コアセルベートにはなれない僕らだから
いにしえの頃、と言うほどむかしでもないのかもしれないけれど。私にとっては、むかしむかしのエッセイのような日記のようなものを少し読み返した。私は小説家を目指している。ただ、小説を投稿した時よりもエッセイを投稿した時の方が、ブックマークを貰ったり星を貰ったりと伸びが良いので、エッセイの連載を開始してみようと思い、その学びの為に読み返してみた。それは一言で言って、とても暗いエッセイのような日記のようなものだった。でも、むかしむかしの私が確かにそこにいた。
人間は皆、ひとりきりであり個の生物であり、コアセルベートのようでは決して有り得ない。
これが過去の私の言葉として、そこに綴られていた。
コアセルベートとは、生命の起源と考えられている原始細胞のことらしい。実は私も詳しくは理解出来ていない。それでも、むかしむかしの私はそれを思いとして綴ったのだ。
人間が皆、個の生物であるという考えはいまも変わらない。むかしむかしの私は、その思いを抱えつつも、本当はコアセルベートになりたかったのかもしれない。もしくは、それに準じるなにかを探し続けていたように思う。恋という形に求めたような軌跡も残されていた。息苦しい、長続きしないであろうという推測が容易に出来る恋が綴られていた。それでも私にとっては宝石のように大切な恋だった。
病状や症状がある人というものは、生きて行きづらさを抱えているのかもしれない。私のように。近くて遠い誰かのように。その病状や症状が、私は長い時間を掛けて緩和されたのだと、いにしえのエッセイのような日記のようなものを読んで実感した。暗くてつらくて長いトンネルを抜けたのだ。私ひとりの力ではない。医者と、友人の助けあってのものだった。ただ、もう連絡をすることは出来ないであろう友人もその中には存在する。なにが理由かは明確には分からないが、病状のある私が彼らを振り回したことは確かなことだ。悔悟が募る。
なにが正解だったのか分からないまま、私はここまで歩いて来た。時に振り返り、休み、未来を夢みながら。本当は、そんな美しく綺麗な言葉では言い表せない苦悩もあった。私の人生、どうしてこんなことに。何百回と、そう思った。それでも、小説家になるという夢が私を支え続けていた。その思いが、ずっと根底にあった。パソコンのモニターの光は、私の夢を照らす光だった。泣きながら帰りたくない家に帰り、簿記の勉強をして、遮光カーテンを閉めて。小説を書けない期間も多くあった。それでも夢を諦められなかった。
あれから沢山の時間が流れた。私はまだ、小説家になれていないけれど。でも、小説家への夢を持ち続け、執筆活動を続けているよと。むかしむかしの私に伝えたい。まだ、完全に回復したわけではないけれど。疲れやすくて、つらい時もあるけれど。毎日、楽しいよと。そう、伝えたい。過去の自分を救い出したい。
不意に、足元から寂しさの花が咲いて動けなくなることもある。その花は、土の下に根を張ってしまうこともある。ただ、近頃になって思うのは、その花も私自身の一部だということだ。その花を見ていても良いし、見なくても良い。切り花にして水を入れた花瓶に飾っても良いし、ドライフラワーにしても良いし、もしくは捨ててしまっても良いのだ。私の自由だ。でも、きっと私はいままでに咲いた寂しさの花を私の根底に生けているのだろう。どれひとつとして、捨てずに。時々に見たり、見なかったりしながら。私は全ての花とここまで歩いて来たように思う。寂しさの花以外の花も咲かせながら。
祈るように眠った日も数え切れないくらいある。今日はがんばったから嬉しいなという思いで眠った日は、ようやく最近になって生まれ始めたものだ。むかしむかしの私は、ただただ明日が来ることを泣きそうになりながら祈り、眠っていた。本当は、私はここにいるよと誰かに気が付いてほしかった。愛されたかった。否定しないでほしかった。様々な思いを抱えてまるくなって眠っていた。明日を迎える為に。
過去から連続している私が、現在を迎えてここにいる。これからも私は未来へ旅を続けて行く。小説家になる夢を叶える為に。沢山の喜びと出会う為に。
むかしむかしの私へ。旅を続けてくれてありがとう。これからも私は歩いて行くよ。一緒に行こう。泣いても笑っても私の人生だ。




