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祖母が遺した愛と復讐の魔導書

作者: 夜宵

レティシアの髪は、祖母のそれと同じ、燃えるような銅色の渦を描いていた。それは美しく、目を引く色であったが、この優雅な大邸宅の中では、忌まわしい力の象徴であった。


一家の主人であり、彼女の父親であるバルカスは、食堂の分厚いオーク材のテーブルに座るたび、その髪を見る。そして、口を開く。


「汚らわしい。食欲が失せる」


だからレティシアはそこにいない。彼女は食事の場に呼ばれることはない。

台所の隅、冷たい石床に膝を抱え、使用人が残した冷え切ったスープの残りかすを、ただの空腹を鎮めるためだけに流し込む。


彼女の周りには、常に祖母の強大な魔法の影が纏わりついているかのように、家族は怯えと憎しみを募らせていた。

バルカスと、その妻であるレティシアの母親は、彼女の顔を見るたび、強力な魔法師であった祖母に厳しくされた過去の屈辱を思い出していた。


「あの子には、普通の躾が必要よ」


母親のその言葉は、連れて行かれる過酷な家庭教師の部屋、あるいは地下室に閉じ込められる罰を意味した。他の兄弟のつまらない嘘でも、親はレティシアの話をまるで聞かず、罰と称して彼女を冷暗な空間へと追いやった。


最も悪意に満ちていたのは、姉のフィオナだった。フィオナは、レティシアの銅色の髪の下に隠された、人目を惹く美しさと、いつか覚醒するかもしれない魔力を誰よりも恐れていた。


「ああ、見て。またその薄汚れた服でうろついているわ。まるでドブネズミね」


廊下で擦れ違うたびに浴びせられる悪口は、突き飛ばされる行為や、フィオナが練習する魔法の的にされることよりも、心に深く突き刺さった。フィオナが身に着けている新品の美しいドレスも宝石も、レティシアが使うことを許されない生活必需品まで、すべてが彼女への嘲りだった。


ある日、フィオナが大事な装飾品を失くした。フィオナはすぐにバルカスと母親に駆け寄り、甲高い声で訴えた。

「レティシアが盗んだのよ!あの子の部屋を探して!」


父親はすぐに信じ、レティシアはろくに弁解の機会も与えられず、地下室へ向かう階段を蹴落とされた。突き飛ばされた勢いで背中を打ち、目の奥で火花が散った。


地下室の扉が重く閉ざされる。唯一の光は、外から差し込む小さな格子窓から零れる、細い一条の光だけ。


(どうして、私ばかり……)


彼女を助けに来る者はいなかった。

長兄のユリウスは、その場を遠巻きに立っているだけだった。薄汚れた妹が、自分たちの高貴な一族の恥であるかのように、嫌そうに顔を歪ませ、何も言わずに去っていく。


それが、レティシアの日常だった。憎悪、嫉妬、そして無関心。家族全員の手によって編み上げられた、冷たい檻の中での生活。


しかし、その日、地下室の冷たさが、レティシアの運命を変えることになる。突き飛ばされて倒れ込んだ先、土の床の一角が、他の部分と異なる、不自然な空洞の音を立てたのだ。


◇◇◇


冷たい地下室に響くのは、自分の震える息遣いと、遠くで聞こえる屋敷の微かな生活音だけ。壁に寄りかかり、レティシアは膝を抱えていた。背中の鈍い痛みが、家族の暴力の記憶を鮮明に蘇らせる。


「誰も……誰も助けてくれない」


涙はもう枯れ果てていた。ただ、内側から燃え上がるような、鉛色の憎悪だけが心を支配していた。凍える指先が、突き飛ばされて倒れ込んだ際に触れた、土の床の違和感を再び探る。確かに、他の場所とは違う。指先で土を払うと、黒ずんだ石板のようなものが見えた。


「え、なに……」


好奇心に駆られ、彼女はさらに土を掻き分けた。現れたのは、床に埋め込まれた一枚の古い金属製のプレートだった。その表面には、細かく繊細な模様が刻まれ、中央には見慣れない奇妙な紋様が描かれている。かすかに、祖母の書斎で見たことのある紋様に似ている気がした。


触れた瞬間、レティシアの全身を微かな痺れが貫いた。それは、肌を撫でる電撃のような、あるいは長い間眠っていた細胞が目覚めるような、不思議な感覚だった。すると、プレートの中央の紋様が、淡い青白い光を放ち始めた。最初は弱々しかった光は、レティシアの心臓の鼓動とシンクロするように強さを増していく。


