跳んで、回って、叩いて、転がって。
朝の陽ざしも頼りない中、俺達はじっとりとした霧の中を歩いていた。
四方は霧に包まれて一寸先も見えない状況が続いているが、パルモは地図を眺めながら山道をスイスイと泳ぐように登っていく。
俺はソレについて行くのに必死で、彼女のふくらはぎに目を固定させて歩いた。
そうしてそろそろ一時間が過ぎたのではなかろうかと思うところで、たまらず俺はパルモに聞く。
「ゼェ…ゼェ…パルモは頻繁に山に登るのか?」
「ううん?」
体力には少し自信があったが、その自身はパルモの一言で打ち砕かれた。
技術うんぬんではなく、勉強ばかりしているように見える彼女に体力という点で完膚なきまで負けてしまい、俺は遂に木にもたれかかった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
リュックを下ろして新鮮な空気を体に取り込む。体は汗なのか霧なのか分からない状態で最悪だ。水を少しだけ口に含むと、自分が知らないウチに喉が渇いていたことも自覚出来た。
霧だと自分が喉を乾いているのかさえ分からなくなる。
「止まったら後からもっと辛いよ? 」
彼女のその言葉に、「あのさ、俺は今辛いんだ」と返したい気持ちは山々だったが、そんな言葉を飲み込んで、呼吸を整えて俺はリュックを背負い直した。
上へと登るにつれて口数が少なくなり、中腹に到着した辺りで俺の口は完全に閉口していた。
呼吸音だけが霧の中に響く。
恐ろしいほどに静かだ…魔物がいるんじゃないのか?
俺は鼻に意識を集中させていると、パルモは俺の行動に気づいて聞いてきた。
「クルさん…魔物の血の匂いはする?」
「…いや、しない」
そう返答し、確認のためにもう一度周囲の匂いを嗅ぎ取ったがやはり魔物の血の匂いはしなかった。
「変だなぁ…ここまで一度も魔物に出会わないなんて」
パルモがそう口にした。
彼女もこの状況は想定外のようだった。
何かが引っ掛かると思いつつ、それからも歩いているとパルモと俺は同時に動きを止めた。
「パルモ」「クルさん」
お互いに気がついた。山頂に続く道で霧の奥に人の気配がする。
茂みに隠れ、彼らが何者なのかを知るためジッと待っていると、霧の奥から声が聞こえてきた。
「オイ…最近逃亡者ってのはよぉ、香水吹いて逃げんのか?」
俺は心臓が爆発しそうになった。
俺が彼女を見つけやすいようにとパルモが付けてくれた香水のことだ。
まさかこの霧の中で鼻を聞かせている奴がいるなんて…!
「いるのは分かっている…とっとと出てこい屑ども」
当然、俺達はその場にとどまり待つことしか出来ない。
ココで出て言ってもなんのメリットもないからだ。
気のせいだったと思って早くこの場所から去ってくれ。
「…チッ。【大いなる自然の力よ、我が前に立ちはだかる障害を切り裂く、烈風と化せ!ナチュラルゲイル!】」
男の詠唱が霧の中から響いたと思ったその瞬間、暴風が吹き荒れ俺の体はその風にフワリと舞い上がった。
「クルさん! 木に掴まって! 」
パルモの忠告を頭に入れて行動するまでに時間がかかった俺は、そのままなす術もなく木よりも高く体が宙に舞った。
「や、ヤバい!飛ばされる!」
竜巻が俺を中心に巻き起こり、枝葉を巻き込み空へと俺を押し上げていく。
霧の向こうから騎士の恰好をした赤い髪の男が、コチラを見て歯を剥き出しにして笑っていた。
「ヒャッッハッハッハッハ!やっぱり居やがった!団長の言っていた通りだぜ。ココで待ち伏せしてりゃあ獲物からやって来るってヨォ…しかも飛ばされたのは無能の方じゃねえかぁ?…ソイツは好都合だぁ!俺は強い奴以外に興味はねぇ!」
男の狙いはパルモだった。
彼女が危ない、しかし風の前に無抵抗の俺は飛ばされることしか出来なかった。
「パルモォォォォォ……!」
「こっちは何とかするから!クルさんは何とかして私を探して!」
空高く上がっていく俺に、パルモは最低限の事だけを伝えた。
そうして山の全てが見えるほど高く空へと飛びあがった俺は、自由落下をし始めるタイミングで初めて自分が今命の危険に晒されていることを思い出した。
そういや結構マズくないか。と。
「ワァァァァァァァ………………! 」
落下に伴い、叫びながら短い時間で走馬灯の準備を始めているとコンの声が頭の中に響いた。
『動かないようなら私が制御をするぞ』
「な、何でも良いからどうにかしてくれ! 」
そう叫ぶとコンは俺の体の制御権を奪い、背中のコンを取り出した。
どうするつもりかと思っていると、コンは空中で体の制御をしながら初めに落下していく着地地点を目視で確認をした。
しかし相変わらず下は霧が濃くて地面がどこにあるのかさえ分からなかった。
『クソッ…見にくいな』
コンは森の中に落ちると、高い木に生えた枝にコンを叩きつけながら枝を折ることによって減速に成功させた。
そして落下点を岩のない腐葉土に落とすことでそれでも残っていた衝撃の殆どを柔らかい土に吸収させることに成功させたのだった。
人間よりも人間の体を動かすことが出来る、コンという万能武器に敬礼しながら俺は彼を労った。
「ありがとう……本当にお前のおかげ」
『次の町に着いたら私の手入れをしっかりするんだぞ』
コンにそうカッコつけられてしまい、俺は少し力が抜けて笑いがでた。
