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Shoegazer,Skygazer  作者: 梶島
Raison d'etre
6/6

エレクトリック・サーカス

母親から、ちょっとした買い出しを頼まれた。

それだけのはずだった。


「やっほー。奇遇奇遇」

「……なんでいんの?」


近場のスーパーの袋を両手に提げた俺の正面に立って屈託なく笑うのは、もはやここ数ヶ月ですっかり見慣れた顔の徘徊癖バカ女。

あれから俺は公園通いを再開し、ミケと他愛もない話をするようになった。


さて、そんなミケはというと。

暑さもゆるんだ秋の口ということで、さすがにそろそろ半袖は着ないらしい。

素朴なブラウンのワンピースの上に白いカーディガンを羽織った、相変わらずのどこにでもいそうな格好をしていた。

それこそ、そのあたりに紛れていたら風景と混じり合って気付きそうにないほどに。

ただこれまた相変わらずの手ぶらで、それだけは違和感を醸しだしていた。


無意識のうちにため息が漏れ、それを合図に両手に感じる重みが増したような気すらしてくる。

帰路の途中、家まであと半分というところなのに。


――相手にするだけ時間の無駄だ。

無視してさっさと家に帰ろうと歩きだした俺に、あろうことかそいつは隣に並んで歩調すら合わせてきたのだ。

こいつが俺の気持ちを汲むわけがないし、ある程度予想のできた展開だが面白くはない。


「買い出し?」

「なんでアンタどこにでもいんの? 分裂してるの? 単純に行動圏が似てるだけ? また俺のあとをつけてる? なんなの?」


悪びれた様子もなく投げかけられた質問に答える義務はないので無視。

打ち返さずに改めて投げっぱなしにする。

といっても答えを求めているわけではなかった。

ただの嫌味。

不満であることさえ伝わればそれでいい。

話すだけでは高確率で都合の悪い部分を切り捨てて受け止めるからだ。


しかしこのバカ女ことミケ。

気まぐれな印象を受けたから勝手に付けたあだ名がここまでマッチする人間だとは、付けた当初は思わなかったものだ。

人間を相手にしていると思うとズレが生まれるから、喋る猫くらいの認識でちょうどいい。いや、猫はもう少し賢いかもしれない。


そしてその世にも珍しい人型の喋る猫は、俺の質問を受け止めて笑うと、歌うようにすらすらと言葉を投げ返してきた。


「あっはは、あたしは一人だし、歩く範囲はテキトーだし、確かにミヤタ君のあとをつけてるときもあるけど、今日はそうじゃないよ」

「ご丁寧な回答をどうも」


まだ俺へのストーカー行為をやめてなかったのか。

あの雨の日以来家に押しかけてくることがなくなったから、てっきりもうやめたのかと思っていた。

こいつのようなタイプは、一度許せば味をしめるものだと予想していたのだが、そういえばあらゆる常識が通じない奴だったのだ。

笑いながら堂々と告白するものではないだろうに、そのあたりの常識が欠落している奴に言ってもしょうがない。


「それじゃ俺、帰るから」


別れの言葉を告げて、もう話す気がない意思をきちんと伝えてやったうえで、俺はこのアホ女と別れるべく歩調を早める。

しかしその瞬間、ミケは俺の腕に縋るようにしながら掴みかかってきた。

スーパーの袋を提げた俺に、それを思い切り振り払うすべはない。


「ちょ、たったこれだけでさよならはあんまりでしょ。ここで偶然会ったなんて最早運命なんだからさぁ、そういう機会は大事にしようよ」

「俺はその運命とやらに付き合ってやる暇はないんだよ」


随分軽い運命なもんだ。

第一、あらかじめ何かの力によって決められたレールを運命と呼ぶのなら、それを走らされることは俺たちにとって不幸でしかないはずだ。


『あの飛行機事故』が、例え神様とかそんな感じの何かが仕組んだ悪戯だったとしても、俺はあれを起こるべくして起こった出来事だとは思いたくない。