ギィィ……ン。


重々しい音を立てて、プレートの周囲の土がゆっくりと沈み込む。その下から現れたのは、小さな石の箱だった。苔むし、時代を感じさせる箱だが、先ほどのプレートから放たれる光が、その表面を照らしていた。


レティシアは恐る恐る、震える指で箱の蓋に触れた。再び、全身を痺れが走り抜ける。箱の蓋は、彼女の指先が触れると同時に、カチリと音を立てて開いた。


中にあったのは、たった一冊の書物だった。


漆黒の革で装丁されたそれは、埃一つ被っておらず、まるでつい先ほど置かれたかのようだった。表紙には、先ほどの金属プレートと同じ、奇妙な紋様が金色の糸で刺繍されている。手に取ると、ずっしりとした重みが腕に伝わった。


「これは……」


書物の表面に触れると、またしても青白い光が手のひらから書物へと吸い込まれていくような感覚に襲われた。そして、まるで意思を持っているかのように、分厚い革の表紙がゆっくりと開いた。


現れた最初のページには、精緻な手書き文字で、しかし力強く、こう記されていた。


「我が愛しき後継者よ。汝、この書を開いたるは、汝の内に宿る魔力と、我が遺志を受け継ぐ証なり。」


それは紛れもなく、レティシアの祖母の筆跡だった。


レティシアは息を呑んだ。憎しみは湧かなかった。むしろ、胸の奥で、長らく凍てついていた何かが、暖かな火を点されたように揺れ動くのを感じた。


幼い頃の記憶が、薄い霧の中から蘇る。誰もが遠ざけた自分の銅色の髪を、祖母だけは「炎の色」と呼び、優しく撫でてくれた。地下室で閉じ込められる今とは違い、祖母の膝の上は、世界で一番安全な場所だった。彼女が亡くなって以来、レティシアは二度と愛に触れていない。


ページをめくると、祖母の言葉は続いた。


「この家は、もはや私の愛と知恵が生きる場所ではない。私の血筋を引く者たちが、私への憎しみから、汝を傷つけるであろうことを、私は知っている。」


祖母は、すべてを知っていた。両親の嫉妬、フィオナの虚栄心、ユリウスの無関心。そして、孫であるレティシアが耐える苦痛の日々を、魔力で予見していたのだ。


魔導書は、祖母の日記としての側面を持っていた。特に、巻末のページには、祖母の感情の爆発を示すかのような、乱れた筆致の記述があった。


――(祖母の日記より)

【バルカスは、私の魔法を「古き迷信」だと嘲笑し、私を当主の座から引きずり下ろすための計画を進めている。奴は、教会の権力者と手を組み、私が領地を疲弊させたという偽りの報告を流した。彼は、私個人の厳しさを理由に、この伯爵家が代々継承してきた魔力による統治のすべてを否定したのだ。

私の血を引く者、特に私の才能を最も強く受け継いだであろう孫娘レティシアが、彼らの手によって同様に虐げられる未来が見える。この憎悪の家系に、もう安寧は必要ない。私はこの魔導書に、彼らが私から奪ったものすべてを、そして彼らが最も愛するものを破壊するための力を封印する。】



レティシアは、震える手で魔導書を胸に抱きしめた。祖母は家族によって地位と名誉を奪われ、そして死んでいったのだ。彼女の復讐は、もはや個人的な痛みを晴らす行為ではなく、裏切り者への正義の断罪となった。


レティシアの視線が、一際力のこもった記述に釘付けになる。


「力のすべてを、汝の盾としなさい。そして、もし、汝の心が復讐を望むならば――私の教えた力は、彼らを滅ぼすための鍵ともなる。」


そこから、魔導書は一変した。美しく神秘的な治癒や防御の魔法の隣に、標的の精神を破壊する呪文や、社会的な地位を崩壊させる術が、詳細な手順と共に記されていた。


レティシアは、震える手で魔導書を胸に抱きしめた。これは単なる魔法書ではない。それは、祖母が残した、愛と復讐の遺言だった。


地下室の暗闇が、もう恐ろしいものではなくなった。ここが、彼女の監獄から家族への復讐に向かうための、秘密の修練場へと変わった瞬間だった。


◇◇◇


地下室は、レティシアにとって監視のない唯一の聖域となった。


家族は彼女が相変わらず飢えと寒さに震えていると信じていたが、彼女の心臓は今、冷たい土の下で発見した炎を宿していた。


魔導書を開くたび、祖母の穏やかな声が頭の中で響くようだった。書物には、魔法の基本法則から始まり、この家の構造、そして家族一人一人の魔力的な特性や弱点までが詳細に記されていた。祖母は彼女を愛し、守ろうとしていただけでなく、この家で何が起こるかを知り尽くしていた。


