31.情緒
夕方、月火が買い出しの帰りに袋を抱え歩いていると怪異の気配がした。
俯いていた顔を上げ、出てきた黒葉の頭を撫でる。
『主様、食べていい? 食べていい? 白葉寝てるの』
「いいですよ。被害は最小限で」
『分かった……!』
大喜びで飛んで行った黒葉を見送り、一人で学園に帰ると寮の廊下、目の前が自分の部屋だってのに火音が廊下で倒れスマホをいじっていた。
「部屋……帰らないんですか……?」
火音の久しぶりの奇行に思わず顔が引きつった月火がそう聞くと、火音はスマホを倒して床に向かって溜め息をついた。
普段なら床になんか絶対、指先ですら触れようとしないのに。
まだ調子は悪そうだ。
数日前に調子が悪かったらしい時に訓練に連れ出して以来、全く調子が戻らずナマケモノより動かない生活を送っている。
今日は仕事帰りに部屋に帰る気力もなくって感じか。荷物は傍に置いてあるし。
月火は膝を突くと頭を撫でてから、先に冷蔵食品を片付けた。
早く片付けて巣に籠るか寝床に帰る手伝いをしてあげようと思ったのに、一人でふらっとやってくると月火と火音の椅子を引っ張ってそこに寝転がった。
月火の椅子は火音以外が色々と触っているので気持ち悪いはずだが。
心配になった月火が覗き込むと、火音は仰向けになって目を薄く開けた。
「大丈夫ですか? ソファの方がいいのでは……」
火音は顔を背け、その思考が伝わってきた。
今日は慣らしの日らしい。
こういうテンションの時に色々な嫌いな人の感情に触れることで、調子がいい時に触ってもマシと思えるようにと。
環境音が嫌いだから大音量の音楽を聴いて環境音を小さく感じさせるみたいな、そんな感じ。
月火は呆れると、火音の手を取って引っ張った。
「そんな自虐的なことやらなくていいんですよ。今まではやってたとしてもこれからは触る必要ないんですから」
火音にソファに行こうと言うが、相当慣らしにこだわっているのか全然動かない。
だんだん火音の感覚が鮮明に伝わってきて、月火まで気持ち悪くなりそうだ。
生きた牛の腹を開いてそこに虫を入れて、全身がそこで揉まれているような。
生温かさと虫が登り巻き付く嫌悪感、顔周りの空気が生温かい抵抗感、虫が入ってくるかもと思うほど鮮明な感覚。
気持ち悪いというか、どちらかと言うとこれほど鮮明になってなお普通に寝転がっている火音が凄い。
月火は火音の手を離すと頭の方に回って、頬を挟んだ。
目を開けた火音の顔を覗き込み、頬を撫でる。
「動かないなら火音先生のせいで吐いたって兄さんに言います。動いたら兄さんにアルバム用の写真とアルバム作成の半永久的な許可を取ってあげます」
「甘いものが食べたい」
「作りますよ」
「ケーキ」
「火音さんがケーキリクエストは珍しいですね」
「火光が釣れる」
「……どーぞお好きに。私は抹茶の気分です」
「チョコッ!」
「抹茶で」
「せめてノーマルで!」
火光は抹茶が大の苦手だ。甘くても抹茶は拒否する。青いうどんも多少ピリッとするおかずも食べるが、抹茶は食べない。でも味覚馬鹿の部類なので言わなければバレないと思っている。駄目だろうか。
元気が出た火音と言い合いをしながら、冷蔵庫を開けた。
「はい、完成」
「……お前マジか」
冷蔵品がないとまずは火音を引きずります。
実は買ってきていたケーキをカウンターに出した月火ははははと笑うと火音に火光への連絡を頼んだ。
自分はパンの用意。今日の夜はシチューなので。
フランスパンぐらい自分で焼ける。
「……もしもし火光?」
火音は通話でスピーカーにしたスマホをカウンターに置き、月火にも聞こえるようにした。
『ケーキあるの? 行きたい』
『ねー僕も!』
「水月兄さんは来ないでください。いらないです」
『……火音、月火説得したら火光のアルバム作成許可取ってあげる』
『え?』
「月火が取るらしいから」
『え?』
『お前月火に何脅した!?』
「じゃ火光だけ待ってるから」
『おいクソきょッ……!』
火音は通話を切り、月火は呆れの溜め息をついた。
湯を沸かしてドリップコーヒーを準備し、その間にケーキを小皿に移す。
ちなみに火音のは当然だがない。この人の目的はケーキじゃなくてケーキを頬張る火光とそれを撮って良いという撮影許可。
「……もしもし火光兄さん?」
『何?』
「私の身の安全のために火音さんが火光兄さんを撮る許可を」
『あ? 何身の安全って』
「おいバカ娘」
「ちょっと精神的なものが……」
『火音お前マジで殺すぞッ!?』
「違うじゃん火光違う! マジで誤解だからッ!」
「じゃ、毎日百は撮るので〜」
月火が通話を切ると火音は頭の中で月火に罵詈雑言浴びせながらカウンターに突っ伏した。
コーヒーを淹れ終わる前に火光がやってきて、火音の胸ぐらを掴むと壁に押し付けた。
