ep8.コン
『俺を取れ…』
「…うぉ!」
何者かの声が棒の近くから聞こえてくる。
そして体は操られたように棒に触れようと手を伸ばした。
抗おうと力を入れると、中から筋肉が引き千切れるイメージが湧く。
(コイツ…!)
謎の力に抗おうとするも抵抗むなしくその棒に巻かれた布に手が触れた。
瞬間、胸に激しい動悸と共に感じたことのない恐怖の塊が口内から体内へと侵入した感覚を味わう。
「だ…大丈夫か、兄ちゃん」
数分か、あるいは数秒か、店主の声に振り返ると目の前の店主の顔がぼやけていた。いや、店主の顔だけではなかった。
周りのモノ全てがぼやけている。
「視力が…落ちている」
理解するのにしばらくの時間を使ったが、間違いないようだった。
あれほど美しく見えていたオリエンドルフの街並みが今やぼやけていて、色も混ざっていて境界が分からない。
店主がそこにいたという事前の情報があったおかげで、馬車の入り口に立っているのが店主だということが辛うじてわかるほどだった。
原因を考えるならこの赤黒い布に包まれた六尺の棒だろう。
それから心臓がグツグツと熱くなるような感覚が痛みと共に激しくなっていき、それが血管を伝って腕へ、そして腕から棒へと伝播していっているように感じた頃。
棒を包んでいた赤黒い布がハラリと落ち、包まれていた棒が姿を現した。
全体が灰色で両方の先端に赤い瞳のような宝石が組み込まれているその棒は、決して気のせいではなく、握った手から脈動を感じることが出来た。
「お、おい!兄ちゃん一体どうしたんだ」
店主の声が先ほどよりも大きく聞こえた。
聴覚がより敏感になっているのか、遠くから荷物を運んできている別の店の馬車の音が聞こえた。
自分でも何が起こったかよく分からないが、この棒が自分の体の一部のように感じることだけは確かだった。
「あぁ…悪い、返すよ」
元の持ち主に返すため店主に渡そうとすると、店主は一歩下がり両手の手のひらを前にして受け取りを拒否した。
「いや、そんな気色悪いモノを返されても…。布巻いてあっても呪われそうでもう売りモノにもなりそうにねえ。まあ、何だ。夢の応援ってことで兄ちゃんにやるよ…それ…」
そう言われ、自身もこの明らかに普通ではない棒の所有者になるのは嫌だったため、馬車に残そうとした時、先端についた宝石の目の部分が笑っているように歪んだ。
『よろしく頼む。クル・メディオ』
脳内に男とも女とも言えない独特の声が響く。
「おっさん…今の聞こえたか?」
「な…何を言っているんだ?兄ちゃん…」
店主が奇妙なモノを見る視線を感じる。
『私の声は他には聞こえないようだな。好都合だ』
「なんなんだ、お前一体…」
『さあな。だが…お前が近くに来て私は目覚めた』
「俺のせいだっていうのか?」
『それも分からない。とりあえず、君の記憶の中にある、あの小さい雌のところに戻ったらどうだ?旅の連れなんだろう?』
(厄介なモノに関わってしまったみたいだな…)
パルモにどう話そうかと思いつつ道を歩いていると先ほどまで歩いていた道がどこだったか、まるで分からなくなった。
『目で見るのは大変じゃないか?』
(おかげ様でな)
『鼻と耳を使え』
(お前そういうのは分かるのか?)
『別に何かを思い出したわけじゃない。ただ君と同じ体験をしているんだ。視力の低下と引き換えに鼻が利くようになったのなら、それに適応するのが自然だ』
(鼻で感じるって…犬じゃないんだぞ…)
そう思いながら鼻に意識を集中させる。
この町の活気あふれる人々の汗の匂いに走る馬の匂い、そしてレンガ造りの家のテラスに飾られた花の匂い…。
様々なモノが混ざりあってこの町の匂いを形成しているのが分かる。
そんな匂いの中で冒険者ギルドを探す。
彼らと関係する匂いはなんだ…?
歩きながら探していると、女の匂いが強くする場所を見て、そこが娼館ということが分かり、銀の匂いが強くする場所を見ると銀行だということが分かった。
『メディオ。どうやらその場所に関わる匂いがあるようだ』
「俺の事メディオって呼ぶ気かよ」
思わずツッコミが口から出てしまう。
道のど真ん中を歩いていたものの、早朝で人がいなかったことが幸いだろう。
『気にくわないなら別の呼ぶ方にするが?』
(いや…いいよ…好きに呼んでくれて)
声に出さずとも強く念じた思考が、この棒とだけ共有できるというのはちょっと考えると便利だなぁなんて悠長に思う。
『では、クルクル』
(いや、だったらメディオの方がいいな。メディオにしよう。で、お前もなんか名前がいるだろう?)
『固有名称は不要だ。私は“棒”でいい』
(色んな都合も考えろ。名前がいるんだ。なんかないのか、良い感じの名前。脈打ち丸~とか、~灰色のロッド~赤色の宝石を添えて~とか)
『では“コン”と呼べ。…話が脱線したな、いいか。匂いの痕跡を辿れ。その場所でしか嗅ぐことの出来ない特有の匂いを探すんだ』
(コンか、了解。そうは言ってもギルドの匂いなんて覚えちゃいないし、パルモなんて無臭だぞ)
『いいや、昨日君は嫌になるほど嗅いだはずだ』
遠まわしに言わずにとっとと教えてくれたらいいのに、なんて思いつつ昨日あった事を思い出す。
(パルモと出会い、パルモと冒険者ギルドから用水路を通って帝都を出て、そしてそれから草原を歩いてこの町にまで来た…そうか、俺は一度冒険者ギルドの匂いを嗅いでいる!)
『君の頭はチンパンジー以下か?冒険者ギルドが同じ匂いとは限らんだろう』
(チンパンジーは賢いらしいな)
『…昨日イノシシ型の魔物の匂いを嫌というほど嗅いだ記憶があるようだが、意識の表層に浮かべることを嫌がっているのか?』
(…なるほど…イノシシの匂いを目印に探せばいいのか)
そうしてイノシシの匂いが強くする方へと歩いていくと串焼き屋の前につき、そしてまた歩いて探すと精肉店についた。
(なにかいい手は…)
『根気だ』
それからも地道にイノシシの匂いを頼りに街路を歩いていると、やっとぼんやりと大きな建物が目に留まった。