中毒小説
何故か定期的に触れたくなってしまう音楽、絵画、映画やゲームは数多く存在するが、それに比べて中毒性あるいは依存性を持つ小説は稀である。その理由を語るには、まず本来の用法である薬物やアルコール、ギャンブルにおける依存症のメカニズムから説明しなければならないだろう。
薬物やアルコールの場合、体に取り込まれた化学物質が脳内に侵入し、ドーパミンという快楽物質を放出させる。ギャンブルなどの報酬を伴う行為の最中にも、同様に脳の中でドーパミンが生じ、中枢神経を興奮させる。
それにより人々は非常に強い快楽を覚え、繰り返しそれらを求め続けることになるのだが、同時に喜びを感じる中枢神経の働きは低下し、通常の生活で得られる快楽に満足できず、焦燥感に駆り立てられるがまま、次第に依存の沼に深く沈み込んでいく。
実は、娯楽の場合も仕組みは全く同じである。つまり特定の旋律、音色、リズム、効果音、配色、サイズ比、光の明滅、動作……または、それら複数の組み合わせにより無意識下で脳を興奮させ魅了しているのだ。受け手は自分が惹かれた理由を言語化し説明できるつもりになっているが、実際は巧妙な化学反応に踊らされているに過ぎない。こうして現在に至るまで多くの人々を虜にする作品が創られてきた。
では、なぜ小説の場合はうまくいかないのか。それは読書という行為が文字の羅列から読者が世界を想像で補完して初めて成立するものだからである。同じ文章を読んだとしても、イメージされる脳内映像は受け手により千差万別。従って脳の特定の部位を刺激することが困難なのだ。
だが、私は決して諦めなかった。小説家でなくとも、脳科学の力で歴史に名を残す『中毒小説』を完成させるという野望のために。長年の調査研究により、数十種のシンプルな単語の組み合わせ、言い回し、そして記号やスペースを用いることで読者の脳内にドーパミンを放出させることができると判明した。
例えば「■■■■■■■■■(検閲済み)」、「■■■■■■■■■■(検閲済み)」、「■■■■■■■■■■■(検閲済み)」、「■■■■■■■■■■■■■(検閲済み)」、「■■■■■■■■■■■■■■■■(検閲済み)」など、文法的にはやや不自然に感じるものの、普通に読み飛ばしてしまうような文字の羅列。これらが視界に入るだけで、読者の脳内には大量の神経伝達物質が溢れ出す。
既に一作の短編小説も完成している。もう少し推敲を重ねたら、出版社に持ち込むつもりだ。私を追放した医学界の裏切者共も一人残らず、寝食を忘れて何度も何度も擦り切れるまでこの作品を読み続けることになるだろう。
ああ、きっと、もうすぐ世界はひっくり返る。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「まさに、天才と馬鹿は紙一重ってやつっすね」
「そうだな。推敲中に自分がどうなるか、ちょっと考えれば分かりそうなもんだが。飼い犬に手を噛まれるどころか、餓死させられるとはな」
「でも、目にしただけで頭がおかしくなるようなヤバい文章があるなんて、いまだに信じられないっすよ」
「はあ? お前、本気で言ってるのか? そんなの教科書にだってそれなりに載ってるぞ」
「えっ?」
「もちろん、こんな風になったら大問題だから、その辺うまく調整してあるらしいけどな。だが、ヤクと同じで効き目は人それぞれだ。お前の周りにも一人や二人いたんじゃないか? 勉強が好きで堪らないって変人が」
「ええ……あれ、そういうことだったんすね」
「ああ。世の中には知られてないだけでいくらでもあるんだよ、中毒小説なんて。だからこういう事件の時は俺達みたいなのが呼ばれるんだ」
「おお、事実は小説より奇なりっすね!」
干からびた哀れな科学者の傍らで、白杖を携えて呆れた表情を浮かべた年配の刑事を前に、青い目の新人警察官が覚えたてのことわざを披露して能天気にはしゃいでいた。