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Shoegazer,Skygazer  作者: 梶島
Raison d'etre
5/6

私服の罪人

夏の盛りが衰える気配も見えない8月の半ば。

重たい灰色の雲が空を覆い隠し、そこから降り注ぐ水の粒は勢いよく地面を叩き、俺の部屋の窓もバチバチと音を立てている。


特に用事もない日曜日を、豪雨が濡らしていた。

いきなり訪れた雨雲は、つい10分前の晴天が嘘だったかのように景色を霞ませていく。

別段なにか出かける用事があったわけではないし、平日だったとしても用事なんて無いけれど。

なんにせよ家から出なくてよかったと言うべきか。

開けられない窓の、水のカーテンに遮られてろくに見えない向こう側をぼんやりと眺めながら、空気がまとわりつくような蒸し暑さを感じていた。


読みかけの文庫本を栞も挟まずに放りだす。

どうせ内容なんてたいして頭に入っていないのだから、読んでいないのと変わらない。

古びてシミだらけの装丁の背に貼りつけられた、図書館の蔵書であることを示すシールも端のあたりから綻んでいる。

多少乱雑に扱ったところで大して変わらないだろう。

元がボロいんだし。


先月末から、ミケの姿は見ていない。

というより、俺があの公園に行かなかった。


自転車でおよそ15分程度のところにある市立図書館へと、その拠点を変えたのだ。

制服姿だと怪しまれやしないか心配だったがそれは杞憂に終わる。

夏休みも目前になった時期になって通い始めた俺を訝しむ人はいなかった。


成績表は、まったくもって問題がなかった。

いつものように、授業態度だけがやけに低い。

それを見た母が少し悲しそうな目をして不思議そうに首を傾げるところまで含めて、予定通りだった。


晴れて夏休みという大々的に引きこもれる大義名分を得た俺は、こうして家で腐り続ける生活へとスムーズにシフトした。


母とぽつりぽつりと交わす挨拶以外に、誰とも言葉を交わさない。

図書館に行ったって、そこに居る人達はただ黙って本に目を落としているだけで、そんなものはオブジェと変わらなかった。

本の匂いに包まれた静謐な空気は嫌いではないが、人型のオブジェに大量に囲まれる趣味はない。


こうして家に引きこもっていても、やっぱり夏の暑さはあらゆるものを蝕んでいく。

エアコンのような贅沢品を使うことがなんとなく気が引けるため、開け放った窓から通る風しか涼が無い。

しかし今日は生憎の雨で、窓は開けずに締め切った部屋はさながら蒸し風呂の様相を呈している。


無意識下で汗ばんでいたのが気持ち悪くて、一度シャワーでも浴びてすっきりしようと立ち上がった。


ぴんぽーん。


と、そこで気の抜けたインターフォンが鳴る。

ちょうど立ち上がったところだったからタイミングが良かったのか悪かったのか。

宅配便だかセールスだか、この雨の中ご苦労なことだ。


俺と違って、世の中の『がんばってる人達』に、季節も天候も関係ない。

いちいち面倒なので電話は取らずに直接玄関に向かう。


家の中に満ちた空気は湿度を纏ってねっとりと絡みついた。

重苦しいほどの暑さ。

日差しはなくとも、気温と湿度はじりじりと体力を蝕んでいくものだ。

雨の気配を感じて窓を細めていたのは俺の部屋に限らず、この家の中はほとんど空気が通っていない。

熱気が淀むのも当然といえば当然だった。


サンダルをつっかけて引き戸を開けると、相手が誰だかこちらが把握するよりも前に能天気な声が飛んでくる。


「やほー。雨宿りさせてよ」

「……なんでいんの、アンタ」