それに今だってそうだ。

ただじわじわと生を消費させてすり減らしていくだけの日々が与えられた運命だなんて馬鹿げている。

そう思いながらその泥沼から抜け出す気のない矛盾は、今は見つめたくなかった。


ぎろりと睨んでやったのが効いたのか、ミケは黙っている。

俺の目線から逃げるように俯いて、しかしそれでも縋り付いた腕は緩まない。

そのまま硬直すること数十秒。

ゆっくりと顔を上げたミケは、まるでさっきの俺に対抗するかのように真っ直ぐとその大きな目を向けてきた。

どこか覚悟の滲む、揺らぎのない瞳。

悔しいが、それにほんの少し気圧されたことを認めるしかない。


じいっと俺を見つめたまま、今度ははっきりとした声でこう言った。


「じゃあ率直に言うね。帰りたくないの」



俺も馬鹿だ。

その言葉が意味することを馬鹿には汲めなかっただろうが、言いなりになってしまったのは馬鹿だ。


こいつを家にあげたってなんのメリットもないのに。

そんな義理はない、とつっぱねればよかったと後悔の念が胸のうちを掠める。

なんとなく邪険にできないというただそれだけの理由で、こうもミケの思い通りにさせてしまうとは。


「ねね、これここに置いとくんでいい?」

「いいよ。冷蔵庫しまうからこっち持ってきて」


その代わりと言ってはなんだが、袋の片方は持たせた。

こんなもの、対価としては足りなさすぎる。

とまあそんなわけで、俺はミケを家にあげていた。

何故帰りたくないのか、は最早聞く必要もない。


「ねえねえ、『する』?」


ミケは自らの体を押し付けるようにしながら俺に縋り付くと、右手で俺を服越しに擦り上げてきた。

挑発的な視線。

何考えてんだ、こいつ。


「また中に出されでもしたの?」


あの雨の日、父への反抗を誓ったミケは身体を求められた際に抵抗した。

その結果父親が選んだ道は、暴力。


結局何も変わらない。

親と子、男と女、いつだって弱いのは後者だった。

ただ俺という逃げ場を得たミケは、多少なりとも持ち直したというか、最後のラインを踏み越えることなくとどまっていられている。

いい迷惑だと思いつつも、俺は俺でこいつ以外にまともな話相手がいないから、声の出し方を忘れなくて済む。

まあ、うざったいが嫌いでは無い。

それからお互いずるずると惰性のまま、なにも好転しない日常を浪費するだけの毎日に戻ったのだ。


「ううん、昨日はしてないよ。酔いつぶれてた。ミヤタ君が中に出したいなら出していいよ? 今日は大丈夫」

「そういう話じゃない。もうやらないって言ったでしょ。自分を安売りするなって言ってる」


ぎゅっとミケがその体をすり寄せてくるたびに、背中に柔らかなものが触れているのがわかる。

わざとやっているんだろう。こいつは可哀想なことに、そうするしか男に受け入れてもらえる理由を知らないんだ。


いくら扇情的になったって、それに飲まれる俺じゃない。

ミケのことは、全くそういう対象として見られなかった。

ただ痛々しい女としか、俺の目には映らない。


「安売りしてるなら買うのが賢い選択じゃない? 大セール中ってことでさ」

「いくら払わされるわけ?」

「こないだいくらだったか思い出してみてよ。タダだよ、タダ。顔見知りにはおまけしちゃうよー、なんつって」


にひひ、と屈託なく笑って見せるミケに自嘲の色は見えなかった。

こいつは本当に自分を、俺を、なんだと思っているんだと問いたい。

しかし賢いのか馬鹿なのかわからない猫に尋ねたところで、まともな返事がもらえる確証もない。


「しないっての。ていうかなんなの? ミケがしたいだけでしょ?」

「うん」


悪びれなく答える。

そこはもう少し悪びれてほしい。


「じゃあなおさら駄目」

「えーなんでよー。ミヤタ君のいじわる」

「どっちが」


拗ねた声を一蹴し、無駄としか思えないやりとりを拒絶するように、俺は肘を突いてミケを引きはがした。