「お前マジ教師の自覚あんの? 僕の妹に依存した挙句月火に身の安全がって言わせるほど何やったわけ? ただでさえ忙しい月火に寄生して迷惑かけてんのに……」
「火光兄さん、ただの冗談なので真に受けないでください」
「……でも迷惑かけられてるのは事実でしょ!」
「誰も火音さんが住むことが迷惑とは言っていませんが。迷惑なら広い寮に移りません。兄諸共追い出して同級生と馬鹿騒ぎしてるでしょう。私はそれができますがやりません。理由は?」
「………………やる必要が、ないから」
「自分の口で言って理解しましたね? さっさと座ってください。コーヒー入りましたよ」
火光は火音から離れると溜め息をつきながら席に座り、月火は火光にケーキとコーヒーを渡した。
火音はふらっといなくなる。
「水月兄さんは?」
「ねぇ火音大丈夫?」
「まぁ自殺はしないでしょう」
おっと出さない方がいい単語だったらしい。選択肢が増えた気がする。駄目な傾向だなこれは。
月火は溜め息をつくと、火光の向かいの火音の椅子に座って元気のない火光を写真に撮った。
それを送って、返事が来てから電話をかける。
「……もしもし、お疲れ様です。……はい、じゃ代わりますね」
電話の向こうから変な声が聞こえた火光は首を傾げ、通話をスピーカーにした月火はそれを火光の前に差し出すと火音がいる部屋に向かった。
リビングから聞こえる痴話喧嘩を無視してノックしてから火音の部屋に入った。
「お邪魔しまーす」
さすが、衣食住をリビングでしてるだけある。
ベッドと机とチェストしかない。
基本的にワイシャツやスラックス、ジャージはリビングの収納にあるとはいえ、必要最低限すぎるだろ。
て、そんなことは置いといて。
月火はベッドにうつ伏せで伸びている火音に声をかけた。
「この部屋で大丈夫なんですか」
「死にそう」
「私の部屋で休んだらいいのに」
「教師の自覚を持てだと」
「……えそもそも火音さんって教師になるつもりでなったわけじゃないですよね?」
「うん!」
何故かそこは嬉々として返す火音の情緒に首を傾げながら、ベッドに座って背中をさする。
火音の払おうとしてくるその手を捕まえ、頭に手を伸ばした。
火音は不服そうなまま顔を逸らす。
「火光は?」
「痴話喧嘩してます。晦先生と」
「……あの二人ができたらさぁ」
「できませんよ」
「分かってるそんぐらい。てかお前が邪魔するだろ」
「高等部が幼馴染と兄弟姉妹で埋め尽くされるとか私ストレスで死にます」
「……火光が教師になったの間違いでは?」
悪魔の如き笑いをする月火に半笑いになりながら、起き上がった。
目眩がして、ふらっと月火にもたれる。
「なんですか」
「悪い……」
「……火音さん熱が……」
さっき触れた時は自分の不快さでいっぱい、というかさっき触った時は熱はなかった気がするが。
月火は火音の向かいまで行くと額に手を当て、手首で脈も確認した。うん、熱。
「もうすぐ体育祭あるんですからゆっくり休んでください。休んだら全女子が泣きますよ」
「少なくともお前は泣かないだろ」
「泣きますよ。荷物が消えるんですから」
「喜んでんじゃねぇか」
月火は火音を立たせると、月火の部屋に連れて行った。
前に月火の部屋が一番居心地がいいと言っていたので。不調の日ぐらい贅沢させてやろう。
「座っといてください。着替え持ってくるので」
「火光に殺される」
「あの人からぐらい守ってあげますよ」
「茶化してんのか?」
「はは」
いつかの火音のセリフを引っ張ってきた月火を睨むと月火は軽く笑いながら部屋を出て行った。
スマホを開いて、SNSを見ていると寮にインターホンが鳴る。
防音がしっかりしているので全然聞こえないが、月火の思考に意識を向けると炎夏と玄智というのが分かった。
月火に大丈夫だと返事をして、ベッドに寝転がる。
別に四六時中思考を読んで共存しているわけじゃない。見るのは必要な時だけ。
とりあえず、流れすぎてお互いがお互いの思考で処理落ちしたら手を打とうと言っている。
月火の妖力が少量で安定してからはそこまで共鳴による不便もないため、火音にとって今はただ居心地のいい住居スペースと一緒にいても嫌じゃない同居人ができただけ。
月火も特に不便もないと言っているし、まぁそれが真実なのかは知らないが本気で困ったら相談してくるだろう。あとは大抵自分で解決できる人。
少ししてから月火が部屋に戻ってきた。
「お待たせしました。夕食お粥でいいですか」
「お粥嫌い」
「あそうなんですか? 前は食べたのに」
「ドロッとしたものは吐きやすい。白米がいい」
「じゃー……うどんとかもありますよ。そうめんとかも」
うどんと反応が返ってきたので、焼きうどんか煮込みうどんかあっさり系か注文を確認した。
ワカメないのでお使いに走らせるかな。
「七時頃でいいでしょう?」
「……八時半ぐらい」
「普段通りでいいんですか?」
「うん」
「ではそのぐらいに。おやすみなさい」