敬礼のようなポーズをとりながらにっこり笑って俺を見上げたのは、全身濡れ鼠状態のミケだった。

この雨に完全にやられたようだ。

服はもちろんのこと、少し癖のあるセミロングの髪はびっしょりと水分を含み、毛先からは雫がぽたぽたと垂れていた。


今日も袖の短く体にフィットするTシャツと、デニムのホットパンツというどこにでもいそうな出で立ちだった。

どこかに行った帰り、というわけでもないらしく、その両手はフリーの状態。

雨に濡れたせいで色々貼りついたり透けていたりするのだが、こいつには警戒心って物が無いんだろうか。

そういう相手ではないと分かった上でやってるにしてももう少し恥じらいを持っていいと思う。

外を歩いていれば人目につくだろうし。


「……まだ上がるなよ、ちょっとそこで待って」


びしょ濡れのまま家に上がられても困るので、『待て』をしておく。

このあたりはさすがに本物の猫ではないので言うことを聞いてくれると思いたい。

その状態で上がり込むのは非常識であることぐらい分かってくれる程度には常識を持った相手であることを期待している。

いや……『家の人間の指示に従えるくらいには』、程度にハードルを下げるべきか。


俺は一度ミケに背を向けてタオルを取りにいったのだ。

別にあいつのためじゃない。

軽くでも拭いてやらないと、あいつの歩いたところがいちいち濡れるからだ。


適当なバスタオルを一枚ひっつかんでから玄関に戻ると、ミケは言われた通りきちんと玄関に佇んでいた。

その足元はびっしょりと濡れていて、雨がどれだけ激しかったかを別の角度から物語る。


「ほら」


タオルを投げてやると、どうやらミケは普通に手渡ししてくれるものと思っていたらしい。

うわ、だなんて間抜けな声をあげて、顔にぶつかったタオルに驚いていた。


「うー。いきなり投げなくてもいいじゃない」

「貸してやるだけありがたいと思ってほしいんだけど」


そう言ってやればさすがに返す言葉もないらしく、ミケは口を尖らせて少し不満げにしつつもそれ以上のことはしなかった。

頭の回転はそこまで早い奴じゃない。

口論で俺に勝てないことくらいは学習しているようだ。


「いやぁびっくりしたよ。いきなり降られたもんだからー」


そして恨みごとの矛先は天候へと。

いきなりもなにも天気予報では雨を警告していたし、ここ数日だって不安定な天気だったと思うのだが、こいつは3歩歩けば昨日の天気も忘れてしまうタイプなんだろうか。

そこまでアホだとは思いたくないが、こいつだったらそうかもしれないと思わせる要素がミケには多すぎる。


「あ、これはやばい! と思った瞬間もうビャーって降ってきたからね、逃げようもないし」


自分が濡れ鼠になった経緯をまるで物語かなにかのように語っているが、実際はただ準備が悪い奴の間抜け話だ。

まあ、単純に誰かに聞いてもらいたいだけなのだろう、適当に聞き流すことにする。

どうせそれで勝手に満足するんだから。

ぶつくさ言いながら頭をわしゃわしゃとタオルで拭うミケをぼんやり眺めながら、俺はちょっとした疑問を投げかけてみた。


「ところでなんで手ぶらなの?」

「え? いや、ただ散歩してただけだしね」


それがどうした、とでも言うようにあっさりと返ってきた言葉。

散歩するにしたって、傘を持つという選択肢は最初からなかったらしい。

それに俺に言えたことでもないけれど、こいつの場合は『散歩』というより『徘徊』のほうが正しい気がする。


「携帯は? 濡れてたら死ぬんじゃない」

「持ってないから大丈夫」


これまたあっさりとした口調で答えられる。

いまどきの女子高生とは思えない。


こいつはいつの時代の人間なんだ。

