左胸に抱く子猫
「あっ」
聞き覚えのある声に振り返ると、一昨日ここで声をかけてきた少女だった。
先日と同様に、露出度の高い活動的な服装をしている。
ミニスカートから伸びた白い足で淀みなく交互に地面を蹴り、こちらに駆け寄ってきた。
「ミヤタ君」
にかっと笑うと、また当たり前のように俺の隣に座る。
昨日母から感じた酒と香水の匂いとは違う、別の匂い。
それに何となく安心を感じるのは何故だろう。
「……ミヤタ?」
「名前、聞いてなかったからさ。なんかミヤタっぽいから、ミヤタ君」
一昨日はろくに見なかった彼女を、一度は目が合った惰性のように眺めた。
真夏の公園に不釣り合いなくらい肌が白い。
女性らしく日焼け対策でもしてるんだろうか、大変なもんだな、と漠然と思った。
「じゃああんたはミケ」
「なにそれ、猫じゃん。それにどっちも頭文字がミってどうよ」
「勝手だしうるさいしまるで猫だ。ピッタリだと思うけどね、俺は」
仕返しに名前を付けてやると、彼女……ミケは不満げな顔をする。
しかしそれからぱっと表情を変えて俺に尋ねてきた。
このマイペースさは、やっぱり猫だ。
「ねぇ、空見てたよね。死にたくなるんじゃないの?」
俺の行動の矛盾をついて懲らしめたいとかそんなわけではないようで、純粋に疑問の色を滲ませていた。
会話の中で、あまりにも軽く扱われる命。
軽くしたのは他ならぬ俺自身。
「ミケは、空を見てると生きる気力が沸いてくるんだっけ。なんで?」
ミケからの質問に答えずに、俺は質問を返した。
それに対してさして不満の色も見せずに、隣に腰かけた少女はあっけらかんと答える。
「死んだ人を思い出すから。その人があたしを見て笑っていてくれるように、ってね」
時が止まったような錯覚。
煮詰まった時間がそこに留まり、俺とミケの間に横たわったような一瞬。
思わず跳ねるように顔を上げてミケを見たが、やっぱりそいつは屈託なく太陽のような笑みを浮かべているだけで。
「誰、が?」
気が付いたら、デリカシーのない質問を重ねて浴びせかけていた。
ミケが思いだすという『死んだ人』。
空を見るたびに思いだすのであれば、その人が彼女の心の中を占める割合は消して小さくないだろう。
それに対して、俺は空を見て死にたいと繰り返してしまった。
こんなにもデリケートな話を聞いて良いんだろうかと、尋ねてから後悔する。
ミケは笑顔を少しだけ弱らせて、また顔を上に向けた。
髪が風に靡いて、白い首筋が木漏れ日に光る。
「お母さん。五年前にね、飛行機事故があったんだよ」
その言葉に、俺の中の沢山のものが音を立てて形を変えていったような気がした。
空を見て、父の姿を見て、死にたくなる俺と。
空を見て、母の姿を見て、生きたくなるミケ。
あまりにも嫌な偶然だった。
五年前の飛行機事故。
飛行機事故なんてそう頻繁に起きるものじゃない。
もしかしなくても、俺の父親とミケの母親は同じ事故で死んでいた。
「……凄いね」
「何が?」
いつまでも立ち止まったまま地面を睨むことしかできなくなった俺とは違う。
ミケは立ち上がって空を見て、確かに前に進んでいたんだ。
彼女はおかしそうに笑った。
「凄くなんかないよ。だってあたし、ほら、サボりなんだってば。あたしもコーコーセー。あははっ」
大学生か何かかと思っていたが違ったらしい。
それからミケはふっと顔から笑顔を消して、少しだけ寂しそうな顔をする。
「ミヤタ君の方が凄いよ。頑張って勉強してたじゃん。今日はすぐあたしが見つけちゃったから、お邪魔だったね」
違う。
何かしらの高尚な理由で勉強してたわけじゃなくて、ただ惰性のままに毎日を過ごしていただけ。
母親を騙すため、自分を騙すために。
俺は、立ち上がりかけた彼女の腕を掴んでいた。
「……ミヤタ君」
「もっと、話がしたい。色々聞かせてよ。ミケのこと」
ミケは驚いたように目を見開いて、また静かに俺の隣に座ってくれた。
「面白い話なんて、ないよ」
そう言いながら寂しそうに笑うミケは、心の中で泣いていたんだと思う。
「別に面白くなくたっていい。ミケのことを聞きたい」
「……ナンパとしては、3点だね。100点満点で」
ぷっと吹きだしてからそう言って、彼女はぽつぽつと話し始めた。
母親を亡くしてから、生活が一変してしまったこと。
父親が豹変し、心を擦り切らしてしまったこと。
ミケ自身も疲れ果てて、段々学校にも行かなくなり、高校には最初の数日しか行かず、今や完全に不登校になっていること。
父親と二人で家に居るのも居心地が悪くて、日中は町中を適当にぶらついていること。
「だからあたし頭悪いんだよー。ねえ、ミヤタ君ってなんか勉強できそうだよね。これもなにかの縁じゃないかなぁ? 良かったら教えてよ」
そんな話をした直後に、またからりとした笑顔を浮かべてねだってきた。
昨日帰り際に声をかけてきた、クラスメイトの女子のことが頭をよぎる。
言い訳に使った、『教えるのは得意じゃない』という言葉。
それは嘘じゃない。
あまり人と関わらないせいか、俺は人に何かを伝えるのがすこぶる苦手だった。
「いい、けど。教えるのは下手だよ」
「構わないよ。それじゃあまず練習しよう?」
練習?