レティシアの修行は孤独で苛酷だった。


最初の壁は、魔力の制御だった。体が冷え切った地下室で、彼女はひたすら魔法を練り上げた。魔導書に示された初期の訓練は、小さな光の玉を灯すというものだった。


失敗を重ねるたびに、手のひらに鋭い痛みが走る。何度も試行錯誤を繰り返し、ようやく指先に現れた淡い青白い光を見たとき、レティシアは初めて、家族に貶められて以来忘れていた達成感を味わった。

その光は、祖母の愛の証であり、彼女の未来を照らす希望の灯火だった。


魔法の力が深まるにつれて、彼女の感覚は研ぎ澄まされていった。


* 食事を運んでくる使用人の足音のパターン。

* 姉フィオナが廊下で高笑いする声の微妙な変化。

* 父バルカスが書斎でワインを啜る音の間隔。


彼女はそれらすべてを情報源として利用した。魔導書には、周囲の魔力を読み取る「静寂の術」が記されており、それを使えば、地下室の扉が開く数分前には家族の接近を察知できた。


そして、彼女は魔導書の最も危険なページを開いた。復讐のための呪文だ。


「反射の魔法」を習得する訓練は、特に集中力を要した。これは、術者に対して向けられた悪意ある魔力を、そのまま攻撃者に跳ね返す高度な防御魔法だった。


――憎しみは力となる。だが、その力を理性で制御せねば、汝自身を焼き尽くす。


祖母の警告に従い、レティシアは憎悪の炎を魔力の炉心で燃やしつつも、決して暴走させないよう、細心の注意を払った。


ある日の真夜中、フィオナが酔っぱらって地下室の扉を蹴り、「ドブネズミ!そこにいるんでしょう!」と悪態をついた。


レティシアはすぐに「静寂の術」で気配を消した。フィオナはつまらないイタズラを思いついたのだろう。彼女が扉越しに、弱々しい小型の攻撃魔法を放ったのが、魔力波としてレティシアの肌に伝わってきた。


レティシアは、魔導書の教え通り、覚えたての「反射の魔法」を無意識のうちに展開した。


キン、と鋭い音。


扉に当たった魔法は、次の瞬間にはフィオナに向けて跳ね返り、彼女の足元で爆発した。


「キャアアアアッ!」


フィオナの悲鳴が屋敷に響き渡り、すぐに遠ざかる足音がした。


レティシアは壁に寄りかかったまま、冷たい笑みを浮かべた。初めて成功した復讐の感触は、冷たい氷のようでありながら、心臓の奥底を熱く焦がすものだった。


(これで終わりではない。まだ、誰も何も気づいていない)


◇◇◇



地下室での修練を重ねるうち、レティシアは自らの魔力と、祖母の知識に対する確信を深めていった。彼女が一番目の標的に選んだのは、やはり姉のフィオナだった。


フィオナの最大の弱点は、自己愛と、それを満たすための地位への渇望である。彼女の人生のすべては、王国の若き王太子アルフレッドの婚約者の座を獲得するために捧げられていた。


魔導書には、対象の心の奥底にある感情を言語化し、隠したい真実を公の場で暴露させる「虚飾の解呪デクレア・ヴァニティス」という魔法が記されていた。


レティシアは、フィオナが王城で開かれる重要な夜会に参加する日を狙った。その夜会は、王太子が正式に婚約者候補を絞り込む場だと噂されていた。


その日、レティシアはいつものように地下室に閉じ込められていた。しかし、彼女は魔力で屋敷の結界を微かにすり抜け、フィオナの部屋の様子を視覚化していた。


フィオナは、侍女たちに豪華なドレスを着付けさせ、鏡の前で完璧な笑顔の練習をしていた。その姿は、自信と、成功への確信に満ちていた。

(鏡よ、貴女の真実を映しなさい)