ミケに、まともな友達がいるとは思えない。


それならば持たなくても支障ないのかもしれないが、こうも日中ふらふらしているとなれば連絡手段は確保しておいたほうがいいような気がする。

家庭事情のことはそこまで知らないが、放任主義なんだろうか。

まあ、それはいい。


「……あと、なんで俺の家知ってたの?」

「こないだこっそりついていったから知ってたよ」


どうもミケに常識を求めるのは間違っているらしいということを改めて確認することができた。

さっきタオルを取りに行く時『待て』をしておいてよかったと心底呆れる。

こいつの言う『こないだ』は、あの雨の日しかありえない。

激しく叩きつけてくる雨を全身に受けながら、傘もささず、俺を尾行していたということなのか。


一応体を一通り拭き終えたミケは、水気を帯びたバスタオルをひょいひょいと畳み直して俺に差し出してくる。


「ありがと。んでもってシャワーとか貸してくれると嬉しいなー」

「いいけどその後服はどうするの」

「貸して。あと洗濯させてくれとは言わないから服持ち帰れる袋かなんかくれると超嬉しいかも」


どこまで図々しいんだ、この女は。

といってもなんとなく邪険にできない相手でもあるので、俺は諦めてため息をついた。


ミケは、俺が母親との二人暮らしであることは知っている。

そして俺が夏休みに入った今、母親は夜の仕事と並行して昼の仕事を増やしていることも。

家に俺ひとりしかいないことを分かった上で、押しかけてきたのだ。

他に頼れる友人もいないであろうこいつは、都合よく。

しかしミケのそういったどことなく厭世的な面は、俺にも当てはまる部分がある。


友達はいないし作ろうとしてもいない。

ミケのことを友達にカテゴライズしていいのかどうかは実に悩ましいラインであるが、ある程度の情が沸いている相手であることは認めざるを得ない。

それがただのシンパシーにも満たない、傷の舐め合いに似た感情だったとしても。


――そう思っているのが、俺だけだったとしても。


ミケを風呂場に放り込んで、それから。

俺は自室に戻り、女でも違和感なく着られそうなものを物色していた。

着替えに関して、ミケはあろうことか俺の服でいいだなんて言い出したからだ。

この場にいない母親の服を勝手に貸すのも気が引けるけれど、これはこれでどうなんだ。


なんであんな奴のためなんかに俺が悩まなきゃいけないのか分からなかったが、それを考えれば考えるほど腹立たしいだけなのでやめた。

幸い俺の身長はそこまで高くないので、サイズが合わなさすぎるということもないだろう。

合わなかったとしても、希望したのはミケだ。

俺の知ったことじゃない。


とりあえず無難なTシャツとジーパンの上下一式……下着を除いた二枚を持って、風呂場へと向かう。

脱衣所に置いておいて声をかければいいか、と思ってドアを開けたのだが。

そこには、タオル一枚のミケがいた。


「うわー。すけべー」

「……ごめん」


まるで驚いた様子の無いミケが言葉だけで責めてきたので、一応謝罪の言葉とともに片手で服を差し出しながら顔を逸らす。

……ノックくらい、一応はするべきだったか。


「どーもどーも、ありがと~」


そう言いながら、ミケは俺の差し出した着替えを受け取った。

片手に乗っていた重みが消えたので、ミケを見ないようにしながら退散し、後ろ手にドアを閉める。

まさかこんなに早く上がるとは思わなかった……が、確かに軽く流す程度ならこのくらいか。

ただでさえ暑い夏場だし、他人の家で長風呂するほど非常識ではなかったのかもしれない。


……そうだ。

勝手に上がり込んできたのはミケなんだから、俺が謝る必要はなかったんじゃ?


