用意してほしいと伝えた途端、彼の顔つきが変わったこと。
そして、こう言われたこと。
『俺たちは結婚するんだぞ。夫婦になる相手を信用できないのか』
『君は金のことしか考えていないのか』
『そんな態度では、これから先、一緒に暮らしていけるとは思えない』
私は、手元のカップを握りつぶしそうになった。
金のことしか考えていないのは、どちらだ。
金貨10枚を要求したのは、おまえのほうだろうが。
「最後に、こうも言われました。『妻と別れる話も、少し考え直さなければならないかもしれないな』って」
「…………」
私は、無言で天井を仰いだ。
その男が今ここにいたら、手近なグラスで殴っていたかもしれない。
「それで、私、やっと気づいたんです」
リディアの声は、震えていた。
けれど、泣いてはいなかった。
震えながらその口元は笑みを形作っていた。
「あの人は、私と結婚したいんじゃなくて、私からお金を引き出したいだけなんじゃないかなって」
「リディア……」
「それでも、最後に一つだけ聞いたんです。『奥様とは離婚されないのですか』って」
「彼は、なんて?」
「答えませんでした」
リディアは、ふっと笑った。
泣き笑いのような顔だった。
「代わりに、私が彼を追い詰めていると怒りだしました。それで、もう、いいかなって」
「……別れたの?」
「はい。昨夜のうちに」
私は思わず立ち上がり、テーブルを回り込んで、リディアを抱きしめていた。
よくやった。
本当によくやった。
金貨10枚と引き換えに失うはずだった未来を、この子は自分の手で守ったのだ。
「偉いわ、リディア。本当に偉い」
「先輩、苦しいです……」
「ごめんなさい。でも離さない」
ふとアデリア様の気配を感じて視線をさまよわせる。
「賢明ね」
たった一言。
そう言って、アデリア様は微笑まれた。
褒められたのだろうか、今のは。
リディアが嬉しそうに頬を染めているので、たぶん、そうなのだろう。
「でも、それで終わりじゃないわね」
「アデリア様!?」
「だってその子は浮気をしたのよ? どういった理由があるにせよ、一人の女性の尊厳を踏みにじった。
下衆な男が金を無心してきたので別れました、めでたしめでたし、じゃないわ」
「……」
アデリア様の言葉に、またリディアが俯いた。
「私、何も考えていませんでした。奥様のことは何一つ。別れた後、奥様がどうなるのかなんて、これっぽっちも」
「あなたと彼の新婚生活に、奥様はまったくいらっしゃらなかったのね」
「はい」
「ならそう言えばいいわ。言い訳なんかせずにそう言って平身低頭、謝罪なさい」
「許してもらえるでしょうか……」
「許されるために謝罪をするならおやめなさい。迷惑だわ」
「迷惑、ですか」
「ええ、迷惑よ。なぜ妻子ある男と関係を持ったふしだらな女を許さなくてはいけないの?」
「私は……私は……」
「あなたがすべきことは、奥様に『悪いのは私です』と宣言することよ」
「……はい」
「あなたが愚かで考えなしの浅はかな女だったこと、そのせいで奥様にご迷惑をおかけしたことをきちんと詫びなさい。それから『両親にも伝えて、後日きちんと謝罪に参ります』と言うのよ」
「両親に……」
「当然でしょう。あなたが許されるとしたら、それはご両親の庇護下にある愚かな若い女だったという理由なのだから」
「……はい」
悔しいけれど、私はアデリア様に抗議をすることも、リディアを慰めることもできなかった。
***
話は、それで終わらなかった。
それからほんの三日後のことだ。
神殿の受付付近が、妙にざわついていた。
「聞いた? アーノルド商会、会計監査が入ったらしいわよ」
「取引先から、未払い金の問い合わせが山のように届いてるんですって」
「うちも取引していたよね? 書類どうなってる?」
廊下ですれ違う神官たちの囁きが耳に飛び込んできた。
私は足を止めた。
アーノルド商会。
聞き覚えがありすぎる名前だ。
結論から言うと、噂は本当だった。
そして、その後に明るみに出た中身は、私が想像していたよりずっと酷かった。
帳簿上では支払い済みのはずの代金が、実際には取引先に一枚も渡っていなかった。
いくつもおかしい点があったが、私が足を止めたのはそのうちの一つだった。
商会の資金からは、不自然な額が何度も引き出されていた。
その行き先は、副会頭の愛人への贈り物と、愛人に買い与えた別邸の維持費なのだとか。
愛人。
……愛人?