コン、おまえはすげえよ。千メートルはあろうかという標高から、魔法によって吹き飛ばされ森に落ちたというのにコンのおかげで無傷でいられている。こんなのはコンじゃなければ出来なかった。
「俺がS級冒険者になったらお前のレプリカ沢山作ってやるからな」
『君が私に感謝している気持ちは伝わってくる。しかし結構だ』
「フッ……恥ずかしがり屋め」
俺は立ち上がって全身についた泥を落とした。地面が湿った腐葉土だったのも、かなり幸運だったと言える。
「ヨシッ…パルモを探そう」
はぐれてしまったパルモの匂いは麓の森からでも十分に辿ることが出来る。
……彼女の名誉のために俺は心に誓えるが、決して彼女の香水がキツイわけではない。
目の悪い俺が見つけやすいようにという彼女の気遣いの証である。
俺はそれを追って、正規ルートではない獣道に足を踏み入れた。
『どうやら魔物の気配もするようだぞ、メディオ。分かっているか?』
コンの助言の通り、確かに俺達の向かう先には魔物達の臭いがした。
俺一人ではどうすることも出来ない相手だ。
……しかし男にはいかねばならぬ時がある。きっと今が勇気を振り絞る時のはずだ。
そう決心してなるべく獣の匂いから離れるようにしながら、パルモのいる山頂付近まで進んでいくと、その道中に山の中で大きな花畑に出た。
斜面に咲き誇る花々全てが薄ピンクで、その一帯が木々に囲まれた小さな楽園のようだ。
俺達はその楽園に警戒しつつ足を踏み入れると、視界の奥に一際大きな蕾を持った花に視線がいく。
「大きな花だな…」
花びらの一枚が両手を広げてギリギリ足りないぐらいの大きさだった。
『メディオ、気を付けろ。アレだ。君たちの探していたのは』
コンの言葉に何のことかと記憶を探る、そしてグロリアスマンティスは大きな花カマキリだという情報を思い出した。
『どうやら思い出したようだな』
「あれが?…あんなに実物は大きいのか?」
どうやって攻撃を仕掛けようかと考えていると、人並みの大きさの蝶が鱗粉を振り撒きながらその大きな花弁に蜜を吸いに飛んできた。
(や、ヤバいぞ…大きい蝶がグロリアスマンティスに近づいて行ってる…!)
そして大きな蝶の魔物がグロリアスマンティスの花弁に触れた瞬間、花はガバッとその蕾を開き、中からカマキリが姿を現すと、両腕で蝶の魔物をガッチリとホールドして頭からバリバリと貪り始めた。
(ウヘェ…帝都の公園にいるのとはえらい違いだなぁおい……)
『メディオ、先ほど飛んでいた蝶の鱗粉を私に喰わせろ』
コンは蝶が飛んできた場所に俺を引っ張った。
その場所に足を運ぶと、確かにコンが言うように蝶の鱗粉は木に引っ付いていた。
そんなコンの目当ての鱗粉は普通の蝶よりも大きく爪ほどあり、霧の中でも目視で簡単に見つけることが出来た。
グロリアスマンティスが蝶を捕食している間に蝶の鱗粉を棒でつついてコンに食べさせてみる。それで一体どうなると言うのか分からなかったが命の恩人の言うことだ。疑いを持たず、少しぐらい聞いたっていいだろう。
(これで良いのか?)
『まだ…足りないな。そうだな、あの化物蟷螂に一度攻撃してみてくれ。なに、触れた瞬間に君は走って逃げたらいい。グロリアスマンティスが蕾に戻った時がチャンスだ』
「それは、む・り」
命がいくつあっても足りないだろう。
『そんなに堂々と言われても困る。それに倒すしか君がこの先を進む道はないぞ?』
そう言われ周囲を確認すると、丁度グロリアスマンティスの後ろだけなだらかに人が登れるようになっており、他は全て急な崖になっているのが目に留まった。
(流石にこう不幸が続くと、病みそうになるな)
目に涙を浮かべつつ、グロリアスマンティスに接近すると蕾は食事を終えて満足しているのか閉じたままである。
やるなら今だ、というコンの声が幻聴として聞こえてくる。
呼吸を整えて一撃を加えるよりも一撃を加えた後に逃げるための足に力が入った。
初めての強敵がなんでこんなに強敵でなければならないのか。そんな意味不明なことを考えながら、ソロリソロリと近づいて…。
「……ウラッ! 」
蕾に向かってコンを叩きつけると、蕾は翼のように広がり両手を広げたグロリアスマンティスが両手を広げてコチラを威嚇した。
その時の俺の引き際と言ったら、間違いなくS級だっただろう。
俺は危険を察知して、一目散に来た道を転げ落ちるように走った。
その後ろから羽を広げてグロリアスマンティスは“ボボボボ”とおよそ虫からしていい羽音ではない音を立てて飛んでくる。
(ヤバい! 追いつかれる! )
何とか地の利を生かし、大きな魔物が通れないような木と木の間を縫うようにして森の中の花畑から脱出すると、あの魔物は花畑から外に出ようとはせず、自分の花畑へと踵を返して帰って行った。
(な…なんで追ってこないんだ!? )
大粒の汗と過呼吸に悩まされながらコンに聞く。
『おそらくはテリトリーだろう。アイツはあの中で生活しているんだ。余程怒らせない限りテリトリーの外に出ることはなさそうだな』
テリトリーというコンの言葉に、動物だからそういうのもあるのかと、足りない頭で無理やり納得させるしかないのが現状だった。
とにかく、そのテリトリーとかってヤツのおかげで俺はアイツに追われずにすんで、こうして息をしていられるということだ。
最高じゃないか、テリトリー。どんな魔物にもテリトリーはあるのだろうか。