「別に俺のことが好きなわけでもないのに、そういう態度とるのやめろって言ってるんだよ。自分を安売りするな」

「あたし、ミヤタ君のこと好きだよ?」

「は」


さらりと告げられた台詞に、思わず振り向く。


いや、こいつはおかしいんだ。

真に受けてはそれこそ余計に混乱するだけ。


「……それは、たぶん、意味が違う。間違ってる」

「そうかもしれないけど。でも、嫌いじゃないし、好きだよ。あたしは」


この『好き/嫌い問答』は以前別のことでやったように思う。

確かに俺はミケから嫌われる要素があんまりない。

というより、こいつの狭すぎる世界の中で、血縁以外に義理のない最悪な父親と比べたら誰だって善人だ。


ミケはぱっちりと開いた双眸で俺を真っ直ぐに見上げながら、はっきりと言葉を紡いでいく。


「あたしのこと、ちゃんと叱ってくれるもん。それって、あたしのことちゃんと見てくれてるからだ、って、思うの」


要するに、構ってくれたら誰でもいいという欲求を満たされたミケは次の欲求へと移ったらしい。

誰かに、認めてほしい。

そしてその『誰か』は、ミケの閉じた世界の中ではもう俺しかいない。


「お父さんはもうあたしのこと見てない。家政婦兼処理役くらいにしか思ってないよ、たぶん」


言いながら目を僅かに伏せたミケは、もう父親への愛情など尽き果てたかのようだった。

そう、もう父親しか縋るものがなかったミケは、その依存対象を俺へと変えただけ。

だからストーカーまがいのこともするし、こうして俺に心中を吐露してきたりもする。

歪な情を向けられているらしいことを、認めなくてはならないかもしれない。


「ミヤタ君は違う。あたしを、ものじゃなくて人として、きちんと見てくれる。あたしは生きてるんだ、って思える気がする」

「……錯覚してるだけだよ、それは」

「そうやってあたしを拒絶『してくれる』んだね。でも、そう言われるとなおさらミヤタ君と一緒にいたいって、思っちゃうよ」


一歩俺に近づいてきたミケから逃げるように、俺は一歩後ずさった。

彼女が伸ばした手は、何も掴まずに降ろされる。


「だから、違う。確かにあんたは俺のことを好きかもしれない。だけど、『そういうこと』をする間柄の、そのー……そういう気持ちじゃない。もっと基本的な、レベルの低いものなんだよ」


ミケの中で壊れているのは、そういった当たり前の感情。

誰もがほぼ無条件で愛を与えてもらえるはずの親から見捨てられたも同然なミケは、もうそうやって愛してくれるなら誰でもいい状態になってしまっている。

そしてそれを、自分の肉体で満たせるものと思っている。


だけど勘違いしないでもらいたい。

俺がミケに対して抱いているのは、恋愛感情でもなければ、大切だという気持ちでもない。

シンパシー以下の下卑た『可哀想な奴』という同情と、その言葉に救われたという恩……というよりもはや『引け目』と化してしまっているものだけだ。

ここでこいつを無碍にしたら、人として最低限失ってはいけないものを失うような気がする、というそんな感情。


「ミケ、よく聞いて。頼むからもう、俺に『近寄るな』」


そう言い放つと、ミケの瞳が怯えたように一瞬見開かれ、揺れた。

全てから捨てられたことを悟ったような、危険な目。


まずい。

今、ミケの精神が揺らいでいるのは明白だ。

ここは台所で、目に見えるところに包丁も置いてある。


「話なら聞いてやるし、一緒にいてやってもいい。だけどあんたが今超えようとしてるのは、俺が許せないラインなんだよ」


普通の男女であれば『お友達でいましょう』といったところだろう。

しかしそんな言葉がこいつに上手く通じるかわからなかった。


「俺に会いに来るなって言ってるわけじゃない。身体を使うのをやめろって言ってるだけ。そういうのはもっと、大事にしなくちゃいけないんだよ。それが普通なんだって、分かってほしい」


