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2.



 1945年8月、大日本帝国の降伏により終了した第二次世界大戦の直後からアメリカを盟主とする西側諸国とソ連を盟主とする東側諸国の対立は始まっていた。

 アメリカなどの西側諸国の一括占領だった日本とは違い東西両陣営に分割統治されたドイツではドイツ連邦共和国及びドイツ民主共和国にそれぞれ分裂し、東西それぞれの陣営に所属した。

 俗に言う東西ドイツである。


 そして地球の反対側でも東西冷戦の影響は大きかった。

 朝鮮半島では西側諸国が勝利し、大韓民国による全土統一が成し遂げられたが、中国大陸ではソ連の支援を受けた中華人民共和国とアメリカの支援を受けた中華民国との一進一退の攻防が続いていた。

 ここで注目するのはアメリカとソ連はそれぞれの国に支援はしても直接軍隊を派遣したりする事は無かった事である。

 もしここで双方が支援を強化したり軍隊を派遣するような事が有ればソ連とアメリカの直接戦争となっていただろう。


 更に少し離れたフランス領インドシナではベトナムの共産勢力が独立を目指し、第一次インドシナ戦争が起きた。

 この戦争は1954年にフランスが敗北したが、ここでアメリカはジュネーブ協定によって北緯17度で南北を分割し朝鮮半島と同様にアメリカの傀儡国を建国した。

 他にもラオスやカンボジアなどはアメリカの傀儡国としてそれぞれ1949年と1953年に独立している。


 この頃の1950年代のアメリカ本国では共産主義者の炙り出す事を口実とした活動、いわゆる赤狩り旋風が起きており、CIAなどのアメリカの情報機関は日本などの西側諸国に対しても赤狩りを行うように要請した。

 1951年に日本政府は情報保全管理法を成立させ、敗戦により解体された特別高等警察の流れを組む国家公安警察を設立した。

 1950年代は西側諸国の赤狩りなどにより日本では共産主義対策という名目の下、情報に関する法整備や情報機関の設立が相次いだ。

 1952年にはCIAなどのアメリカ情報機関の支援により日本国情報総局が設立し、1953年には通信傍受法、スパイ防止法、そして1954年には秘密情報保護法などの法律が設立した。


 この頃にはアメリカからの自主防衛能力の向上への圧力は非常に高まっており、日本政府及び防衛総省は6次に渡る国軍の増強計画を纏めた(史実では4次)。

 基本的に日本国軍は史実の自衛隊と同様に専守防衛を軸としていたが、史実では土壇場でキャンセルされる事になったアメリカから供与された護衛空母などを導入している。

 これは台湾などの防衛もあり守るべき海域が広大だった事が理由である。


 1950年に12万5000人の兵力でスタートした日本国軍の総兵力は年を追う事に増員・増強されていき、1960年には25万人、1970年には40万人を突破し、最も多い1976年には52万人にまで膨れ上がった。

 ちなみに1976年の総兵力52万人の内訳は陸軍38万、海軍8万、空軍6万であり、陸軍が圧倒的に多いのがよく分かる。

 これだけの組織には当然ながら莫大なお金が必要になるが、この世界の日本は余裕とまではいかないがそれなりの余力があった。

 理由は台湾が自国領だった為に経済規模が史実よりも大きかった事、そしてもう1つは特需である。

 史実では朝鮮戦争による特需により日本の経済は復活したが、この世界では更に中国国共内戦での特需もあった。

 尚且つ中国国共内戦は現在に至るまで度々行われており、その度に後方である日本に莫大な軍事物資の受注がある。

 その為、史実よりも高い経済力により莫大な国防費の支出に耐えれたのだ。

 史実の日本ならば無理とまで行かないがかなりキツイ出費だろう。


 1970年の軍事ランキングでは日本はアメリカ、ソ連、フランス、イギリス、中華人民共和国、中華民国に次ぐ7位にランクインしており、世界有数の軍事力を保持していた。

 7位というと高く無いようにも思えるが、この当時の各国は東西冷戦によりかなりの兵力を保有しており、アメリカやソ連は除いてフランスは50万、イギリスは40万、ドイツ連邦は60万と今とは比べ物にならない程の兵力を有していた。


