3 寺子屋のねえさま
今回は、水絵のもとを訪ねてきた小さな来客のお話です。
その言葉を合図にしたように、ひとりの少年が静かに入ってきた。寺子たちとは違う落ち着いた物腰だった。その大人びた振る舞いに、水絵は目が離せない。
少年は、孝之進の隣に座ると、まだ声変わり前の優しい声で言った。
「宇多川誠太郎です。はじめまして、ねえさま」
にっこりと微笑まれて、水絵はどう対応するべきか戸惑った。救いを求めて孝之進の顔を見るが、誠太郎と同じように微笑んでいるだけだ。
わたしは、あなたのねえさまじゃないと言うべきか、それとも、会えて嬉しい、と言うべきか……迷ったあげく、水絵が口にしたのは、まったく別のことだった。
「八歳でこの判じ物を考えるなんて、賢い子なんだなって、鏡之介さんが……あ、鏡之介さんっていうのは」
「ねえさまと一緒に、この寺子屋で師匠をしている方ですね」
「そ、そう。賢い子なんだなって、そ、その……褒めてましたよ」
寺子屋の子ども相手とは勝手が違い、言葉がぎくしゃくしてしまう。あたふたしている自分と違って、誠太郎は落ち着いている。
そんなふたりを愉快そうに眺めている孝之進の顔も憎らしくて、水絵は、ふっとひとつため息をつくと、誠太郎の顔をまじまじと見た。
確かに、物腰は寺子屋の子どもたちとは違う。羽織こそ着ていないが、着流し姿は孝之進を小さくしたように見える。だが、その表情は……。賢いと言われ、照れたように笑う顔は、寺子屋の子どもと変わらない。それに気づいたとき、水絵は気持ちが落ち着いた。
寺子屋の子どもたちだって、自分のことは「水絵姉ちゃん」と呼んでいるのだ。誠太郎が「ねえさま」と呼ぶことを止めさせる必要はない。そう心に決めた途端、水絵の口調が変わった。
「それで、この草双紙、なんでわたしに? あなたが大切にしていた物でしょ?」
寺子屋の子どもたちに話しかけるように問うと、誠太郎は悲しげにうつむいた。
「家に置いておくと……燃やされてしまうからです」
「ええ!? なんで?」
思わず大きな声を上げてしまうと、誠太郎はうっすらと目に涙を浮かべ、唇をかみしめた。
「……ええと……」
聞いちゃいけないことだったのかと、孝之進の顔を伺う。孝之進は、水絵にはなにも言わず、誠太郎にきっぱりと言った。
「きちんと話しなさい。それでなくては、水絵も困ってしまう」
「わかりました」
誠太郎は、涙をぐいっと拭うと、
「母上は、草双紙が嫌いなのです」
と話し始めた。
亡くなった誠太郎の父、誠之進は、孝之進の兄だった。家を継いだのは孝之進だが、本人はあくまで「つなぎ」だと言っている。もういい歳なのに嫁取りをしないのは、そのせいだと聞いたことがある。
現在宇多川家は、誠太郎の母、後家である栄と誠太郎、そして孝之進の三人暮らしだ。
「草双紙が嫌いって……」
「武士の子が読むものではない。町人のものだ……と」
そうなのかな、と水絵は疑問に思う。お伽噺はともかく、坂田公時も源義経も、武士なのに……と。
そう言うと、孝之進も頷いた。
「私もそう思い、義姉上に進言したのだが、聞き入れてもらえなかった。孝之進は町人に肩入れしすぎると、お小言をくらってしまってな……」
義姉に頭が上がらない孝之進だが、それでも、燃やすのだけはなんとか阻止した。
「眞性寺の寺子屋の子どもたちに下してやったらどうかと申し上げたのだ。そうしたら……」
「町人の子どもにふさわしい品でしょう……と母上が」
悲しげな表情で誠太郎が続けた。
「叔父上に届けていただいてもよかったのですが、私は、ねえさまにお預けしたかったのです。叔父上から、ねえさまは往来物を繰り返し読んでいらっしゃるとうかがったので」
ねえさまなら、大切にしてくださると思ったから……再び泣きそうになる誠太郎を、水絵は思わず抱きしめていた。
自分の大切な物を、親が認めてくれない……。厳密にはそれとは違うのかもしれないが、水絵にも覚えはあった。
「若い娘が、岡っ引きのまねごとなど……」
と、いろいろな人に説教をされるたび、
「はい。分かってますよ」
笑ってごまかしてはいたが、胸の奥深いところがチクチクと痛んでいた。
自分のことだけではない。寺子屋の子どもたちがそれで悲しい思いをしているのは何度も目にしていた。つらい目に遭って泣く子どもたちを、水絵はいつもそうやってなぐさめていた。
大切な物を手放さなくてはならない誠太郎のつらさを思ったとき、考えるより先に、水絵の体が動いていたのだった。
「ねえさま……」
誠太郎は、水絵の胸に顔を埋めて、それでも声は立てずに泣いていた。
「だいじょうぶ。草双紙は全部、寺子屋で預かってあげる。子どもたちにも読ませるけど、大事に扱うように言い聞かせるから、安心して。そして……」
読みたくなったら、いつでも寺子屋に来て読めばいい、そう言うと、誠太郎は、ぱっと顔を上げた。
「来て、いいんですか? ねえさまに、会いたくなったら、眞性寺に来て、いいんですか?」
期待に満ちた目で見上げられ、水絵に「否」は言えなかった。
孝之進の顔をうかがうと、小さく頷いている。
「もちろん、いつでも来ていいのよ」
水絵が言うと、誠太郎は、この日一番の笑顔を見せた。
お読みいただきありがとうございました。
草双紙の行方と、宇多川家の事情は、もう少し続きます。