俺が聞き返すと、ミケは少し目を細めて、身を傾けてベンチに手をつき、顔を近づけてきた。
「今度はミヤタ君のことを、あたしに教えて」
ぱっちりと開いた双眸が、俺を捕えて離さない。
息がかかりそうなほど近くで、それでもミケは動じる様子もなくこう告げた。
「死にたいってしょっちゅう言う人は、絶対に死なない」
俺はそれを、まるで知らない外国語を聞いた時みたいに、無感情に受け止める。
僅かに眉根をひそめたミケから発せられる、見透かすような言葉。
「生きたいから、死にたいって言うんだよ」
俺自身にすらよく分からないっていうのに、出会ったばかりの彼女に『俺』の何が分かるっていうんだろう。
だけど、やけに素直に聞いている自分がいた。
怒りも不満もなければ、喜びも感動もない。
ただ、言葉が俺を貫いて向こう側へと通り過ぎていく。
「ミヤタ君は生きたいんだろうね。でも、もう死んでるみたいな顔してる」
「死んでる? 俺が?」
その言葉だけは、俺に刺さったまま通り過ぎる事はなかった。
オウム返しに聞くと、ミケは頷いて応える。
「だから教えて欲しいの。ミヤタ君は生きたいんだと思う。でも、同時に生きたくない顔もしてる」
無垢な瞳は、最後まで俺から逸らされることはなかった。
預けていいんだろうか。
俺のこの、わけのわからない感情を。
自分ですら整理がつかない重たいものを。
今まで誰にも見せたことは無かった内側を、曝け出してみようか。
そんな気に、なれた。
同じような痛みを抱えてなお立ち上がったミケになら。
いつまでもうずくまった俺の弱さを。
「たぶん、意味不明になるよ。伝えるの苦手だから」
「いいよ。全部聞きたいから。聞かせて」
僅かに躊躇った俺の言葉を遮るように、ミケは即答した。
ただの他人である俺にどうしてここまで構うんだろう。
今まで俺の存在は誰かに触れることなんてなかったのに。
俺は全てをミケに話した。
学校には居場所がないから行きたくない、だけど、母親を裏切れない。
今は母親を騙している。
理想を託してくる母親が嫌い、だけど、大切。
父親の散った空が気持ち悪い。
どこまでもつきまとう閉塞感。
それはきっとあの空が押しつぶしてきそうだから。
そうやっていつまでも周りのせいにしかできない自分の価値が、見えない。
「そっか」
全部話し終えた時、ミケの反応は驚くほど淡泊だった。
それでよかった。
同情も慰めも要らない。
ただ、否定しないでくれたらそれでよかった。
こうやって汚いものがたくさんたくさん渦巻いてごちゃごちゃでわけがわからなくても、それが『俺』だから。
『俺』を否定しないで欲しかった。
「ミヤタ君は、さ」
ミケは乗り出していた身を引っ込めて普通に座ってから、少し俺にすり寄った。
ことりと頭を俺の肩に預け、甘えるような声で問うてくる。
他人の体温を感じたのは久しぶりだった。
炎天下のなかそんなことをされても、不思議と不快ではない。
「好きなものってある?」
そう聞かれて、なぜか真っ先に青空が浮かんだ。
それを振り払って改めて考えても、思い浮かぶものがない。
嫌い嫌いばかりを並べたてて、俺はなにも好意的に受けとめようとしなかったんだということに、気付かされた。
「そこであたしが出てこないっていうのは、ナンパ的に0点。100点満点で」
「ナンパしたわけじゃない」
この期に及んでまだふざけるミケの頭を払いのけて咎める。
肩に乗せられていた頭はぴょこりと逃げると、俺に向き直ってまたにかりと笑った。
「じゃあ真面目にあたしはどう? 好きか、嫌いか二択で」
「極端だ」
「どっちかっていうとどっちよ。答えて?」
なんでもかんでも白か黒かに当てはめるのはどうかと思う。
感情だなんてものは特に。
「……難しい」
「ね。ここで好きって言ったらナンパ的に90点でも人としては微妙かな」
そう言って苦笑するミケの意図がよく分からない。
「なんでもかんでも二択で分けちゃえば、楽かもしれないけど難しいよね」
ひどく抽象的な表現だが、言わんとしていることはすぐに理解できた。
ミケはこう続ける。
「例えばさ。ミヤタ君にとってお母さんは好きと嫌いが混じってるじゃない。二択にできるけど、こうして混ざることもできるじゃない」
あのときの感情にようやく名前が付けられそうだった。
虚無よりももっとごちゃついていて、複雑ほど豊かじゃない。
混ざっていた、んだろう。
汚いけど綺麗で、好きだけど嫌いで、裏切っているけど騙したくなくて。
