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叢雲山の小さな鬼

庭の公孫樹

作者: 黒森 冬炎

 叢雲山(むらくもやま)は低山である。地元の幼稚園児が遠足で登る程度のなだらかな小山だ。頂上には石の大鳥居がある。たいそう古い鳥居であるが、お社はとうの昔に無くなってしまった。


 この山から流れ出る美澄川(みすみがわ)は、麓の平野をゆったりと蛇行しのどかな田舎町を見守っている。川沿いにはまばらな人家と畑があり、やや内陸に無人駅があった。


 1両編成の単線である美雲(みくも)線は、乗り降りする人も稀だ。美澄川には貴重な芦原が残るため、自然愛好家は訪れる。そのため夏には干潟体験の家族連れや、自然教室の子供達で賑わう。だが、概ね閑散としているのだ。



 鴨田鈴音(かもた すずね)は、数年ぶりの里帰りで美雲線の終着駅に降り立った。線路沿いの木々は赤や黄色に紅葉(もみじ)して、冷たい風が頬を撫でる。


 里帰りとは言っても実家はもうない。鴨田は酒米(さかまい)を作る一族で、かつては地元の造り酒屋と提携していた。しかしブームが来る前の日本酒低迷期に酒屋は廃業し、別の提携先も見つからなかった。


 そんな状態でも不思議なことに赤字にはならず、一族は緩やかに都会へと移住した。鈴音(すずね)はかつての実家へと向かう。田舎の土地は手放したのだが新たな住人もなく、田は雑草の生い茂る空き地となっていた。



 鈴音はかつての畦道を辿り、鴨田の本邸に到着する。家はもう鴨田一族の手を離れたので、入ることは出来ない。宿泊もこの先にある高台の民宿『川辺』だ。頼めばお迎えに来てくれるが、ぶらぶら辺りを見て回りたいので歩いてゆく。


 伸び放題の生垣から、立ち枯れた公孫樹(いちょう)の大木が見える。鴨田本邸の大公孫樹だ。


「ただいま、公孫樹のおじいちゃん」


 鞄につけた鈴がちりんと陽気な音を出す。


「枯れちゃったんだねえ」


 鈴音はしばらく外から眺めていたが、思い切って敷地内に入る。本来ならば不法侵入だが、廃屋となって適切な管理もされていない元田んぼの中の一軒家には、通りがかる人すらいない。


「少しくらい、いいよね」


 鈴音は鞄から一合ボトルを取り出す。


「ごめんね、雲純(くもすみ)はもう造ってないけど」


 しんみりと謝りながら、鈴音はボトルから半分ほど日本酒を注ぎ手を合わせる。鴨田一族が作っていた酒米は、雲純という銘柄で酒になっていたのだ。酒造(さかつくり)が廃業したので、いまはもうない酒である。



 残りの酒もみな注いでしまう。少し跳ねて鈴にかかった。


「冷たいっ」


 やや甲高い少女の声がした。


「えっ?」


 鈴音と枯れた公孫樹の間に、頬を濡らした振袖姿の少女がいた。黒いタフタのリボンを白いレースの花で留めた青いフェルトの鍔広帽子から、長い髪が溢れている。冬の陽射しに濃紫にさえ見える黒髪だが、やや色褪せてハリがない。顔も手も病人然と青白く細い。



 青地に大きな濃紺の桜が咲き乱れ、花に重ねた銀鼠の雪輪が可憐に踊る大振袖が重たげに下がる。辛子色の宝尽くしの帯をして、山吹色の三分(さんぶ)紐には銀杏の葉を象る鼈甲細工の帯留めを通す。帯揚げに使う藤紫の鹿子がお姉さんぶって微笑ましい。


 桃色に赤の花を散らした豪華な半襟は、若葉色の伊達襟と引き立て合って、赤紫のウールで仕立てたケープの胸元にちらりと色を差す。萌葱の色足袋を履いた足元には、黒塗りに黄蘗色(きはだいろ)の鼻緒が愛らしいのめりの下駄が覗く。


 帽子の両脇からサイドの髪を抑えた暗緑色のベルベットリボンが垂れ、手にはケープと揃いの赤紫が華やかな洋傘を握っている。今日は晴れているが、雨傘のようだ。ケープの胸元の大きな黒いシフォンベルベットのリボンは、あどけなさを残す若い娘によく似合う。



「ああっ、見えてる?どこから来たの?ねえ、あなた、だれ?あら、知ってるわよ、それ、乗馬ズボンって言うのでしょう?お靴は初めて見る形ね。街から来たの?お鞄も素敵。最新の帆布鞄でしょ?雑誌で見たわ。モダアンねえ。いちょうさんは?なんでお庭が荒れてるの?きゃーっ!いちょうさんっ!枯れてる!えーっ!なんで?どうしたの?」