力なく降ろされていた両手が、今度はぎゅうっと腹のあたりを押さえた。

握りしめられたワンピースに皺が寄る。

それしか認められる方法を思いつかなかったらしいミケにとって、今の俺の言葉は絶交宣言に聞こえたかもしれない。


そうじゃない。

違う。

もう痛々しくて見ていられなかった。


なんて可哀想なんだろう。


「……あたし、どうしたらいい?」


その声は震えていて、同時にすぐそばの道路を通ったトラックのエンジン音にかき消されそうなほどだった。

俺という拠り所から、依存の対価として用意していたものを否定された気分なのだろう。


「あんたさ、死にたいって言う人は絶対に死なないって言ったよな。生きたいから、『死にたい』って言うんだ、って」


何を言っているのかわからない、というようにミケは顔を上げた。


「じゃああんたはなんなんだよ。そんな家に居て、それでも生きたいって言って、なんで、空を見てたんだよ」


公園で会って、ミケの家族の話になったとき。

特に母親の話になったとき、彼女はよく空を見上げていた。

本当に母を純粋に愛していたのが、会話の端々から伝わってきたものだ。

今のぶっ壊れた家庭になる前の、ただ幸せだった日の、その真ん中に母親がいたのだと。


俺は母と自分が歪になったきっかけはあの事故だと思っている。

ミケの家庭も実際に、あの事故をきっかけに壊れた。

だから俺は空が嫌いになったのに、ミケは空が好きだという気持ちを曲げない。


「本当は死にたいんじゃないの?」


俺にとって、空は死の象徴だ。

青く、遠く、高く、ずっしりとのしかかってくる、窒息しそうなほどに溢れる大気の蓋。

触ることもできなければ視認もまともにできないような、無にも見える有。


本来人間とは地面の上で生きる動物なのに、傲慢にも空へとその腕を伸ばしたから、こういう悲劇が起こる。

人の手に余るものなんだ、空を飛ぶ飛行機なんて。

便利さの裏側に潜むリスクは、いくら可能性を抑えても0%にはなりやしない。


「母親のところに行って、楽になりたいとか、本当は思ってんじゃないの?」


そう言った直後、ミケの表情から温度が消えうせる。

まただ。

また、空っぽの表情。


「……一緒だよ」


俺の言葉が、届いているのかわからなかった。


「俺と同じ。『生きたくなるまで死ね』ばいい」


あの日、強いと思ったミケは本当は弱かったんだ。

同じだ。

事故で死んだ父親と一緒に死んだ俺は、生きたくなるまで死人のままでいいとミケに赦された。

ならば、父親に殺されたミケだって、生きたくなるまで死人のままでいい。


死人は誰からも存在を認められない。

ただそこに居たという存在はどこかに刻まれるかもしれないが、今息をしている人達とは住む世界が違う。


だけど、ミケの言ってくれた『生きたくなるまで死ねばいい』という言葉は、俺にとっては居場所を与えてくれたように思えた。

ミケも俺と同じなら、同じ場所に立っていれば、自分を見失わないで済むかもしれない。


「……あたしからしたら、今のミヤタ君、『ちゃんと生きてる人』に見えるよ」


彼女の口からこぼれた震える呟きは、もう俺とは違う生き物だと自分を思っているかのようだった。

もちろん、俺とミケは違う。

でも、たった一つ、絶対に共通して言えると自信持って告げられるものがあった。


「当たり前だろ、生きてるんだから。ミケもだよ」


幻想でも妄想でもなく、俺もミケもこうして息をして、確かに生きている。

矛盾しているが、俺たちは生ける屍なのだ。

心が瀕死状態の、哀れな事故の犠牲者。

ミケの母親のように、あるいは俺の父親のように、もう本当に死んでしまった人達とは違う。


「あたしね」


ミケはぽつり、と語りだす。


「ずっと、自分は汚いんだって思ってた。中学生になって、『そういう』話になったとき、経験のある子は一歩進んでるっぽい空気出すけど、そういう子は裏で『汚れてる』とか言われてさ」

