回顧 序『幻』 第九人格:はとむぎ
空間は生成色。少女を何かから守るように四方に固められた壁は、少女から何かを守るように張られた檻のようにも見える。
引き戸が横に開かれる音を聞き、少女は振り返る。そこに立つ女性の気配に期待と不安が入り交じったように口許を歪める少女を見ると、女性は楽しそうに笑みを浮かべた。
「持って来てくれた?」
「はい。それとたぶん、会えたと思います」
細い腕の先に、コピー用紙の束。少女はそれを受け取って、ゆっくりと文字を指でなぞる。会えたというのが何を示すのかは明言しなかったが、少女がそれを問い直すこともなかった。
「すごいね。こんなに早く辿り着くとは思わなかった」
見舞いに来た女性へ顔を向けたまま、少女は文字をなぞり続けた。壁を埋め尽くすように、なぞり終えたばかりの文字が次々とそこへ移る。写った文字は透明なプロジェクターに映る写真のように形を変えて、映像になる。生成色の壁は少女の、観測者の脳内だった。
「彼は動揺してるかな」
「どうでしょう。自分の書く小説そのものに困惑している様子もありましたけど、彼は良くも悪くも受動的ですから。なんとかなるでしょう」
観測者はそこにある文字を読み、受け入れることはできるが、そこに干渉することはできない。温田というこの女性は、観測者である少女へこうして物語を届ける、言わば世界の運び屋だった。
初めて少女に物語を運んだ時、視線を固定したまま文字に指を這わせる彼女の仕草には首を傾げた。視えるが、見えない。それが少女の答えだった。読めるが、書けない。干渉できない代わりに、干渉もされない。観測者は放浪者になることはできない。では、彼らはなぜ――その問いは、およそ少女らしくない微笑みで封じられてしまった。
その日に温田が運んできた物語を読み終えると、少女は椅子のように立ち上げたベッドの上部へ背を預け、小さく息を吐いた。そしてただ一言「そうなのね」と呟いたが、それは物語に対する感想と言えるものではなかった。少女は物語の結末を知らないはずなのに、まるでゴールは先に存在していて、そこへ向かう過程を読み返すようにいつも文字をなぞった。
「この場所は、何番目の世界に在るんですか?」
「八番目の世界……今はね。でも、彼があの登場人物に会いに行った世界を九番目とするなら、ここは十番目かもしれない。此処は常に世界の表面にある場所。観測者が物語をなぞるための場所だから」
少女がそう言って寂しげに目を伏せるのを見てから、温田は部屋を見回した。生成色の壁とタイルに囲まれた病院の一室。包帯を巻かれた目は、この部屋に存在する物を見ることはできない。少女が視ることができるのは、非現実の中の現実だけだ。
「あれ、どうしたんですか。窓際に……」
四日前に来た時にはなかったハンガーの先に、黄色い熊のぬいぐるみが吊るされている。水浸しになったくまのプーさんからぽたぽたと滴る雫は、その下へ置いてある浅いプラスチック製の桶に溜まっていた。
「お母さんがね、買ってきてくれたんだけど。今朝、苺のジャムを落としちゃって」
それで、昼に見舞いに来ていた母親が洗濯をして干していった、と。恥ずかしそうに俯く少女の姿は、先程まであの激しい渾沌の物語を静かになぞっていたのと同じ人物だとは思えなかった。
「この物語も、もうすぐ終わるわけね」
少女は一つ息を吐いてからそっと文字を撫でた。視るためになぞるのではなく、愛を持って、撫でた。
「不思議よね。物語の世界は確かにそこに広がっていて、登場人物にとってはそれが確かな現実であり現在なのに、それを外から視て過去とする人間が居るんだもの。そして、それには決められた結末が存在している。私はさっき、観測者は常に世界の表面に居ると言ったけど、もしかしたらこれだって作られた物語かもしれない。本当の観測者はもっと外側に居るのかも」
文字を撫でた手を包帯へ移すと、そこにあったはずの球体へ思い馳せるように掌で覆う。
「観測者として最も歯痒いのは、その世界に干渉できないことね。書き手に思いを伝えることができても、既に完成されている物語を変えることはできないもの。それは修正や変化ではなくて、創造の域になってしまうから。どんなに好きな登場人物が死んでしまっても、どんなに結ばれて欲しい二人が居ても、観測者はそれを変えることはできない」