 少女は焦った早口で矢継ぎ早に質問をする。鈴音は呆然とその様子を見ていた。そこへ、またひとり現れた。ひとりと言っても身長10cm程の浅黒い小人だ。頭には栗梅くりうめ色の一本角がつんと生えていた。小人というより小鬼である。


 ぼさぼさの日焼けした赤毛の下で、白灰しろはい色の瞳が疑り深そうにじっと鈴音と少女を見る。裸に真っ赤な法被と朽葉色の短パンを履いていた。手には身長を少し超える芦箒を持ち、素足が枯れた大公孫樹の根を踏んでいる。



「あっ、だれ?はっぱに似てるね」


 少女は小さな鬼に話しかける。


「あたしは、しろはな。銀の華って書くんだよ」

「俺はもみじだ」

「よろしく、もみじ。はっぱ知ってる?」

「知らねえ」


 銀華は少し不満そうにしたが、すぐに次の質問をする。もみじは面倒臭そうにしながらも、いちいち答えてくれた。


「いちょうさん、どうしたのか分かる?」

「何年か前に逝っちまったよ」

「ええー?」


 銀華がショックで叫ぶ。もみじは大声にも動じず、少し考えてから疑問を口にする。


「しろはなは鈴の精なのか?」

「ううん、違う」

「鈴から出てきたよな?」

「そうだけど、違う」

「じゃあなんだよ?」

「えへへ。死んじゃったの」


 悪びれずに言う銀華に、もみじは少し呆れたように目を細めた。


「幽霊かい」

「そうなるかな?」

「なんでまた、鈴ん中にいたんだい」


 それは鈴音も知りたい。


「いちょうさんがね、ずっと鈴を聴かせてくれたの」


 銀華は泣きそうだ。


「そうかい」


 もみじの言葉はぶっきらぼうだが、すこし口元が歪んでいる。手にした箒を上手に動かして、もみじは公孫樹の根元を掃き始めた。


「わたし、すぐ熱を出しちゃうんだ」


 銀華は情けない顔でにへらと笑い語り出す。もみじは自分の身体ほどもある庭の落ち葉を掃除しながら、黙って話を聞いていた。



 ※ ※ ※



 銀華は、今年()げがすっかり取れたお祝いにひとつおねだりをしていた。


「お庭の公孫樹の下でお弁当を食べたいな」


 銀華は身体が弱いので、女学校にも上がらず鴨田の本邸で療養生活を送っていた。本を読むのは好きだったが、すぐに頭が痛くなる。絵も好きだが、やはり熱中してしまうと熱を出す。横になって窓の外を眺めるのが、結局は一番の楽しみだった。


 銀華の部屋からは、庭の大公孫樹が見えた。美澄神社の御神木よりは若いが、充分しっかりとした幹の立派な樹である。神社は美澄(みすみ)尋常小学校へ向かう途中に鎮座しており、高い石段の先に境内があった。


 お正月のお詣りのほかは、身体の弱い銀華が石段を登ることはない。階段の下から見上げる古木はどこか恐ろしく感じてしまう。しかし自宅の大公孫樹には頼もしさを感じていた。


(おんなじイチョウの大木なのに不思議ね)


 休みがちだった尋常小学校を卒業し、神社の下にある道を通うこともなくなった。しばらく目にしていない古木を思い出しながら、銀華は庭の公孫樹を見上げる。



 公孫樹の下に緋毛氈の床几台を出して、三段重を広げる。本家の末娘が本断ちになったお祝いだから、夜は盛大に宴を張る。今は、一族が本邸の水屋に集まっててんてこ舞いだ。昼にお重を突いているのは、祝いの当人と祖父である。


「あら?」


 どこからか涼やかな鈴の音が聞こえてきた。


「上?」


 銀華はすっと顔を上げる。色づき始めた葉をつけた公孫樹の枝の間に、真っ白な手が見えている。腕を覆う若草色の羽織から、白地に萌葱を織り出した細い棒縞の袖口が覗いていた。ほっそりと上品な男性の手が下げるのは、金と銀との双子鈴。揺れてちりりと澄んだ音を鳴らす。


「お健やかになりますように」


 柔らかく静かな声が降ってくる。祖父は目を見張り、双子の鈴を振り仰ぐ。


「おちよ坊の護り鈴じゃないか」

「伝兵衛さんも老けましたねえ」


 くすりと笑う青年は、枝からするりと降りてきた。黒く長い髪を肩口で束ねて胸前に流した文人風の優男である。黒足袋に黄蘗鼻緒の草履がけ、萌葱縞の平織をすっきり纏った着流し姿だ。


 若草色の羽織がひらりと返れば、羽裏(はうら)は豪華な総柄で、朱色に金銀鈴と黄緑(あお)い銀杏の葉が散っている。羽織紐は紺の平紐、黄蘗色(きはだいろ)の角帯をきちんと絞めた長身痩躯の色白な若者だった。