「うん」

「彼氏どころか父親とやってるあたしなんて、どんなに汚れてるんだろうって思った」


異常だとはっきり思っていた頃の話らしい。

壊れ始めたばかりの頃、と言うべきかもしれない。


そこまで語ったミケは、また俺を見上げてきた。

叱られるのを分かっていて言葉を待つ子供のように弱々しい瞳で。


「ミヤタ君は、あたしのことどう思う」

「求めてる答えしか期待してないくせにそういうこと聞くなよ。あんたは、汚れてる」


卑怯な奴だ。

どうせ否定したってそれを受け入れない。

こいつはただ、ありのままの自分を肯定してほしいだけなんだから。


そう、あの日の俺と同じ。


「逆に聞くけど。綺麗な人間なんて、この世界にどれだけいる?」


俺は綺麗事が嫌いだ。

夢ばっかり語って現実の見えていない奴がよく口にする正義や理想なんかは、それこそ吐き気がするほどに。


そう、お前らだよ。

教室で、他愛もない馬鹿みたいな話に花ばっかり咲かせて現実味から一歩引いてる連中。

芸能人のだれそれとだれそれは絶対デキてるだとか、将来何になりたいだとか、下らない。


そしてそれを『本当はありえない』のを分かっていて楽しんでいる奴はまだいい。

素直に心の底から夢ばっかり見てる奴は、心底腹が立つ。

もうそういったファンタジーを語ることが許される幼い年齢は、過ぎてるだろうが。

そういう奴らは、ありえないのを分かっているやつらから、内心見下されているのを俺は知っている。


それから、『しない善よりする偽善』。

俺はこれって結構世の中の核心を突いた言葉なんじゃないかと思っている。

結局この世の中は偽善に溢れていて、それでも、その偽善で確かに救われる人は存在する。

裏に黒いものがチラついていても、なにもしない白よりずっと優れている。


俺も、ぶっ壊れた女の言葉で我に返ることができた。


そんなもんだ。

そんなものなんだ。


きっと、世の中の誰もが、俺達の『理想』ほどに綺麗なものじゃない。


「程度はどうあれ全員汚れてるんだよ。それこそ綺麗と汚いの2つにすっぱり分けられると思ってるほうがおかしい」


そこでようやくミケは合点がいったのか、はっとしたように見えた。

当たり前だ。

これはもともとミケが最初に使った言葉。


「好きと嫌いは混ぜられる、って。ミケが言ったことだろ? それと同じだよ。思い出して」


なんで俺は、こいつをフォローしてやってるんだろう。

だけど、目の前で肩を震わせるミケが今までにないくらい小さく弱いものに見えて、放ってなんておけなかった。


確かにミケはおかしい。

俺に迷惑をかけるし、常識もないし、羞恥心も欠けている。

だけど、その持ち前の突飛さで俺を救ってくれたのも確かだった。

それに報いてやろうというわけではないが、こいつを放っておききれない理由はまだそこにある。


きっとこれは俺が生きている限り、ミケが生きている限り永遠に付きまとう。

良くも悪くも、俺を変えたのはミケの一言だったんだから。


「……そっか」


ミケはようやく、その目尻に涙を見せた。

なにがあってもずっと泣くことなんてなかったのに。

ずっと無理やり奥の方に押し込めていた感情が、今、発露することを許されたかのようだった。


「……ま、ちょっとくらいゆっくりしてっていいよ」


特別にね、と添えて、とりあえずお茶でも淹れてやることにした。



「ねえ、あたしの名前さ。教えてあげるって、言ったじゃん」

「あー、あったねそういえばそんなことも」


わりとどうでもいい。

ミケはミケだし。


朝夕は冷える秋とはいえ、さすがに熱い緑茶を口にしていると暑くなってくる。

冷たいもんでもよかったかなあ、なんて思いながら、俺はなんとなくミケの言葉に耳に傾けていた。

とりあえずゆっくり一服でもして、落ち着いたら帰ってもらおうという気持ちで。

くたびれたソファでも、くつろげれば充分だった。


「あたしね、そら、なの」


ミケの言葉が、一瞬理解できなかった。


「名前。そら、っていうの」


二回目でようやく頭が追い付いた。

こいつは、名前が、よりによって――『そら』だったと、そういうことらしい。


「お母さんが付けてくれたんだって。ひらがなで、そら。漢字だと、『からっぽ』って意味にもなっちゃうから」

「……まさか、それで」


いつも空を見ていたこと。

空を見ていると生きる気力が沸いてくる、という言葉の意味。

『死んだ人を思い出すから』。


全ての糸が繋がった気がした。


ミケにとって、空は死の象徴である前に、母から与えられた愛情の象徴でもあった。

その残滓をかき集めるように、母の死んだ空を、いつも見上げていた。

母の散った空で死にたいと思うと同時に、母の与えてくれたそらという名前を糧に生きていきたいという気持ちも抱えて。


「空って、おっきくて、広くて、なんでも受けいれてくれそうな感じがするからだって。あと、『ソラ』に、無理やりだけど音楽としての意味も込めてるって。音楽が嫌いな人は、いないから」