ほどなくして、俺の服を着たミケが出てきた。

少しサイズが大きいようではあったものの、人前に出られないほどみっともないということもないだろう。

ところでこいつはこの格好で家に帰るつもりなんだろうか。

つまるところ返すためにもう一度この家に押しかけてきそうで怖い。


どうも今まで見てきた服装からして体にフィットする服を好む傾向があるミケにとって、俺の服は気に入らないらしい。

不思議そうな顔をしては、たわんだ部分を指でつまんでいた。


「ブラないとスースーするなぁ」

「そういうこといちいち言わなくていいんだけど」


こいつは本気でアホなんじゃないだろうか。

『下』について言われても扱いに困るので、早々に話を変えることにした。


「で、どうする。洗濯は」

「え、いいの?」


俺の提案が予想外だとでも言うように目を丸くした。

洗濯について先に持ち出したのはミケだというのに。

こいつのことだからてっきり本気で言っているのかと思ったが、ある程度の申し訳なさを感じる程度の常識は持っているらしい。

相変わらず基準が意味不明な女だと思った。


「今から洗濯して乾燥機かけた頃には雨も止んでるんじゃない?」


現に、雨音はほとんどしなくなっている。

この調子ならばもうじき止むだろう。

毒を食らわば皿まで……とはまた違う話だが、どうせ大した労力じゃない。

俺の服を着たまま帰られて、ミケの父親から不審がられるほうがよっぽど面倒だ。


「うーん。ミヤタ君がいいならお言葉に甘えちゃおうかなぁ」

「ならさっさと回すよ。終わったらさっさと帰ってよね」


ミケがシャワーを浴びたせいで熱気と湿気の籠る脱衣所に戻り、洗濯機を回す。

女性ものの下着は一緒に洗ってはいけなかった気もするが、面倒くさいしいちいち掘り返すのもまたすけべだなんだと言われかねないので無視して一緒に放り込んだ。


俺の一連の動作を見て、ミケはぱちぱちと手を叩く。


「おお、さすが不登校家事手伝い。手際いいね」

「お褒めの言葉ありがとう、不登校徘徊女」


どうせ皮肉にもならない。

単純に自分をカテゴライズしたものとしか受取れなかったし、ミケだって同じだろう。


それぐらい、俺たちは世界というものに冷めていた。

洗濯が終わるまでの間、リビングで時間を潰すことに。


もてなす必要は感じなかったが、とりあえず麦茶を出してやった。

それがいけなかったらしい。


ミケはすっかり我が物顔でくつろぎだし、ソファに寝そべってはラックに収まっていた雑誌を物色して勝手に読んでいた。

昔母親が買った主婦向けのものしかなかったように思うのだが、それでもなにもしないよりはましだということか。

端が傷んでいたり表紙が色褪せたりしている雑誌を、物珍しそうな視線が滑っていく。


「雨、止まないね」


と、そこで唐突にミケが呟く。

もはや彼女を居ないものとして扱い、俺は俺で携帯でも弄って時間を潰そうと思っていたから少しばかり面食らった。

ちらと様子を伺うと、ミケはミケで姿勢は変えぬままにこちらに目線を注いでいる。


どこか猫のような、獣じみた瞳だった。

それに僅かながら違和感とも不安ともつかない感情を煽られる。

……違う、気のせいだ。


それを振り払って、俺はミケの言葉に応えた。


「……癪だけど、もし止まなければ傘くらいは貸してあげてもいいよ。それなら帰れるでしょ?」

「おー、何から何まで悪いねぇ」


そのときはよろしくぅー、と気の抜けた声で答えたミケは再び雑誌に目を落とす。

結局時間をつぶす間、それ以外にミケが俺に絡んでくることはなかった。


「おー、乾いてる乾いてる。ちょっとあったかいなぁ、冷めるまで待っていい?」


洗濯機から引きずり出した服を引っ張って広げながら、ミケは嬉しそうな顔をする。