「それって、生きたいと死にたいも同じなんじゃないかな」
そう言われてはっとなった。
俺は無意識に、その二つの感情を対極に置いていた。
だけどもミケは、それを混ぜる事ができると言う。
「だったら生きたくなるまで死んでいればいいと思う」
「逆じゃないの」
「ううん、ミヤタ君にはこれでいいの」
俺は、もう死んでいるような顔をしているとさっきミケは言った。
つまり、生きたくなるまでそういう顔をしていたっていいと。
俺を、肯定して、認めてくれた。
死ぬ必要もないし、生きる必要もない。
普通の人であれば言われたら寂しいかもしれないその発言も、俺にとっては居場所を得たように感じられた。
いつのまにか日は高く昇っていて、蝉の鳴き声がけたたましく響く。
それでも俺の頭の中はいつもとは比べ物にならないくらい冷静だった。
「でも、なんか寂しいよね。まずはなにか一つ好きになろうよ。たとえばあたしとか」
「まだ言うの、それ」
さすがに呆れた。
足でばたばたと地面を蹴りながらけらけらと笑うミケは確実にふざけている。
ただ、いつまでも重々しい話をしているより、彼女が相手ならこっちのほうが気持ちいいかもしれない。
こんな、下らない話を楽しいと感じたのはいつぶりだろう。
自分の中で煩雑に絡まった糸が少しずつ解けていくような感覚が胸を走った。
「ミヤタ君が嫌いで嫌いでしょうがない空を好きになるヒントもあげようか」
いたずらっぽく笑って、ミケは俺の顔を覗きこむ。
嫌いだと言った覚えはない。
ただ見ていると死にたくなるような気分がふつふつと俺を覆い隠すだけだ。
「それは遠慮しとく。別に好きにならなくたっていいと思うし」
「違うの、あたしが嫌なの」
と言って駄々をこねるように俺の腕を揺さぶった。
どうして俺のことまでミケが口を出すんだ。
さっきは嬉しかったけれど、さすがにここまで介入されたくはない。
ミケはぴょんとベンチから立ち上がると、俺の目の前に立つ。
俺は太陽の光を背にした彼女の顔を見上げ、その眩しさに目を細めた。
「教えてあげるよ。あたしの名前」
そう言った彼女は、今までに見せた無垢な笑みとは掛け離れた妖艶さをちらつかせていた。
いたずらっぽい表情の中に、どこかじわりと滲むような。
ミケが発した『好き』という平易な単語によるものだろうか。
しかしそれを不快だとは感じなかった。
「名前? それがヒント?」
彼女の顔を見上げ続けていると日差しが眩しくて、仕方なくミケの首の根元、白く浮き出た鎖骨と視線を滑らせる。
「別に知らなくていい」
目線を徐々に降ろしながら冷たく言い放とうと、それを意に介さないやつだと分かっていた。
ミケは今度こそ子供のように、屈託なくくすりと笑う。
「じゃああたしはミケでいいよ」
「そのうち教えてくれたらいいよ。俺が空を好きになってからで」
そう言うと、彼女は嬉しそうにわあっ、と声をあげた。
「じゃあ、それまであたしと会ってくれるんだ?」
いつのまにか、俺はミケと話すことを心地良いと感じるようになっている。
ミケのほうは、何故俺に興味を抱いたのか分からない。
しかし、俺はミケに興味があった。
それだけは確かな事実だった。
他人にここまで興味を抱いたのは、初めてだ。
「それじゃあ、ミヤタ君の名前も聞かないでおくよ」
両手を腿につき、上半身をこちらに突きだしながら首を傾げて、まるで小さな子供に言い聞かせるような声でミケはそう言った。
それを俺は鼻で笑う。
「教えてあげるなんて言ってないけどね」
「ひっどーい、意地悪」
拗ねるように、わざとらしく頬を膨らますミケ。
こうして他愛の無い会話が弾むのが心地良い。
他の、例えば同級生だったら平然とやってのける事だろう。
だけども俺にとっては今まで逃げ続けていて、ちっともやろうともしなかったしできもしなかった事。
「なんか、今日のミヤタ君はよく笑うよね」
俺の顔を覗きこむようにしてきたミケの顔を見る。
慈しむような笑顔。
今まで見てきた誰の笑顔よりも優しくて、素直で、柔らかい。
その背中の向こうに広がった青い空は、死にたくなるほど『綺麗だ』と思った。
こんな感情を抱くのは、いったいいつぶりだろう。
「さあ? 楽しいんじゃないかな」
太陽の光にか、彼女の内側から滲み出る生きるエネルギーのようなものにかわからないが、眩しくて目を細めた。
俺は空を好きになるまで、彼女の名前を知るまで、きっと死にながらそれでも生き続けるんだろう、と思う。
2010.10.4 完結