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怪奇教室  作者: 末比呂津
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5

「そんな所に突っ立ってないでアナタもいらっしゃいよ。一緒に入りましょう」


 とても人間の声とは思えないくらい、なんとも甘美で艶めかしさに満ち満ちた響きだった。

 和一は、思わず我を忘れて足が前に動きかけたが、僅かに残っていた理性のお陰で、なんとか踏み止まる事ができた。


「どうしたの? ほらオイデナサイよ」


 尚も誘惑し続けてくる女。だが彼はその誘惑を受け入れ切れなかった。全身が粟立つような、不気味な微笑が、彼女の相好にはりついていたからだ。

 十数秒間もの間、和一は誘惑に耐え抜いた。ようやく、ほんの少しだが足を後ろに動かすことができるようになり、このまま後退しつつ、扉を閉めて逃げ出そうかと考える。

 すると誘惑の言葉が止んだ。やがて徐々に浴槽深く、女の裸身が沈んでゆく。こちらに向けられた白い目、そして頭までが血溜まりに沈みきると、女の姿は完全に消え失せた。気配までも感じられなくなった。

 風呂の湯は依然、血に染まったままだったが、張り詰めた空気が一転して解き放たれた。外界の雑音がハッキリと聞き取れる。

 和一は安心感を覚え始めていた。金縛りからも解放されたようで身体が意のままに動かせる。

 怪異は過ぎ去ったのか。そう思い、すぐさまこの場から離れようとしたが――


「ホラ、はやくお入りなさい」


 移動したのか、いつの間にか女が背後に回り込んでいた。女は、和一の背中に擦り寄り、物凄い力で和一の肩を掴んで、前方の浴槽へと押し出す。


「ネ、独りぼっちは寂しいでしょ?」


 幽霊には常識というものが通用しないのか。常人からは考えられない凄まじい力に圧倒されて、抵抗しようとしてもびくともしない。浴槽まであと一歩という所、もはやここまでかと腹を括った和一だった、その時、肩を掴んでいた手が唐突にスッと離れた。


「やめておけ」


 と同時、聞き覚えのある声がした。


「ここの風呂は二人が入るには狭すぎる」


 振り返ると、ある人物が女と和一との間に割り込むようにして佇んでいた。そんな筈は無い。腑に落ちなくて、我が目を疑ったものの、彼女は――葉子は確かにそこに居た。

 一番驚かされたのは、和一でさえ圧倒されたのに、あの小柄な葉子が血まみれの女の手首を片手でなんなく掴んでいた事である。


「な、なによアンタ。邪魔しようっていうの!?」


 女の相好が、見る見る内に醜く歪み始める。

 葉子の手を振りほどき、二、三歩後ろに退いて、煙のように姿を消し去ってしまう。あとには和一と葉子がぽつねんと残された。


「あの……」

「どけ」


 何か言い出しかけた和一を押しのけ、葉子は素早く風呂場へと足を踏み入れる。そして何かを待ち受けるようにして身構えた。

 浴槽から何やら気配を感じ、見ると血の風呂から大きなあぶくが大量に浮かんで、女がヌッと姿を現した。


「おのれ! おのれ! よくも邪魔したわね。どうして邪魔するのよ。死んでもまだいじめるつもり? 私を独りにさせたいの?」


 忌々しそうに毒づき、眼を赤々と充血させる女。その眼には世界に対する様々な憎悪や嫌悪で溢れているような気がした。


「貴様の境遇なんぞ興味ない。ただ独りが嫌だと言うのなら、こんな場所からはさっさと消えたほうがお前の為だぞ」

「何をそんな……」


 言い終わらぬ内に、葉子は相手の脇腹目掛けて右手を一振りした。

 最初、何の動作だったのだろうかと訝った和一だったが、その掌中に握られているものを見て理解した。

 それは、色や大きさを見れば赤いトマトのようだが、先程までは女の脇腹の一部だった肉片だった。

 少し強く握ると、血液が大量に噴出し、葉子の白い手を真っ赤な色で染めた。女の脇腹に視線を向けると、葉子の右手が通過した箇所が、大きくえぐれていた。


「あ……ァ」


 えぐられた部分をまじまじと見つめる女。表情にそれまでとは異なる、はっきりとした変化が現れた。驚き、恐れ。焦り。

 しかし、それは和一とて同じ事であった。彼が葉子と出会って一ヶ月。常に超然としていて、浮世離れした雰囲気を纏っていた葉子。

 初対面時では、何か魔術的な力を使えるのではないかと思わせる印象を感じたが、まさか本当にこのような芸当が出来るとは。


「アァアアアアアアアアアアアアァァァァァ!」


 耳を聾さんばかりの物凄い絶叫が、女の口から飛び出した。


「黙れ」


 相変わらずの無表情で、しかし心持不快そうな調子で呟きながら、今度は左手を女の咽喉元目掛けて振った。

 すると左手は、アゴのすぐ下の首の肉を、脇腹よりもさらに深くえぐり取った。


「ガ……パッ……ペッ!」


 咽喉を持っていかれ、声が出せなくなる女。苦痛に表情を歪め、口からドロッと血を吐き出す。代わりにえぐられた部分からシューシューという音が聞こえてる。見ていて思わず顔をしかめる和一。