ついさっきまでこの機械の中でぐるぐる回されていた服が熱を帯びているのは当然だと思うし、そしてこの暑い中それを着たくないのも当然だと思う。


だがこう言ってやりたい。

さっさと帰れ。


ところがそう言うよりも前に、ミケは服を掴んだまま再びリビングへと戻ってしまったのだ。

着替えるならまた脱衣所なりなんなりを使うはず。

つまるところ、この家にまだ滞在する意思を示していた。


「着れば慣れるって。さっさと着替えてきなよ」


帰れとストレートに言うのもあれこれ文句を言われそうなので、やや遠回しに帰りを催促する。

ぶぶ漬けを勧めたところできっと理解しないことはなんとなく予想がついていた。


「えー? なんか脱ぐのちょっともったいないな。ミヤタ君の匂いがするし」


予想通り、言うことを聞かない女である。

服の襟をつかみ、鼻に寄せてくんくんと匂いを嗅いでいた。

本気でやめてほしい。


「……寒気のすること言わないでくれる?」

「おお、暑いからぴったりだよ」


女じゃなかったら殴りたい。

女でも殴りたいけど。


「んじゃそこまで言うなら着替えて帰りましょうかねぇ」


からりとした口調でそう言うと、ミケは俺の目の前で脱ぎ出した。

下着を付けていないことはさっきの会話で分かっていたが、隠す気配もなく白い双丘がふるりと露わになる。

俺は反射的に目を背けたが、一瞬視界に入ってしまったことは否定できない。


「バカ、なんでここで着替える」

「えー? いちいちあっちいったりこっちいったりも面倒だよ」


どうもこいつに羞恥心というものは存在しないらしい。

こいつが動かないなら、俺が動くしかない。

そう思って腰を浮かしかけたとき、ミケは今までにないくらい挑発的な声で俺を舐めた。


「……あれぇ? どこ行くの? もしかして照れてる?」

「……照れる照れない以前の問題で。人として、こういう場に同居すべきじゃない」


そちらは見ずに諭したが、次に聞こえてきたのはくつくつと抑え込むような笑い。

あー、とか、んー、とか、言葉を選ぶような唸り声のあとに、笑い混じりでミケはこう言い放つ。


「どーてーくん?」

「それとこれと、何の関係が」

「ないけど」

「ないだろ」

「ってことは図星なんだ。あっはは」


膝かなにかをばしばしと叩くような音と、ミケの爆笑が混ざり合った。

ここで否定しても肯定してもどっちにしろこいつの笑いの火に油を注いでしまうだけなので、口を噤む。


向けた背の後ろで気配が動いた。

それからそっと、後ろから抱きすがる体温。

紛れもなくミケの身体であるそれは、俺の着ているシャツ一枚しか隔てるもののない柔らかさでぴたりと熱を伝えてくる。

白く細い腕が俺の腰にまわり、その指先は着衣の下を侵そうと滑りこんできた。


「おねーさんが教えてあげるよ」


吐息混じりの掠れた声は、発情期を迎えた甘い鳴き声に等しい。

そもそも、お前は『おねーさん』なのか、と尋ねたかったが、性経験的な意味でリードしている、ということなのかもしれない。

大きなお世話だった。


「いらないんですけど」

「そういうこと言わないの。あたしが教えてあげたいから言うこと聞いて」


もう面倒くさい。

ミケが寄せてくる波に、仕方がないから乗ってやることにした。

最初だけは。



「んもー、初めてじゃないならそうって訂正してくれればよかったのに」

「知らないよ、そっちが勝手に思ってたことなんて」


結果的に、もう一度シャワーを浴びる羽目になった。

高校生の男女が二人で使おうとするのに、我が家のバスルームはいささか狭かったが、母が帰ってくる危険性が高まる時間帯に片足を突っ込んでいることを考えると、そうするしかない。