「まさか、公孫樹の木霊かい」


 祖父伝兵衛は、初めて会ったようである。


「ええ。いちょうとお呼び下さいませ」

「ほんと?素敵ね!その鈴も」

「ふふ、これは貴女の大叔母様からお借りしたのです」

「まあっいいわね」

「はい、この鈴はお千代さんの真心が籠っておりますから、浄めの力が強いのですよ」


 銀華は期待を込めていちょうさんを見詰める。


「私たちのお病気を治してくださるの?」

「悪いものを祓いますけど、私は神様とは違うので、病を治すことは出来ません」

「あらそう」

「叢雲山の神鳥(かみとり)様にお願いすることは出来ます」

「神鳥様に、いつかお会いしてみたいわ」


 叢雲山は遠い。神鳥様がおわします御社は山頂だ。病弱な銀華が参詣出来る距離ではなかった。



「そっちの小さいのはどちらさんかね?」


 伝兵衛爺は、いちょうさんの肩にちょこなんと座った、青年の人差し指程度しかない枯葉色の小鬼に興味を示す。小鬼は虎縞パンツに真っ赤な法被を着て、手には芦を束ねた箒を持っている。

 くりくりとした黒い目が、好奇心いっぱいに光っている。黄色がかった深緑色の短髪が風に乱れて、小さな枯草の塊のように見えた。その頭からは、秋の深山に映える楓みたいな赤い角が一本突き出している。


「おいらは、はっぱ」

「こんにちは、はっぱ」

「叢雲山から時々遊びに来るんですよ」

「ほう、それは、遠いところをようこそ」

「へへっ、よろしくな」

「はっば、卵焼き食べる?」


 銀華は鮮やかな黄色い卵焼きを丹塗の箸で小さく切ると、はっぱの口元へと持ってゆく。


「おっ、ありがてえ。ごちになるよ」


 はっぱは箸から卵の欠片を受け取って、両手でもって食べ始めた。伝兵衛は予備の箸と小皿に煮物や豆を取り分ける。


「いちょうさんも、どうぞ」

「私のお祝いなの!ご存知よね?」

「ええ、存じておりますとも」


 そうして四人はあれこれと楽しく語り合いながら、初秋の庭でお弁当を分け合った。



 ※ ※ ※



「いちょうさんも、はっぱも、よく遊んでくれたのよ。お護り鈴も鳴らしてくれたしね。結局、次の秋を見ることはできなかったんだけど」


 銀華の話ぶりはいきいきとして、ちっとも少女のうちに亡くなった娘幽霊の哀愁はない。


「でもね、身体を離れてすぐに、いちょうさんの所まで飛んでいったの。おじいちゃまったら、いちょうさんのことは見えるのに、私は見えなかったのよ」

「残念ね」


 鈴音は気の毒に思ったが、当の銀華は可笑しそうに笑う。


「はっぱやいちょうさんと、たくさん遊んで、鈴に入って眠ったわ」

「そのまま時が経ったのかい」


 それまで黙って掃除をしていたもみじが、やれやれとでも言うように口を挟む。


「えへへ」



 銀華はぐるりと庭を見渡し、困ったように小首を傾げる。


「ずいぶんと荒れてない?」

「もう何年も前に誰も住まなくなったのよ」

「ええっ!」

「この家を離れるときにね、公孫樹のおじいちゃんからご先祖のお護り鈴を返していただいたの」

「お役目を終えたんだなあ」

「そんなあ」

「しろはな、どうするんだい」

「どうって」


 娘幽霊は口をへの字に曲げてオロオロする。


「しろはなさん、良かったらお護り鈴に住んでいて?」

「いいの?」

「いいわよ。けど、ここにはもう、来られないかも知れないけどね」

「それは気にしないで。いちょうさんもいないし、みんなも住んで無いんだし」


 あっけらかんと答える銀華に、鈴音ともみじは声を立てて笑う。風は荒れ果てた庭を吹きすぎ、金銀双子の鈴を鳴らした。



上げ

子供の着物の肩と腰を摘んで縫い留め、サイズ調整すること。またその摘んだ部分。肩上げ、腰上げ。


本断ち

フルサイズの大人着物のこと。


三分紐

帯留めを通して、背中側で帯を押さえて結ぶ細い平紐。


のめり

下駄の種類。

前歯が斜めになっていて、歩くと前のめりになる。


伊達襟

半襟と着物の間に挟んで僅かに見せる和装小物。



お読みくださりありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
[一言] ずっと見守ってくれていたいちょうさんがとても素敵だと思いました。銀華ちゃんも、もしかしたらその鈴の音があったから、健やかに後ろ向きにならずに生きて行けたのかもしれませんね。 もみじちゃんがは…
[良い点] とても濃密な作品でした。読ませていただきありがとうございます。 情景が色鮮やかでせつなさと懐かしさがいっぱいなのです。 時代が違えば、私も銀華のようにこの世にはいなかったでしょうから、その…
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