いやいや、待ってほしい。
リディアとは別に、いたのか。
いや、リディアも愛人枠だったのか。
どちらにしても、あの男はなんて忙しい人なのだろう。
商会の仕事が忙しいという話は、嘘ではなかったらしい。
そっちの意味で。
さらに、驚いたことがあった。
彼の妻が結婚時に持ち込んだ財産までもが、商会の運転資金として使われていたのだ。
妻は、夫が商会を立て直すために必要だと言うので、長年にわたって資金を貸し付けていたという。
けれど夫は、その金を返すどころか帳簿上では返済したことにしていた。
私は、そこでようやく気がついた。
『奥様は、彼の財産を手放したくないそうです』
あれは嘘だったのだ。
奥様は、財産が惜しくて離婚を拒んでいたのではない。
自分が貸した金を回収するまでは、離婚するわけにはいかなかったのだ。
そして彼は、その奥様を「強欲な悪妻」に仕立て上げ、リディアを自分の味方にしようとしていた。
金貨10枚の件も、同じだ。
弁護士の費用でも何でもない。
空っぽになった商会の穴を、若い恋人の財布で埋めようとしただけだった。
……あの男、リディアの善意と純情を、なんだと思っているのだ。
私はアデリア様に問いかけた。
「アデリア様」
「何かしら」
「もしかして、最初から分かっていたんですか?」
「何を?」
「彼が、そういう人だって」
少しだけ間が空いた。
「ここまでだとは思わなかったわ。離婚する甲斐性も再婚する誠実さもないとは思っていたけれど。聞いただけで分かるでしょう、それくらい」
聞いただけで?
それだけで、あそこまで?
「私でなくともわかるわ。そのへんのご婦人に同じ話をしてみなさい。みんな私と同じことをいうわよ」
そう言ったアデリア様はもうリディアの顛末には興味を失ったのだろう、休憩スペースのほかの話題に耳をそばだてはじめていた。
その後の顛末は、さらにあっという間だった。
監査の結果、アーノルドは商会の資金を私的に流用していたこと、帳簿を改ざんしていたこと、取引先への支払いを偽装していたことが明らかになった。
副会頭の職は解かれ、商会からは損害賠償を請求された。
取引先は次々と契約を解除し、商業ギルドからも資格停止処分を受けた。
おまけに、妻は離婚を申し立て、夫の不正によって失われた財産の返還まで求めたという。
商会の地位も、妻の財産も、愛人も。
彼は一度に全部失った。
ちなみに愛人は、彼が副会頭でなくなった途端、ぱったりと連絡を絶ったそうだ。
これくらいなら私にだって先読みできる。
***
季節が二つ過ぎて、王都にも春が来た。
「結局、彼は奥様と離婚したそうです」
休憩スペースの窓際で、リディアが報告してくれた。
「そうだったのね」
「はい。ただ、私と結婚するためではありません。奥様から離婚を申し立てられたんです」
リディアは少しだけ苦笑した。
「彼は今、借金の返済に追われているそうです。商会の元同僚からも、ずいぶん恨まれているとか」
「リディアは大丈夫?」
「はい。金貨10枚を貸さずに済みましたから」
笑って答えたリディアに、私は思わず吹き出しそうになった。
この子は見た目に反して案外たくましいのだ。
「本当によかったわ」
心からそう思った。
「『来年の春までには』って言っていましたよね、あの人」
「……そういえば」
「本当に、春に離婚しちゃいました」
「リディア、それ笑っていいところ?」
「ちょっとだけ、笑っています」
2人で顔を見合わせて、そして小さく笑った。
それから、リディアは少し考えるように視線を落とした。
「私、彼のことが好きだったんです。今でも、あのときのことを思い出すと、少し悲しくなります」
「そうよね。好きだったんだもの」
「でも、もう戻りたいとは思いません」
「うん」
私は彼女の手を握った。
「よかった。リディアが自分で決められて」
「それに、アデリア様の言うとおり謝罪してよかったです」
「そうなの?」
あんな屈辱的な謝罪をさせられたのに、この子は感謝しているということ?