「それにしても凄い凄い、いやー楽しかっ……ぶへぁ!」


口の止まらないミケの顔にシャワーを浴びせて黙らせた。

濡れ鼠ならぬ濡れ猫状態のミケは、さすがに少しだけしゅんとなる。

全裸で正座して全身びしょ濡れて俯いている姿はやや滑稽だったが、それからたっぷりの間をおいてミケの口から出たのは謝罪ではなかった。


「なんか、ありがと」

「……逆レイプ犯にお礼を言われた気分を味わった男なんて世界で俺くらいだと思う」

「ちょ、素直じゃないなー。なんだよぅ、ミヤタ君だって途中からノリノリだったくせに」


こっちが気を許したと思ったのか、またもミケが濡れた身体をまとわりつかせてくる。

鬱陶しいので腕で振り払った。


「……もう絶対ない。今回限りだよ、こんなの。普通じゃないし趣味じゃないし」

「あたしにとってはこっちのほうがまだ普通なんだけどなー。んー、やっぱ持久力が違うわ」

「……誰?」

「うん。おとーさん」


けろりと告げられた言葉に絶句した。


それから俺たちは風呂場を出て、各々着替え、俺の部屋へと引っ込む。

このままミケを帰すのは、俺がすっきりしなかった。


母親が帰ってきたらバレるかもしれないので、ミケの靴はビニール袋に入れて俺の部屋に持ち込み、風呂場はミケにも手伝わせて水気を拭きとった。

人ひとり隠すにはあまりにもお粗末だが、なに、相手は疲れて帰ってくる母親ひとり。

パートから戻ってきて夜の仕事に出るまでのわずかな時間だ。

なんとか誤魔化しきれないこともないだろう。


「……さて、どういうことなのか俺が気になるから説明してもらおうか」

「えー。別にいいけど面白い話じゃないよ? で、どれ?」


どたばたとお粗末な隠蔽作業を終え、俺とミケは部屋で向かい合った。

ミケは俺の部屋の中のものが気になるらしく、さっきからあっちこっちとものを漁っている。

本当に落ち付きの無い奴だった。


「どれって、お前は父親と何をしてるんだって話」

「えっちなこと」


けろりと答える。

きぃん、と耳鳴りがした気がして、俺はテーブルについていた手で頭を支えた。

違う、頭が重いんだ。


「それは、普通じゃない。わかってんの?」

「知ってるよ。だから、ミヤタ君とするほうがまだ普通だって言ったじゃん」

「……あのねぇ……」


返す言葉が見当たらない。


それからミケは淡々と語りだした。

母を亡くして大変なショックを受けた父親は、立ち直るのに失敗した。

心を壊したことで身体を壊し、生活保護でなんとか暮らしている。

まだ小学生だったミケに『妻』としての役割を求めたが、家事も、夫をねぎらう振る舞いも、当然うまくいくはずもなかった。

父親は『母親』の役割を全うするつもりなど毛頭ない。

その矛盾にどちらも気付かないまま、ミケはミケなりに『子供』をやめて『妻』になろうと頑張った。


しかし、それは父親の求めるハードルのはるかに下でしかなかった。

そんなミケでも唯一、夜の相手だけはすることができると分かり、父親は主にそれを娘に求めるようになる。

ただ歯を食いしばって耐えていれば終わるから、何もできない自分でも、これさえ我慢すればいいから、と、そういう生活を5年間続けてきた。


「おかしいってのは分かってたよ。でも、そうしないと機嫌悪くして殴られるしさ。お金だってもらえない。そうすると、ご飯も作れないでパチンコ行っちゃうし」

「なんで、誰にも助けを求めなかった?」

「求めてどうするの? お父さんがいなくなったら、あたし、どうなるの?」


淡々とした口調で、その瞳もどこか冷たかった。

まるで世界の全てが父親であるかのような物言いのまま、ミケは続ける。


「言ったでしょ、ミヤタ君はお母さんに対して『好きと嫌いが混ざってる』って。あたしも同じ。お父さんのこと、好きだけど嫌いなの。わかんない」


俺が母親のことを引きずって心に刺さった棘として抱えているように、ミケにとっての父親も同じ存在らしかった。

それから少しだけ目を伏せると、ミケは膝の上に置いた両手をぎゅうと握りしめる。


「彼氏は代わるし、旦那だって代えがきく。だけど、父親って変わらないでしょ。何が起こったって」

「でも、それってミケの中でもう『この人は父親だ』っていう情しか、繋ぐものがないってことなんじゃないの」

「ひとつでも繋ぐものがあれば、繋がっちゃうから、しょうがないよ」


そう言ったミケの顔は、無表情だった。

仕方ない、って笑顔でもなく、憤ったものでもなく、ただなんの感情も映さない、無。


いつも笑っている奴、という印象を訂正しなくてはいけないかもしれない。

こいつのこんな顔を見るのは、初めてだった。


父親だから。

ただそれだけで、ミケはその駄目親父を捨てられないでいた。

ミケのことを娘として認識できているかどうかすら怪しいように聞こえるのに、それでも娘として、父親を想っているというのだ、この女は。


「……無理、してんじゃない」


嫌っていいだろ、そんな奴。

そこまで言おうとして、結局喉の奥につかえてしまった。

人を繋ぐ家族という血の糸は、結局彼女の首をゆるやかに絞めているだけなのではないか。

そうでなければ、その駄目親父と一緒に地獄へと放り込まれる道を選ばせる手錠か。


「してないよ」


ミケの表情は変わることがない。

それが当たり前で、何も疑うことなどないとでも言うような、からっぽの顔だった。


こいつ、もう壊れてる。


「それさ。できないんじゃ、ないの。無理するしか」


そもそも最初からおかしかった。

初めて会った時のミケは全くと言っていいほど日焼けしていなかったのに、少しずつその肌は小麦色に近づいていった。


「最初に俺と会ったとき。なんで家を出た?」

「……それ聞いてどうするの?」

「聞いてんのはこっちだよ。答えろ」


きっとミケのそれは徘徊癖なんかじゃない。

本当に、『俺に会いに来ていた』、いや、『俺に逃げに来ていた』んだ。

焼けた肌がなによりの証拠だった。

露出度の高い服装も、ついさっき、俺と重ねた身体も。

誰かに縋る方法が、『それ』しかもう思いつかなかったから?