 そして時は流れ1976年、遂に冷戦は熱戦へと姿を変えた。


 事の始まりはNATO加盟国のドイツ連邦共和国とCSTO加盟国のドイツ民主共和国の国境で起きた。

 今となっては事実かどうかは不明だが、突如国境地帯の東ドイツ側の国境検問所が爆破されたのである。

 すぐさま東ドイツは西ドイツによる攻撃として西ドイツに宣戦布告、他のCSTO加盟国も西ドイツに宣戦布告した。

 そしてNATO諸国も東ドイツやその他CSTO諸国に宣戦布告した。

 1976年10月14日、ここに第3次世界大戦が始まった。


 しかしこの時はあくまでもヨーロッパでの出来事、南樺太と北樺太とで国境を挟んでいるからと言えNATOに加盟していない日本とソ連は戦争状態にはなっておらず、日ソの国境検問所では双方の国境守備隊隊員が楽しく談笑していた。

 事が変わったのはNATOとCSTOが衝突して約1週間後の1976年10月20日の事だった。

 突如、北樺太に駐留していたソ連極東軍の部隊が日ソ国境を越えて南樺太へと進撃してきたのである。

 同時刻、ソ連は日本及び満洲共和国に対して宣戦布告、日本は世界大戦に巻き込まれる事となってしまった。


 南樺太に押し寄せたソ連軍は総勢1万人程度だが、4000名しか居ない南樺太の陸軍第18旅団には十分過ぎた。

 すぐさまに南樺太の最大都市である豊原には避難命令が発令され、第18旅団の多大な犠牲により豊原の住民40万人の避難は完了し、樺太全島はソ連の物となった。

 それと同じ頃、ソビエト空挺軍が千島列島の各島々を占領し、日本軍が守れたのは国後・択捉・歯舞・色丹の四島群のみだった。

 これは根室に大規模な陸軍の駐屯地、国後に空軍基地があった事が影響される。

 南樺太・北千島を占領し、オホーツク海を自国の支配下に置いたソ連は遂に北海道にもその矛先を向け始めた。


 当時の日本軍は創設の時から変わらずソ連を仮想敵としていた為、南樺太の第18旅団と千島列島の第17旅団を除き第2師団・第5師団・第7師団・第11師団の計4個師団が北海道に配置され、その総兵力は6万人弱にもなっていた。

 更にこの頃になると佐世保の第3艦隊と呉の第2艦隊が大湊の第6艦隊と合流し、オホーツク海に展開しているソ連太平洋艦隊と激しい戦闘を繰り広げていた。

 ちなみにこの頃、オアフ島真珠湾を母港とするアメリカ海軍第7艦隊の空母打撃群は舞鶴の第4艦隊と合同で日本海の制海権を確保していた。


 1976年11月17日、ソ連軍は辛うじてオホーツク海の一部の制海権を確保し、北海道に上陸作戦を実施し、道北に1個師団、約1万2000名の上陸に成功した。

 枝先や稚内に上陸したソ連軍は無人の市街地を占領し、2日後には紋別の手前まで来たが、そこで進撃は停止した。

 何故なら紋別、旭川、留萌の3都市を結ぶ防衛ラインを日本陸軍が敷いていたからである。

 それに気付かずに防衛ラインに侵入した一部のソ連軍部隊は第2師団と第7師団の特科部隊(砲兵隊)による一斉射撃を受け壊滅した。

 更に同時刻には日本国海軍とアメリカ海軍、そして網走に展開した陸軍の地対艦ミサイル連隊がソ連太平洋艦隊に対してミサイル攻撃を行いソ連太平洋艦隊は壊滅、道北に上陸した1個ソビエト海軍遠征師団は完全に補給を絶たれたのである。

