39.休憩
寮に帰って、火音の部屋の扉を開けた。
地べたに座っていた火音はアルコールと水で乾燥してがさがさになった腕を爪で掻きむしっていて、月火はそれを慌てて止めた。
「ちょっと……! 大丈夫ですから、もう触らないで」
「だって……!」
「何もいませんよ。大丈夫。いつものちょっと気持ち悪いやつです」
火音の右腕を押さえながら、首に片腕を回して落ち着かせた。
火音は左手で月火の背を掴み、その気持ち悪さを我慢する。
月火の手が触れて数分もすると少し気持ち悪さが消えて、湧き出る虫が消えた。
「手当しましょう。虫も覆っていたら触れないでしょうし」
「お前体調は? 溺れた直後なのに。リレーも」
「体調は特に問題ないです。リレーは全国中学生水泳大会一位に任せてきました」
「そんな奴いるんだ」
「澪菜さんですよ」
ちなみに高校生部門は結月でした。
月火は火音の腕を掴みながらリビングに移動して、カーペットの上に座らせると黒葉を出してもたれさせた。小さな白葉が腕置き係になって、月火は火音の腕の傷口を濡れコットンで拭う。
「……大丈夫なら水ですすいだ方がいいんですが」
「水は平気」
「じゃあ行きましょう」
「すすいでくるけど」
「水でこうなったんですから念の為ですよ」
腕を洗ったあとは薬をこれでもかと言うほど塗って、もう傷口じゃないところにも塗って、ガーゼを貼り付け包帯を巻いた。
その間どっちも話さず、火音は珍しくぼんやりとしている月火に首を傾げた。
「お前やっぱりまだ気分悪いだろ」
「よくこんな状態になってまで助けましたね。火音さんなら見捨てるかと思いましたが」
「腐っても教師なんで」
「……火音さんを助けられるのが私でよかった。これでおあいこです」
「……いや、たぶん生活基盤に関係ない玄智とかなら見捨ててた気がする……?」
「おい教師ッ」
「いや、まぁ月火が手伝えって言うなら手伝うけど。……俺が自分で助けるのは生活基盤のお前だけ」
「生活基盤って言葉がなかったらいい言葉なのに」
「いい言葉にしないための生活基盤だよ」
月火は火音の二の腕をつねると不満そうに睨んだ。
火音は月火の頭を撫でて、いつも通りの反応をする月火を見て安心した。
ロマンチックに言えば一緒に過ごした時間の問題なんだろう。でも、平行世界がない限り火音を助けれるはたった一人月火だけ。
だからこそ長く一緒に過ごしてきた。
八年間、ほぼ毎日一緒に過ごしてきたこいつが死んだとなると夢見が悪すぎる。てか普通に怪異になって殺される気がする。
死ぬのはいいが、こいつが死ぬのはなんか嫌だから。
ずっと神経を尖らせていたのがふっと緩むと、月火が火音の手を払い除けた。
「邪魔です退けてください」
「よーしよしよし」
「犬みたいな扱いしないでくださいッ!」
「……犬の扱いは人間の本能か?」
「知りませんけどッ!」
人生で犬を触ったことがない火音は月火を離すと、月火はポニーテールを整えた。
競技用のシリコンキャップだったので髪は濡れていない。
「……なんですか?」
「さすがに人の生死を見ると精神がもたん」
「意外ですね。何にも動じない冷酷無情人間かと思ってました」
「こればっかりは慣れん」
火音は月火に覆い被さるようにもたれると溜め息をついて、月火は火音から流れてきた一瞬の記憶を脳内で再生する。
誰かが廊下で倒れていた記憶。たぶん、月火の知らない人だが。
「……前もこんなことがあったんですか?」
「うん。……毎回毎回心臓に悪い。ほんとに」
「すみません、助かりました。命の恩人です」
「感謝を述べろ」
「あざまーす」
背をつねられた月火はくすくすと笑って、火音を押し返した。
相当疲れたらしい火音は黒葉に抱き着いて、白葉は構ってほしそうに周囲をうろちょろ歩く。
火音が白葉を撫でて無邪気に喜ぶ狐に癒されていると、救急セットを片付けた月火のスマホに電話がかかってきた。
「鳴ってる」
「……玄智さんですね」
月火はスピーカーにするとポケットに入れて、手を洗い始めた。
『月火! 火音先生大丈夫だった!?』
「今は狐とじゃれてますよ」
『戻ったんなら良かったけど……狐すごいねあの水! 水の塊がどーんて!』
『語彙力語彙力』
「神通力の一種なのでめっちゃ妖力使いますけどね。一種の芸になってよかったです」
プールの水が完全になくなったあと、月火は急遽澪菜に二回泳いでと頼んで白葉をその場に残し、寮に戻った。
観客が集まったところで玄智が白葉に頼み、水を宙から落としたってわけ。まぁ一種のショー。
『皆大興奮だったよ。いやぁ月火がいてくれてよかった! 長生きしてね』
「妖輩に言う言葉じゃありませんけどねぇ」
『あはは!』
手を洗い終わった月火が手を拭こうとさらに屈んだ時、悲劇が起きた。
ガッと音が鳴って、落ちたスマホを拾う。