誰からも好かれる人間になってほしい、おおむねそういう意味が込められた名前なのだろう。

実際母親の思惑は当たっている。

人懐こいし、明るいミケはきっと好かれたことだろう。

――父親が盛大にレールを踏み外して全ての歯車が狂いだすことさえなければ。


「……りょう、君」


隣に座るミケは確かにそう呟いた。

俺は驚いて彼女を見る。

どこか緊張したような面持ちで、試しに言ってみた、という感じにも思えた。


「なんで、それ」

「こないだ部屋に入った時見えたんだよ。『綾』だから、どう読むのか迷ったけど。男の子だからりょう君かと思って」


ミケが口にしたのは、俺の名前だった。

こいつがずっと『ミヤタ君』と呼んでいたのも、俺がミケと呼ぶのと同様勝手なイメージからきたあだ名でしかない。


だけど、知られていた。


――『(りょう)』。


ずっと、女々しい名前だと思っていた。

そういえば、どんな願いを込めて付けたって言われたんだっけ。


人との縁は糸のようなもの。

切れた糸は、もう戻らない。

結び直しても、結び目がわだかまりになって残る。


細い糸は弱い。

束ねられた糸は強い。

一人ではできないことでも、助けて支えてくれる誰かがいれば、違う。

――一本ではか細くて頼りない糸は、絡まれば不格好だしどうにもならないが、正しく織れば糸とは比べ物にならない強度を持ち、美しくもなれる。


そうだ。

そういう意味だった。


「……そっか、俺も」


今の俺は、絡まった一本の糸だ。

支えてくれる人もいないし、斜めに構えてばかりで。


「あのね、あたしね」


どこか縋るようなミケの声で我に返る。

今、ミケにとっての命綱になっているのは、ほかでもない俺だ。


「お母さんが死んですぐは、空が怖かった。そのまま吸いこまれて、お母さんのところに行っちゃいそうで」


それは最後、もう霞んでいた。

涙が混じって、震える。


「でも、駄目なの。お母さんがくれた名前と、願いを、怖がっちゃったら、あたし、もう立てないって、思って」


彼女は上体を折るようにして、膝の上に腕をつき、そこに顔を埋めた。

こぼれた涙を自らの内側に抱え込むかのようだった。


空を嫌いになった俺と、途中まで理屈は同じだ。

だけどミケが最後踏みとどまれたのは、母のおかげだったということらしい。


「お父さん、もうあたしのこと名前で呼んでもくれない」

「……なんか勘違いしてない?」


もはや嗚咽混じりで感情を吐き出すミケに、俺は水をさす。


「あんたは今ここにいるでしょ。そらっていうのもわかった。そっちで呼んでくれっていうならそうしてもいい」


おそらく、こいつの父親も俺と同じだった。

空が、嫌いになってしまったんだ。