「はい、奥様が許してくださったんです。許してくださった、というのもちょっと違いますね」
「田舎から出てきたばかりの愚かな若い女が、口のうまい男に引っかかった。その男が恥ずかしくも自分の夫だった」
「腹は立つし悔しいけれど、自分の息子と変わらない歳の女の子を騙していたのかと思うと、そっちのほうがみっともなくて、身内の……今はもう身内でもありませんが、身内の恥なんだそうです」
「両親からの謝罪も断られました。事を大げさにされたくないのだそうです。だから、お互いなかったことにしようと言われました」
「私、もう、悔しくて、情けなくて、申し訳なくて……奥様の前で泣いてしまって」
「妻としてあなたを許すことはないけれど、大人として、若者の過ちは見逃してあげます、と。そうおっしゃっていただけました」
「マリアンヌ先輩、アデリア様に感謝を」
目を閉じ、リディアは祈るように両手を合わせた。
けれどアデリア様は何も言わなかった。
もう、彼女に興味はないのだろう。
私は、少しだけ腹が立った。
だから聞いてしまった。
「アデリア様は、リディアが傷ついたことについて何か思うところはないんですか?」
「だってもう終わった話でしょう?」
アデリア様が不思議そうに尋ねた。
「そういうことではなくて……!」
「マリアンヌ」
アデリア様が私に声をかけた。
「あなたは、彼女が不幸にならなかったことが嬉しいのでしょう?」
「当然です」
「なら、それでいいじゃない」
反論したいことは、山ほどあった。
あったのだけれど、リディアが小さく笑ったので、私はそれ以上、何も言えなくなってしまった。
その日の帰り際、リディアは私にもう一度礼を言ってくれた。
「マリアンヌ先輩、話を聞いてくださってありがとうございました」
「私は何もしていないわ」
「それでもマリアンヌ先輩のおかげで、アデリア様にお話を聞いていただけました」
そう言って、リディアは春の光の中へ軽やかに駆けていった。
蜂蜜色の巻き毛が、ふわふわと揺れていた。
やっぱり彼女は、笑っているほうがいい。
リディアを見送った後、報告書を届けに私は神殿に戻ろうとした。
アデリア様は下世話な……いえ、興味深いお悩みをお探しのようだった。
「アデリア様。今日の話、面白かったですか?」
「それなりに」
即答だった。
「……リディアがあんなに悩んでいたのに、それだけなんですか?」
「よくある話ですもの。それなりだわ」
私は、返す言葉を失った。
「順序立てて合理的に考えれば、どれだけ愚かなことか分かろうものなのに、人というのは本当に面白いわね」
アデリア様は他人の不幸な話が好きだ。
けれど不幸な人は好きではないという。
それに誰かを助けようとはなさらない。
誰かの不幸な話と、解決される話を聞くのが好きなのだ。
面倒くさい方だ。
私は、アデリア様のことがよく分からない。
たぶん、これからも分からないままなのだろう。
遠くで私を呼ぶ声が聞こえた。
視線を上げてそちらを見る。
「聖女マリアンヌ、『御使い様』の御言葉は届けられましたか?」
「はい、恙なく。『御使い様』も満足されているようでした」
私の答えと持っている報告書を見て、先輩が笑みを浮かべた。
そうして先輩につられて目線を上げる。
神殿に設置された『導きの御使い様』の像が、にこりと笑ったように見えた。
AIだと無駄に長くなりますね。これくらいのネタなら半分以下におさまるようAIを調教したいです。