 それでも葉子は、どこまでも平然としていて、いつもと変わらぬ冷淡な無表情を貫き通す。


「次は腕をもらうぞ」


 言いながら、右手に持っていた肉塊を浴槽へ投げ入れると、女の左肘を掴んだ。まず始めに骨の砕ける音がした。次にありえない程、肘がひしゃげたかと思うと、皮、肉、血管の順に裂けた。

 葉子が強引に左腕をもぎ取ると、残された先端部から大量の血潮が迸った。

 女は苦痛に顔を歪め叫ぼうとしたが、声が出せず、代わりに血を吐き出した。

 葉子は女から捥ぎ取った腕を、浴槽の中に放り込んた。

 葉子の攻撃は仮借なかった。今度は右腕をもぎ取ったかと思うと、女の全身を次々と肉片に変えていった。葉子の指は、まるでスコップで土を掘るように、易々と肉をえぐり取る。

 そうして出来上がった肉塊を片っ端から浴槽へ放り投げていく。

 女は、なすすべなくやられるがままだった。襲われた和一でさえ、見ていて同情を禁じ得ないほど、葉子のやっている事は一方的で残酷だった。

 攻撃が一時的に休止すると女は、言葉にするにもはばかられるほど酸鼻を極める姿に変わり果てていた。


「貴様はこんな所に閉じ篭る事で、自分から孤独を選んでいるのに気付いていないんだ。さぞ苦しかろう。今、楽にしてやる」


 最後に葉子は、ダメ押しと言わんばかりに、右手で女の顔面を掴んだ。


「ッ!」


 次に何をするかを察知した和一は、咄嗟に目を覆ってしまう。

 瞬間、葉子はぐっと力を込めて右手を握った。

 指が女の顔面に食い込む。粘土のようにグチャグチャに形を変える顔。右の目玉が前方に飛びんできて、葉子は首を傾けて、それを避ける。

 和一が目を開くと、そこには鼻から上の部分を無くした女が、魂を抜かれた抜け殻のように湯船に浮かんでいた。

 もう動くことはなさそううだ。葉子に目を向けると、彼女は女の身体をジッと見ていた。そして両手にベッタリと付いている血糊を一舐めする。


「そろそろ頃合いか」


 そう言って葉子は、ふいに散らばった肉片を拾い始めた。拾い終えると浴槽の前まで来て、無造作に全て湯船の中へ放りこむ。

 しばらくしてから、鼻から上がない女の顔が水面にプカプカ浮かび上がってきた。


「さて……」


 一連の所作を終えた葉子が、和一の方に視線を向けた。その際、左手を口元に持っていき、甲にこびり付いた血糊を舌先でペロッと舐めた。


「丁度、もう一人分くらいは入れるスペースが出来た訳だが――どうする? 一緒に入ってやるか?」


 とんでもない事を言い出す。

 確かに最初、女は和一に独りぼっちが寂しいから一緒に入ってくれ、などという事を願った。だがそんな願い誰が承諾するのか。

 流石の和一も、そのような行動、考えただけでもゾッとする。葉子が真顔でそんな事を聞くから、和一は驚いて、どう返事をすればいいか迷ってしまった。

 戸惑った和一は思わず視線を逸らしてしまい、浴槽に浮いた鼻から上がない顔の方に視線が向いた。……その時、気のせいだろうか、女の口元がフッと笑みを浮かべたように見えた。それを見た瞬間、和一は慌てて首を横に振る。


「いや、やめとく」

「フン、そうか」


 葉子は踵を返して浴槽に向き直った。

 和一が怪訝そうに見守っていると、やにわに血の池に手を肘の部分まで突っ込み、何かを探るようにかき回しはじめた。

 水面に波が生じ、女の体や無数の肉塊が揺れる。やがて何かを探り当てたのかピタリと動きを止めた。腕を引き抜くと、その手の中には浴槽の栓が握られていた。

 忽ち血の浴槽全体に渦が広がった。

 渦の中心が眼のように黒々しく、水面に浮かぶあらゆるものを残らず吸い込んでいく。

 葉子が投げ入れた、それぞれ大きさの異なる肉片、両腕、そして最後に本体が、渦に飲み込まれていった。

 数秒後には浴槽に溜まっていた真っ赤な湯や肉塊は、跡形も無く消え去っていた。今や怪異の痕跡は何一つ残っていない。葉子の両手にべっとりとついた血糊以外は。

 彼女は手についたそれを、しきりに舐めていた。

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