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せめてあと数分まではなんとか留まってくれるよう懇願してみたものの、徒労に終わった。
二人が帰った後、和一はあまり信じられない出来事に、ただただ途方にくれるしかなかった。
よりによってこの土壇場でド忘れするとはなんと言う失態。まるでついさっきまで見ていた夢の内容を、目が覚めた途端に忘れてしまったかのような感覚だった。
しかも夢のように儚いものならともかく、脳裏に深く、鮮烈に焼き付いていた記憶だっただけに、ショックは一層大きかった。
話を聞いた当初、和一は、毎日のように見たこともない現場を思い描いたものだった。現在は黒い靄のようなものが映像に重なり、未知の空間に変わり果てていた。
やがて姉と母も帰宅した。
夕食もろくろく食べず、母が怪訝そうに訳を尋ねても素っ気無い返事をするばかりで、自分の部屋に引き篭もってしまった。その際、OLが死んだ場所を、母に訊こうかどうか考えたが、結局やめにした。
母はその話をひどく嫌っていたので、怒られるだけだと思ったからである。
ベッドに仰向けになり、蛍光灯のヒモをしげしげと眺める。
そのままの姿勢でボーっとすること数分。
夢を見ているような感覚だった。どこか渺茫たる荒野に佇んでいるような、現実味の損なわれた状態。意識も朦朧として、それでいて眠気は無い。夢現というのが一番適切な表現だと思う。
部屋がやけに薄暗く見える。外の雑音も切れ切れにしか聞こえなくなり、妙に生温い空気が、和一を囲繞していた。目を閉じると、天井の明かりが瞼越しに差し込んで、一瞬視界が真っ赤に染まる。
「赤……赤……血、あれ?」
ぱっと目を見開き、上半身を起こす和一。今、血という単語を口にした瞬間、黒い靄の中から何か一筋の光のようなものが閃いたような気がした。
「血……そうだ血だ!」
今、明らかに何か思い出したようだった。
和一が赤から連想するのは血。やはり死因は血に関連しているのか。包丁か何かで自身の腹を突き刺したとか。壁紙、床板、畳が新しく張り替えられていたのも、飛び散った血の痕跡を隠す為ったのか。
その時、ドアの扉をノックする音がした。返事をすると、姉だった。「いま風呂からあがったから、次、お前が入れ」との用件だった。
あともう一息で思い出せそうなタイミングで……。和一は引き続き思考を巡らせながら、風呂に入る準備をする。
なんとしても、今日中には思い出して、明日再び二人に来てもらう事にしよう。あの二人の存在は、今や和一にとって欠かせないものになり始めていた。
以前までの彼なら、他人には全く無関心で、必要最低限の交流しかなかった。だが彼女達は特別だ。
もはや食事や睡眠と同様に、二人に会うのが日常の一部と化していた。二人が帰った時、激しい寂寥感が胸に押し寄せてきた。何としてもあの日常を取り戻さなければ。そう自分に言い聞かせた。
「あれ?」
脱衣所にて、和一は服を脱ぎかけて止めた。磨り硝子の扉の向こう。風呂場から、何かチャプチャプといった水のはねる音が聞こえてきた。
見ると風呂場の明かりが点いており、誰か人の気配がする。初めは母が、姉と入れ違いに入ったのかなと思ったが、ここに来る途中、台所で洗い物をしている母を確かに見かけた。
当然、姉でもない。ここにはあの二人以外には和一しか住んでいない。ではこの水音は誰が発しているのか。
和一は恐怖心に駆られながらも、音のする方から目が離せなかった。それも熱烈な好奇心の宿った眼で、そこを凝視する。
この音、前にもどこかで聞いたような……。
そう思った瞬間、心臓がドクンと跳ね上がった。
俄然、忘れていた記憶が蘇る。聞き覚えがあるワケではなかった。頭の中だけで、ずっとイメージしていた音なのだから。
ようやく思い出した。女性が自殺した場所は風呂場だったのだ。剃刀で手首を切り、水に傷口をつけることで失血死したのだ。
ただ、この女性の場合は少し状況が異なっていた。
和一は、物凄い勢いで戻ってくる記憶に、戸惑っていた。頭が激しく混乱して、ほとんど冷静ではいられなくなった。危険とわかっていても、足が独りでに風呂場の扉へと動いていく。
自殺の原因は職場のいじめだけではなかった。
彼女はリストカットの常習者だった。普段からカッターナイフを持ち歩き、家の中で所かまわず自分の手首を傷付けた。その為、女性の死体が発見された当時、部屋の至る所に、古いものや真新しいものを含め、おびただしい量のドス黒い血痕が飛び散っており地獄絵図さながらに、凄惨な模様を作り出していたという。そして風呂場では、両腕に無数の傷を付けた女性の遺体が、浴槽に横たわっていた。
扉を開けると、和一は、目を皿のようにして立ち尽くした。
今、彼の眼前に映る光景は、彼が今までイメージしてきた事件当時の状況と、完全に合致していた。気の遠くなるような赤色に染まった浴槽。そこに自殺した筈のOLが裸で浸かっていた。
血、血、血、血、血、血、血、血、血、血、血、血、血、血、血、血、血、血、血、血、血、血、血、血、血。
真っ赤な液体が、浴槽で波打っていた。大きな波が出来る度に、彼女の白い肩を血が覆いつくし、黒い髪を一層黒く見せる。
女は、ゾッと寒気のするような、生気の抜けた陰鬱な顔で俯いている。
本当に死んだような表情を見せている。
両腕にある、何本もの長さの異なる赤い線から、真っ赤な血が痛々しく噴き出していた。にもかかわらず、血まみれの両腕を楽しそうに弄んでいる。
腕だけでなく、身体全体が生きている人間のそれに全然劣らない動きを示している。
夢を見ているのかと錯覚する程、信じがたい光景だ。認識の範疇を遥かに超えている。
だが従前に見た夢と比べると、五感のどれ一つとして異常は感じられない。すなわちこれは現実なのだ。
幼少の頃より待望していた怪異が、今、和一の眼前に現れた。ところがいざ実際に出くわしてみると、どう対応したら良いのか皆目わからなかった。
訳のわからない危機感が胸に押し寄せてくる。恐怖故か、または好奇心故か、全身がガクガクと震えだす。
向こう側との距離は2メートルも隔たっていないにもかかわらず、女はこちらの存在に気付いていない様子。踵を返して一刻も早くここから離れたいが、金縛りにあったようにその場から動くことが出来ない。
その時、にわかに女の目がこちらを向いた。二人の視線がぶつかった。
彼女の、何とも筆舌に尽くしがたい虚ろな目。その奥底には人間の様々な狂気が渦巻いているようで、恐ろしく気味が悪い。
目が合った瞬間、息苦しい空気が咽喉を塞いだ。叫ぼうと試みても、呼吸することすら叶わない。
「ねえ」
突然、女が口を利いた。