レティシアは、魔導書から視線を上げ、冷たい地下室の壁に向かって、呪文を織り始めた。呪文の詠唱は長く、複雑で、体内の魔力を絞り尽くすようだった。


「己の顔貌かおに酔いしれ、他者の価値を貶める者よ。汝の魂の深き底を、今こそ世に曝せ――虚飾の解呪デクレア・ヴァニティス!」


呪文が完成すると同時に、レティシアの全身から薄紫色の魔力の波が放たれ、屋敷の床を這い上がり、フィオナが乗り込む馬車へと到達する―――。


王城の広間は、シャンデリアの光で眩く輝き、王族や貴族たちの熱気に満ちていた。フィオナは、王太子の隣に立ち、優雅な微笑みを浮かべていた。完璧だった。

王太子アルフレッドがフィオナに向かって、何か親密な言葉を囁いたその瞬間、呪文が発動した。


「フィオナ嬢は、実に美しいですね」と王太子が褒めると、フィオナの口が、彼女自身の意志とは無関係に動いた。


「ええ、知っていますわ。私の容姿は、あの忌々しい妹の炎色の髪を持つあばずれよりも、ずっと優れているに決まっています。あの子がこの場にいなくて本当に良かったわ。あの子はいつも私の邪魔をする。この婚約者の座さえ手に入れば、あの子を永久に地下室に閉じ込め、二度と日の目を見させないのに!」


場が一瞬にして静まり返った。フィオナは自分の言葉に恐怖し、口元を押さえたが、もう遅かった。彼女の美しい笑顔は引き攣り、青ざめた表情がすべてを物語っていた。

王太子は顔から笑みを消し、冷ややかにフィオナを見つめた。


「レティシア嬢のことですか。なるほど。私はてっきり、貴女は優雅な淑女だとばかり……」


フィオナは必死に否定しようとしたが、口を開くたびに、心の奥底にある嫉妬心や卑劣な噂を流した事実、そして過去の悪事が、次々と饒舌に暴露されていった。


「王太子殿下が私以外を選ぶなど、許されないことです!私は、私が、この国で一番でなければならないのよ!」


その夜、フィオナは王太子の怒りを買い、婚約者候補から即座に除外された。彼女の虚栄心と地位は、自らの口によって、音を立てて崩壊した。


邸宅に帰宅したフィオナは、怒りと屈辱で発狂したかのように泣き叫んだが、その原因が地下室の妹にあるとは、夢にも思わなかった。

地下室のレティシアは、その夜会の一部始終を、壁に魔力を通して聴いていた。復讐の達成感は、冷たいスープよりもずっと甘く、彼女の心を潤した。


(お姉様、貴女が一番欲しかったものを、貴女の最も醜い言葉で破壊しました。これは、始まりに過ぎません)


◇◇◇


姉フィオナの社交界での破滅は、レティシアの両親――バルカス伯爵と伯爵夫人――に大きな衝撃を与えた。しかし、彼らは原因が末娘にあるとは夢にも思わず、自分たちの血筋が落ちたことに怒り狂うばかりだった。


フィオナへの復讐が、レティシアに次の段階への確信をもたらした。ターゲットは、憎悪の根源である両親。


魔導書には、対象の視覚と精神に作用し、最も憎むべき幻影を常に視認させる「深層の鏡の呪い(ミロワール・オブスキュール)」が記されていた。

レティシアは、両親が最も嫌悪する祖母の姿を彼らに見せることに決めた。


ある夜、バルカスが書斎で、崩壊したフィオナの未来と家の権威の維持について、妻と話し合っているときだった。


レティシアは、地下室から呪文を詠唱した。魔力は、屋敷の堅牢な壁を通り抜け、書斎にいる二人を静かに包み込む。


バルカスが妻に顔を向けた瞬間、彼女の顔が、銅色の髪を持つ、優雅で威圧的な母親の顔へと変貌した。


「な、何だ…?」


バルカスは叫び、椅子から転げ落ちた。


「貴様は…母上!なぜ、ここに!」


伯爵夫人も同様だった。夫が、かつて自分たちを屈服させた冷徹な義母の姿に見える。


「いや…やめて!私たちを軽蔑するようなその眼をしないで!」


呪いは、鏡を見る時だけではない。相手の顔、窓の外の景色、水面に映る自分の姿。あらゆる場所に、憎み、恐れ、そして嫉妬していた祖母の姿が浮かび上がった。


祖母の厳格な眼差しが、彼らの不正と怠惰を詰問する。

祖母の優雅な口元が、彼らの権威の虚飾を嘲笑う。


呪いの効果は、次第に彼らの生活を蝕んでいった。互いに相手を祖母の幻影と見なし、恐怖と憎悪で口論が絶えなくなる。公の場に出ても、彼らの目にはすべての貴族が祖母の側近に見え、被害妄想に駆られる。


バルカス伯爵は、重要な公務の場で、居合わせた重鎮に「母上、この国の権威は貴方様のものではない!」と叫び、伯爵としての信用を一瞬にして失墜させた。


伯爵家は、フィオナの醜聞に続き、当主夫婦の狂気によって、瞬く間に社交界の笑いものとなった。財産は投機的な取引で失われ始め、召使いや領民も、もはや崩壊した権威に従おうとはしなくなった。