 その頃、広島の第13師団が日米両艦隊の援護を受け樺太に上陸、数日のうちに全島を占領した。

 これは既に日本国空軍が制空権を取っており、連日連夜樺太やウラジオストクの軍事基地や敵部隊に攻撃を加え続けていた為である。

 ちなみにアメリカがここまで日本に協力していたのはサッサと北方地域での戦闘を終わらせて一進一退の攻防が続いている満洲の防衛に参加して欲しかったからである。


 12月10日、既に道北に上陸した1個師団に勝ち目は無くなった。

 制空権及び制海権を取られ、補給は無く、自分達の4倍の戦力が手ぐすねを引いて待ち構えている。

 この頃になると1万2000名いた部隊は死傷したり脱走(降伏)したりして半分以下の5000名にまで減っていた。

 その5000名も当初あった攻撃ヘリや戦車などの装備は燃料不足から動かずあちこちで放棄されていた。


 12月16日には稚内を奪還、18日には枝先を奪還し、遂に21日に名寄市に居たソビエト海軍遠征旅団司令官は降伏を決意、包囲した日本国軍に降伏した。

 その後、第5師団は海空軍の援護の元、千島列島北部の奪還に動き出し、12月28日に全島を奪還した。

 その頃にはカムチャッカ半島最大の都市であるペトラハバロフスクやソ連海軍の軍港があるウラジオストクの軍事施設は日米軍の連日の攻撃で廃虚と化しており両市長は独断で押し寄せてきた日米軍に降伏した。

 年が明けた1977年1月24日には内陸の都市ハバロフスクをアメリカ軍と満洲共和国軍それから日本国軍が占領し、極東での戦闘は幕を閉じた。


 1977年4月、極東では終わりを告げた戦争はヨーロッパではまだまだ継続中だ。

 戦場となったドイツやポーランドは完全に荒廃し、32年前に逆戻りしている。

 しかし、ドイツでは現在復興の真っ最中であった。

 既に前線はポーランドとソ連の国境近くまでNATOが押しており、CSTOは苦戦していた。

 更に満洲で戦っていたアメリカ軍の増援が欧州に駆け付けるとポーランドが21日に降伏、ソ連も26日にアメリカが突き付けた講和の席に着くことになった。


 1976年10月から始まった第3次世界大戦は1年と経たずに終わりを見せた。

 一時は核戦争の心配さえあったが米ソの核抑止により何とか核戦争だけは回避できた。

 しかし、戦場となった場所のインフラは壊滅し、特に国土全土が戦場となったドイツ、全国土が戦場になったポーランドは悲惨だった。


 講和交渉は約1ヶ月程度掛かったが、纏まった。

 ソ連はCSTOを解体し、軍事力でも30年間限定だが、大きな制限が加えられる事となった。

 東ドイツことドイツ民主共和国は解体され、ドイツ連邦共和国に編入された。

 更にこの講和交渉で日本は北樺太、ドイツは第一次及び第二次大戦で失った旧ドイツ東部領土を得る事となった。

 ただし、賠償金は第二次大戦からの無賠償の原則により無しであった。

 結果的にかなりの領土と海への玄関を失う事となったポーランドでは今回の敗戦の怒りの矛先はNATOでは無く、CSTOやそれに加盟した現共産党政権に向かった。

 ポーランド共産党は解散し、新生ポーランドはNATOに加盟し、アメリカと安全保障条約を締結し、国内にアメリカ軍を呼び寄せた。


 所変わって日本では政府が北方地域の復興やインフラ開発に1兆円の復興費用を拠出する事を発表、民間の犠牲者が少なかった事からヨーロッパよりも早い復興スピードとなった。

 新たに北樺太を領有したとは言え、約40万人が住んでいる南樺太とは違い北樺太の人口は戦争での避難により1万人にも満たなかった。

 その為、現地ポーランド住民とかなり揉めているドイツとは違い速やかな併合が行われた。

 この時1万人しか住民の居ない北樺太だったが、戦争で職を失ったウラジオストクなどの都市から樺太に移民してくる者が後を絶たず10年後には南北合わせて人口が80万人を突破するのは後の話。


 そんな日本だが、新たに北樺太を編入する上でこれまでの都道府県制度では各都道府県に差が出来過ぎる事を問題視していた。

 当時から既に経済成長による東京とその他、地方都市の差は顕著になっており、国会でも度々議論されてきた。

 そこで日本政府は都道府県を解体し、新たに台湾州・九州・中国四国州・関西州・東海州・北陸州・関東州・東北州・樺太州・東京特別市・大阪特別市の9州・2特別都市の構想を発表した。

 この案は大阪や東京などの大都市を除いた地方議員の支持を受け、国民投票が決定、1978年2月10日に国民投票が実施された。


 結果は賛成多数により可決、日本はこれまでの中央集権体制から地方分権体制へと舵を切ったのであった。





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