静かな口調ではあったけれど、その熱量はこれまで温田が運んできたどんな物語に対するそれよりも明確だった。
「珍しいですね、そんなに饒舌になるのは」
温田はこれまで、編集者という姿をもって様々な小説を少女の元へ運んできた。SF、ミステリー、ホラー、ファンタジー、ラブストーリー、青春、歴史、あらゆる物語を分け隔てなく運んだ。文字を視ることのできる少女は物語を人一倍喜び、怒り、哀れみ、楽しんだ。それでも最後は、静かに手を離し、何かを諦めるように息を吐くのだ。それが今は、物語の終わりを惜しむどころか、あまつさえ歯痒いと口にするほど。
「そうね。どうしてかしら。これまでは物語の有り様をただ受け入れるだけだったのに」
少女は不思議そうに首を傾げると、ベッドの背を平行にして仰向けに寝転んだ。
「今日はもう帰ります。ゆっくり休んでください」
持ってきた小説を茶封筒へしまうと、温田は病室の外へ足を向けた。少女からの返事は無い。いつもの事だ。扉へ手を掛けたその時、ねぇ、という呼びかけに驚いて肩を跳ね上げさせる。
「今回は珍しいことばかり起きますね。どうしたんですか?」
「これは、いったい何章の物語なの?」
少女の声は明らかに震えていて、温田は深い溜息を吐いた。カツカツと高い音を鳴らし踵で床を叩き、少女の枕元へ戻る。
「小説の中で、二章から九章は読み込めなくなってしまった、と書かれていましたね。それは本当に書かれていたんでしょうか。そもそも、読めない物語はそこに存在していると言えますか?」
少女の体のわきへ腰を下ろし、熱田は捲し立てた。包帯の下にある黒い空洞が、彼女をじっと見つめている。これは問いではないということを、少女は理解していた。
「存在していない過去を存在していたことにする方法。それは、」
回顧すること。その言葉は音ではなく直接脳に届いてくる。脳へ届くということは視るということ。視るということはこれは全て文字であるということ。少女は脳に流れ込んでくる文字の質量にもがき、髪を掻きむしった。痛みに叫び声を上げるけれど、それは音になることなく、文字となって少女の脳へ帰って行く。
「あのままこの部屋を退室して章が終わったらどうしようかと思いましたよ。核心はついているのに、いつまでもそれに気がつかないんですから。あなたの力は、本来意識的に文字をなぞることをしなくても文字を読んでしまうはずなのに、……余程のことがあったんでしょうね」
熱田の台詞は現在の少女には届かなかった。何故なら、少女は過去の文字を視ているから。
少女は過去を知っている。空白であるはずの二章から九章、その存在を知っている。何故なら、この物語の少女の役割は“観測者”だから。
物語は先へ進むものであり、過去へ戻るものではない。過去は後で創られるものである。それでは、その過去はいつ創られるのか。未来に存在している過去はいつから記憶になるのか。
『私は、去年の出来事を思い出していた。』
ビデオテープを巻き戻して止めた時のように、乱れていた映像が、再び動き出した。
〇
私は、去年の出来事を思い出していた。
いつもお見舞いに来てくれる温田さんは美人で優しくて、私の憧れのお姉さんだった。持ってきてくれる小説はジャンルや作者が偏ることもなくて、病室で過ごすしかできない私をいろいろな時間や場所へ行かせてくれた。
「今日はね、掲載される前の本を持ってきたの」
温田さんが、どうしてそんなことをしたのかは分からない。白いコピー用紙の束に書かれた物語は小説と呼ぶにはページ数が少なくて、だけどその内容はこれまで読んだどんな物語よりも複雑だった。
「全部で十三章になる予定だったんだけど、既に序章が三つ。そもそも、掲載される前にかなりの手直しが必要な作品なんだけど、どうしてもあなたに見せたくて」
そう言うと、温田さんは次の打合せ場所へ行ってしまった。テーブルに残されたそれを一枚めくって、文字を目でなぞった。途端、視界が暗転し、頭に小さなボールみたいな物が何度も何度もぶつかってくるような衝撃が襲ってきた。
いったい、何が起きているの。そう考え始めた瞬間、文字が頭に入りたがっているのだということを理解した。だけど、闇の中では文字がどこにあるのか分からない。手元にある紙の質感を確かめるようにその形に指を這わせ、さっき文字が書いてあった箇所を思い出して、なぞる。それが、文字を頭の中へ入れてあげる鍵だった。