レティシアは、地下室でこの一連の崩壊を静かに観察していた。彼女の復讐は、命を奪うことではなく、彼らが最も大切にしていた「伯爵家の権威」と「精神の安定」を奪い去ることだった。


(これで、父様と母様の檻は、私のものではなくなりました。今、彼らが閉じ込められているのは、自分たちの憎悪が作り出した地獄の中です)


◇◇◇


長兄ユリウスは、邸宅の混乱を絶好の機会と捉えていた。


(この醜態だ。父上はもはや当主の器ではない。フィオナは論外。今こそ、私がこの家の権威を継ぐ時だ)


彼は、書斎で家系の印章と領地の権利書を握りしめ、新当主として権威を確立するための声明文を書き上げていた。この家が崩壊しつつある中、自分の権力だけは守れると確信していた。


その背後に、レティシアが音もなく立つ。薄汚れた粗末な服は、彼女が魔力で作り出した漆黒のローブへと変わっていた。


「お兄様」


ユリウスは飛び上がった。彼が振り返ると、そこに立っていたのは、彼が常に遠ざけてきた妹の姿ではなかった。彼女の全身から発せられる魔力の威圧感は、ユリウスが今まで見たどの熟練の魔法師よりも強大だった。そして、その顔は、彼が幼少期に畏怖した祖母の容姿と、憎むべき妹の冷たさを併せ持っていた。


「レティシア…貴様、一体何を…」


「何を、ではありません。お兄様は今、この家の崩壊を『好機』と捉え、当主の座を奪おうとしていらっしゃいましたね。私や、家族の苦痛を、常に自分の利益と安寧のために傍観してきた、貴方らしい振る舞いです」


レティシアは魔導書を手に、「傍観者の報い(ザ・ウォッチフル・ペナルティ)」という呪文を、ユリウスに向けて放った。


「貴方は、私を助けなかった。私の苦しみを、自分の安全のために見過ごした。だから、貴方も私と同じ絶望を体験するべきです。ただし、貴方が一番大切にする『権威』と『野心』が崩壊する瞬間に」


呪文がユリウスを包み込む。彼の視界は歪み、目の前の部屋が、一瞬で変わった。


彼は今、領地の有力者たちが集まる評議会の壇上に立っていた。新当主として承認を受ける、彼の人生で最も重要な瞬間だ。しかし、彼が堂々と演説を始めようとした瞬間、観衆の声が、彼の耳に直接響いてきた。


それは、かつて彼が無関心を装って見過ごした、レティシアの苦痛の記憶だった。


「お兄様が、私を助けてくれると思ったのに…」レティシアの微かな声が響く。


「私が苦しんでいるのを知っていて、見て見ぬふりをしたんですね」


そして、彼の最も愛する恋人の声と、友人の声が、評議会の列席者の中から響き渡った。


「ユリウスは、自分の家族すら助けられない、冷たい人間よ。こんな男に、領地を任せるなんて恐ろしいわ」


「彼はいつも自分のことしか考えていない。誰かの助けが必要な時、彼は決して動かない。こんな人間が当主になっても、私たちを助けるはずがないだろう」


ユリウスはパニックに陥り、言葉を失った。壇上で膝を突き、助けを求めようとするが、彼の声は誰にも届かない。列席者全員の冷たい目が、彼を傍観者として、そして無能な野心家として見下していた。


現実の書斎に戻ったユリウスは、恐怖と屈辱で全身を震わせていた。目の前のレティシアは、もはや彼の妹ではなかった。


「貴方が最後に失うものは、私への無関心と引き換えに守ろうとした『権威と未来』です。誰にも助けられない絶望を、貴方の体で感じなさい」


レティシアは、祖母の魔導書を閉じ、最後の力を込めて、伯爵家の紋章が刻まれた書斎の壁に手をかざした。


「終焉の解放リベラティオ・デストゥル


祖母の魔力と、レティシアの抑圧された怒りが合わさり、屋敷全体を揺るがす強大な波動となった。屋敷の地下から発生した魔力の奔流は、家の基礎を文字通り崩壊させた。


伯爵家の邸宅は、一夜にして瓦礫と化し、その存在は領土から消え去った。


レティシアは瓦礫の上から、崩壊した一族の残骸を一瞥し、そして背を向けた。彼女の復讐は完遂された。


彼女の銅色の髪は夜明けの光を浴び、自由の光を反射していた。祖母の魔導書を懐に抱き、レティシアは真の魔法師としての旅を、静かに歩み始めた。


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