「で。俺はやっぱ空が不気味だし嫌いだよ。でも、そっちの空と、ミケのそらは違うってことくらいわかってくれる?」

「……どういうこと?」


ミケはのっそりと上体を起こして俺を見た。

涙をたっぷり溜めこんで潤みきった瞳で、不安そうに。


「だから。俺が空を嫌いなのと」


そう言いながら天井を指さす。

それから目の前の彼女を指さした。


「そらを嫌うかは、別の話」


ぱちりとまばたきして、涙が頬を滑り落ちる。

長い睫毛の間に、球のようになった涙が残っていた。

透明で、綺麗な涙。

悲しい時に流れた人の涙には、ストレス物質を排出する役割もあるという。

『泣くとすっきりする』のはこのせいらしい。


ミケはずっと、我慢してきたのだろう。

泣ける場所もなく、自分の心を凍らせないとやっていけなかった。

だけど今それは、溶けた。


「世の中親に嫌われてる子供なんかいくらでもいるよ。でも世界中の全員から嫌われてる奴はそうそういないでしょ。少なくとも俺はあんたのこと嫌いではないしね」

「……そうなの? あたしのこと嫌いじゃないの?」

「まあね。ウザいなと思うことはあったけど、そこはそう、混ざってるからしょうがない」


そう言うと、ミケはまた泣きそうな顔をする。

というか実際泣いていた。

こんなにぼろぼろになるまで泣くところを見るのは初めてだったが、おそらく彼女もこんな姿を人に見せるのは相当久しぶりなんじゃないだろうか。


「そら。ちゃんと生きよう。俺達」


ミケの少しつり目がちな両目が、驚いたように見開かれる。

息を飲むのがわかった。

まさか俺からそんな言葉が出てくるとは思わなかったんだろう。

実際俺も、自分自身で驚いていた。


「不登校だし、世間的にはクズかもしれないけど。まだやり直せる。高校、籍あんでしょ? 一応」

「う、うん。たぶん」


自信がないのか、控えめに頷く。

最初会った時、『サボり』だと言っていたような気がした。

それは結局家の家事のことだったのか、それとも本当は行くべきだった高校のことだったのか、どっちだかわからなかったが、どうやら俺の読みは当たったらしい。


こいつはまだ、生きる世界に戻る足掛かりを残している。


「ちゃんと人と繋がろうよ。もう父親なんか捨てなよ。友達作って、ルームシェアなりなんなりできる奴探してさ」


そう。

俺たちはまだ子供だが、手段がないわけではない。

本気でなにかをやろうと思えば、抗うことくらいできるはずだ。


しかしミケは少しだけ怯えの色を見せて、目を逸らして俯いた。


「……捨てる、か。あたしがいなくなったら、お父さん、どうなるのかな」

「もういいよ、心配しないでも。もう、向こうはそらのこと娘だとまともに思ってないんだったら、そらももうあっちを父親だと思わなくていい。他人になっちゃえばいいんだよ」