『大丈夫? すごい音鳴ったけど……』
「スマホ落ちただけです。……あ割れた」
『マ?』
「画面割れた……! わぉ」
『反応うっす!』
『お前冷静すぎるだろ。画面で怪我すんなよ』
「フィルム貼ってたんだけどなぁ……」
リビングに出ると、立っていた火音が月火の腰に手を回してスマホを覗いた。
「うーわバキバキだ」
「割れたぁ……」
「……新しいの買ってやるよ。家賃代わり」
「やった」
『イチャつくな』
「何の用ですか?」
『とりあえずリレーは始まって一段落着いたよって報告。予定通り進みそう』
「騎馬戦が長引いてくれたおかげですね」
『ね〜。向こうも相当白熱したみたいだし。……火音先生このあと大丈夫そう?』
「様子見て一応水月兄さん準備させといてください。出る時にまた連絡します」
『りょ〜。あんまりイチャつくと炎夏君が泣くから痛ったッ……!』
『じゃーな』
炎夏の声で通話が切れ、火音は小さく笑いながら月火とともにソファに座った。
そのまま座ったせいで火音の膝に座っている状態の月火は振り返って、呆れた目を向けた。
「わざと声入れましたね?」
「人からかうの楽し〜」
「……買ってくれるのも嘘ですか?」
「別に嘘はついてない。ちゃんと買ってやるよ」
「予算は?」
「何十万でも」
月火は火音の隣に移動するとスマホを検索して、気になっていた機種を火音に見せた。
「これ」
「なんでもいいけど強化ガラス付けろよ」
「はい」
「買うのは他人と行ってこい。払うだけ払うから」
「家賃代わりとか言ってますけど別に目的ありますよね。なんですか?」
「ご機嫌取り」
「私の機嫌が悪いと?」
「実質ちょっと悪いだろ」
背を向けてもたれてきた月火の頬を挟み、少しからかう。
余計不機嫌になった月火をけらけらと笑っていると、部屋に水月と火光が入ってきた。
火音の足の間に座る月火と月火の背中からもたれる火音の体勢に固まり、火光はそのまま一枚撮った。
「楽しそうだねぇ火音さぁん」
「治療中」
「お前が死んでも誰も悲しまないよ」
水月は火音の頭を掴んで、今の今まで笑っていた火音は不機嫌そうに水月を睨んだ。
頭の中で罵詈雑言言ったあとに口に出そうとしたが、唐突に面倒臭くなってまた月火にもたれた。
「おい」
「その身長差あって座高ほとんど変わんないのか……」
「火光兄さんが酷いこと言ってくるッ……! 泣きそう……!」
「よしよし」
「別に月火を馬鹿にしてるわけじゃないんだよ。こいつ売り飛ばしたら高値がつくだろうなぁって!」
満面の笑みの火光はふざけて月火の頭を撫でる火音の肩に足を置き、そのまま蹴り飛ばした。
月火のスマホに電話がかかってきて、月火は耳に当てる。
「はい」
『月火、お前後ろにいる人と夜も一緒だって自覚しろよ』
「勝つ自信はありますよ? 体術でも妖術でも身体強化でも」
『男と女だからな。寝てたら対処できないだろ』
月火が肯定する前に、火音はそのスマホを取り返すと通話を切った。
炎夏に「心配なら迎えに来い」と連絡すると、ブチギレメール。電話切るなとか月火に構うなとかスマホ取るなとか。
正直、炎夏と繋がるとクソ真面目な月火は寮を空けてしまうだろう。そこに心配性の彼氏が加わればなお。
生徒の恋路を邪魔するようで悪いが、火音は生活の安定を確保するためにとことん邪魔させてもらう。
なんなら月火の高等部卒業までに対処法が見つからなかった場合、幸い月火の婚約者候補に一番近いとされるのは火音だ。
たぶん十七か十八には稜稀が無理やり見合いをさせるので、その時の気によっては将来の安定を考える気がする。
そんなことを考えていると、いきなり腹を殴られた。
「痛ッ……! 何……」
「筒抜けなんですが」
「性格も生活習慣も知らない御曹司と婚約するよりマシだろ?」
火音が月火に視線を向けると、月火は赤い顔のまままた火音の腹を殴った。
火光にこめかみを膝蹴りされ、頭を抱える。
「月火の相手は月火に選ばせるに決まってんだろふざけんなドクズ」
「それは今のうち親に言って了承の言質を取っといた方がいいぞ」
「あ?」
「派閥の家系は俺と月火をくっつけようと必死だから。一部では玄智とくっつけようとしてる奴もいるみたいだけど。玄智は次期当主だからないとして俺の婿入り話が大きくなってる。おおかたこの生活方法が世に出たせいだろうけど」
「……火音さんのせい……!」
「こんなクソみたいな体質に産んだ親のせいだ」
「水月、頼んだ」
「母さんもおじい様も娘として考えてあげれないかなー……」
水月はスマホをいじりながら出ていき、炎夏との会話履歴を完全に消去した火音は月火にスマホを返した。
「じゃ月火、そこ降りようか」
「履歴消しましたね」
「あー疲れた。おやすみ」
「……次目覚めた時は狐の腹の中ですよ」