「……外に、出たかったから。出ただけだよ?」


違う。

その裏側にあるのは、『家に居たくないから』だ。


こいつは俺と同じだ。

なんとなく外の空気を吸いたいだとか買い物に出たいとか、そんなんじゃない。

父親にぶっ壊されたミケは、まだ残っていた常識でそれを拒絶した。

あの日俺を見つけたのは偶然だったのかもしれないが、きっと何処でもよかったし、一緒に居られるなら誰でもよかったんだろう。


「あんた……バカじゃないの」

「よく言われる」

「誰に」

「お父さん」


実の父親でありながら娘の体を求める父親のもとに居たくないなんて当然だ。

結局俺と初めて会ったときも、父親と同じ家で過ごすのが嫌で出てきた結果の偶然だったわけだ。


雨は止んでいた。

窓を叩く音の代わりに、重く垂れこめた雲が濃紺へと染まり始めているのが見える。


「あのさ。父親がもし赤の他人だったら、それでも好きでいられる?」

「それはおかしいんじゃないかな? 無理だよ、そんな想像」


ミケの表情に困惑が浮かんだ。

困ったように眉尻を下げ、その声はどこか懇願するようにも聞こえる。

まだ父親をかばうつもりなのかもしれない。


「じゃあ言い方を変えてやる。事故で妻を失くしてからぶっ壊れてギャンブルに溺れた挙句娘を犯すような男、どう思う」


そう問うと、俯いて押し黙る。

微動だにしないものだから、俺は窓を開けに行った。

わずかながら雨に冷やされた生ぬるい風が、たっぷりの湿気を含んで頬を撫でる。

雨上がり特有の匂いが、部屋に流れ込んだ。


それからミケの向かいに座りなおした時、ようやく彼女は反応を示した。


「……あたしだって、父親じゃなかったら」


その顔が歪む。

潰れた声で吐きだしたかすかな本音は、初めて見せる現状への呪いだった。


こいつは強くなんかない。

強いように見えたのは、俺がミケの表面しか知らなかったからだ。


本当の意味でぶっ壊れるその寸前の、ぎりぎりのところでどうにか生きている。

カラ元気で崖の上を走りまわっていた。


俺よりずっとやばい。

『もっと可哀想な奴』は、こんなに近くにいた。


「これで相手が彼氏なら問題ないかもしれないけど? 父親との家族計画はアウトですよ、お姉さん。デキたらどーすんの」

「……っ」


父親もミケも馬鹿だ。

その行為が背負うリスクを、分かっていなかったとしても。

『死』に振り回されてきた連中が、下手したら新しい『死』を生み出そうとしてるようにすら見える。

とはいえ、俺もついさっきそれの片棒を担いでしまっているから、偉そうに言えた立場でもないんだけれど。


「でも……あたし、どうしたら」

「知らないよ。俺に聞くな」


無慈悲に言い放ってやれば、叱られた子供のように身を震わせる。


やっぱりこいつは、どこにでもいる女子高生に過ぎない。

強靭な精神なんて、持っていなかった。

それを完膚無きまでに打ちのめしたのは、母親を亡くした事故のせいだけじゃない。

娘より先に折れた、こいつの父親だ。


「あんた、そうやって一生親父の奴隷みたいに生きてくの?」


そう尋ねると、ミケはゆるく首を振る。

ほら、できるんじゃん。父親への反抗。

それを本人の目の前でできれば合格だ。


「どうするかくらい、自分で決めろよ。いっとくけど俺に責任求められても困るからね」


これでミケが逆上するかもしれない、とは思った。

だけど、こいつはもう限界だ。

残ったかすかな理性に誰かが火を灯してやらないとぶっ壊れる。


「……そうだね。このままじゃ、駄目だよね」


意外にも、ミケは決意したかのように頷いた。

その瞳に再びまっとうな生気が宿るのを見て、俺は内心ほっとしていることに気が付く。

なんだかんだで、放っておけないみたいだ。


「で、今日どうすんの。暮れちゃったけど、家のことやらなきゃいけないんでしょ」

「うん。でも、今日はお父さん遅くなるからまだ平気」


仕事してないんじゃなかったっけ。

聞こうと思ったが、なんとなくやめておいた。

ミケはすっと立ち上がると、そのまま俺の隣に腰を降ろして、ことりと頭を肩に預けてくる。


「ちょっとだけこうさせて」


きっとこいつは、甘えられるなら誰でもよかったんだろう。

正直、ミケの事情は重すぎて受け止めてやれない。


だけど、ミケの言葉が俺を救ってくれたように、俺の肩がミケの心を僅かでも楽にできるなら、この頭の重みくらいちょっと我慢してやってもいいかなと思えた。

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