さすがにそこまでは踏ん切りがつかないらしく、少し複雑そうな顔をして頷く。

蹂躙されても、やっぱり血縁は捨てきれないんだとでも言いたそうだった。

母を亡くした彼女にとって、家族らしい家族は父親だけなのだから仕方がないのかもしれない。

俺からしてみれば、逆らえないことを逆手に取って娘の人権を踏みにじる最低な男のようにしか聞こえないのだが。


「俺もそらも、友達がまともにいないでしょ。このままじゃ何にも変わらない。『生きてる』人達に、混ざっていこう」


生きる死人。

生きたくなるまで死んでいればいいよとお互いを赦した俺たちは、そろそろ、いつまでも死んでいられなくなった。


自分でも驚くほど、ちゃんと生きてみたい、と。

一人でなにも変わらないのなら、大勢に飛びこんでいくしかない。


「……俺も、学校。ちゃんと行くから。これからは公園に来ても居ないからね、俺」

「……っ」


かぶりを振る。

いかないで、という意思表示だった。

死人が、生者の脚を掴んで墓場へと引きずりこむように。


だけど違う。

俺がやりたいのはその逆だ。


置き去りにされた子供のような目をしたそらの頭をそっと撫でてやると、その両目にまた涙が溜まってゆく。

俺も、あんたも、骨の髄まで腐ってはいない。

最後に残った一粒の希望を育てないと、このまま本当に心から先に死んでしまう。


「土曜ならうちに来てもいいよ。それ以外は我慢して。学校に戻って、まともに女の友達増やしな。最初の友達らしい友達ができたら、ここに来てもいいから」

「……で、でも……あたし、ずっと行ってない」


まるで駄々をこねる子供だ。

もう一人の俺が、目の前にいるようだった。


「そんなの俺も同じだよ。正直怖い。あいつらなんかにビビってるのかと思うと情けないくらい。でも、引きこもってても変わらないでしょ?」


下らない連中だと見下していたクラスメイト。

だけどその実、見下されているのは俺のほうかもしれなかった。

いくら勉強ができようが、学校に殆ど行っていない俺は友達もいないし、好かれているとは到底思えないのだから。


それをいい加減認めなくちゃいけない。

マイナスからのスタートになるだろうけれど、それは俺が今まで自分の殻に籠もってきたツケだ。


『本当に必要なもの』から、目を逸らしていたことのツケ。

勉強だけじゃない、そういった友人だとか、経験だといったものが、俺達には欠如している。


馬鹿みたいだと見下していたものも、触れてみれば悪くないものなのかもしれない。

斜めに生きてきたその目線を矯正するには、やはり色々なものに揉まれてみなくてはいけないだろう。


「同じだよ。頑張ってみようよ、一緒に」


一人じゃない。

抱えた傷も、痛みも、全く同じじゃなくても、そらを墓場から救い上げられるのは俺だけだ。


そして俺を救いあげてくれたのはそらだった。


まだ、俺たちは生きている。

これから、生きられる。


そらは本当に全く学校に顔を出していないらしいから、全く一緒というわけにはいかないかもしれない。

だけど俺にはなんとなく、『こいつならやれる』といった信頼めいたものが沸いてきていた。


「……怖いよ」

「このまま父親の奴隷になってるのとどっちがいいの?」


まだ踏ん切りのつかないらしいそらにそう言うと、今度は激しく首を振った。

そらも、心の奥底では『生きたい』と思っているんだ。

今の彼女の生活は、とてもじゃないけどまともに生きているとは言い難い。


「案外やってみれば大丈夫なもんだって。……ほら、日が暮れるから、今日はそろそろ帰りなよ」


促しても、暫く渋っていた。

まあ、帰りたくないって言ってたしなにかあるんだろう。

しかしようやくその腰を上げると、か細い声で呟きながら頷く。


「……うん」

「ちょうど明日から月曜だよね。次の土曜、一回うちに来な。近況報告」

「……うん」


きっと、想像もよらないような出来事が俺たちを待っているだろう。

それは、怯えていたよりあっけなく楽に済んだということかもしれないし。

その逆の、どうしようもない壁にぶつかることかもしれない。


だけど、生きるってそういうことなんだろう。


ある秋の日。

二人の死人は、生き返る努力を始めた。


『次の土曜』に、二人が笑っているか沈んでいるかは、また別の話。

2012.03.29

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