見えないけれど、視える。これまでどんなに想像してもし足りなかった世界が、頭の中に広がり、視えるようになった。その代わりに、私は二つの眼球を失った。
次に目が覚めると、目の周りに包帯が巻かれていた。私は、目に傷を負った可哀そうな女の子になっていた。そもそも中身が空洞だということには誰も触れなかった。そして、私は文字を視ることができるようになっていた。
「それじゃあ、お母さん仕事に行くから。何かあったらいつでも電話してくるのよ」
仕事で忙しい母が、私が寂しくないようにと与えてくれたくまのぬいぐるみ。ベッドサイドの棚に置いていたそれを私の腕へ抱かせると、母は病室を出て行った。
ほんのさっきまでは景色を見ることができたから、ひとりになると病室を出て探検をすることができたけど、文字以外が見えなくなってしまった今ではそれもできない。温田さんが小説を持ってきてくれるのを待つことしかできないけど、いろいろなことが変わってしまったこの世界に、温田さんは居るのだろうか。
そんなことを考えながらぬいぐるみの手足を動かして暇を持て余していると、不意に扉をノックする音が聞こえた。
「はい」
温田さんだろうか。そう思って返事をした声は、少し裏返ってしまって恥ずかしい。
「これまた、……ふっつーの部屋だねぇ。ま、仕方ないか」
扉が開く音の後に聞こえたのは知らない男の人の声。親しみがあると言えばそうだけど、あまりに距離感の近すぎるそれは逆にあやしかった。
「お兄さんはだれ?」
近づいてくる足音は軽くて、スキップでもしているんじゃないかと思うほど。
「お兄さんかぁ。今はお兄さんだけど、んー……いいや。呼び方なんて些末なことだし。誰って言われると難しいんだよ。君にとって一番近い存在で遠い存在。執筆者、ってところなんだけど。ま、お兄さんでいいよ。親しみを込めてお兄ちゃんって呼んでくれてもいいけど」
ぎし、とスプリングを鳴らしてベッドの脇へ腰かけると、彼は私の腕からぬいぐるみを取り上げた。
「君は選ばれた読者なんだ。すっごく優秀。誰よりも物語を愛しているのに、誰にも干渉しようとしない。ただあるがままを受け入れて、それを無理に変えようとすることもない。どんなに辛いだろうねぇ」
声の抑揚が大げさなうえ、ジェスチャーでもしているのか、言葉を区切るたびにベッドが揺れる。まるで何かの演説をするように語られるそれは、まるで脈絡が分からない。
「お兄さんは、私にお礼を言いに来たの? それとも、遠回しにつまらない読者だって言いに来たの?」
「ブッブー。どっちも外れ。僕は君に協力を頼みに来たんだよ」
私の頬をやわらかく抓った彼の指は驚くほど冷たくて、固くて、まるで作り物のようだった。
「君を僕の世界の登場人物にしてあげる。というか、もうなってるんだけど。そもそも、君が生まれたのは……ま、それはいっか。とにかくさ、僕には君のそのなぞる能力が必要なんだよ」
頬に触れていた手が私の右手に移り、甲から指先までの輪郭をたどって行くように動いた。冷たくて固いそれは、ひとつの生き物のように思えて気持ちが悪い。
「私の、語覚?」
今朝、正確には意識を失う直前に手に入れたあの不思議な力のことだろうか。触れられていない左手の方に力を込める。
「そう。君は文字を視ることができるけど、文字以外を視ることはできない。つまり、君に視えるものは全て文字なわけだ」
こんな風に、と、彼は私の右手を持ち上げた。滑らかな紙の質感に触れたと思った直後、頭に文字が流れ込んできた。文字はやがて写真となり、映像になる。
「僕はね、この先の展開で、それが言葉なのか台詞なのか、生まれたものなのか創られたものなのかを見極めないといけなくなるんだ。そうしないと、世界をめちゃくちゃにされてしまうから」
その言葉は少し落ち着いた声音で、ゆっくりと地面を踏みしめ歩くように伝えられた。
「私が作品をめちゃくちゃにしてしまうってことはないの?」
心に広がる不安と迷い、小説に入り込めるかもしれないという期待と喜びが交錯して、すっかり声が震えてしまっていた。声だけじゃない。きっと手も震えていたんだろう。それを落ち着かせるように、彼の手が重なった。
「君が居ないと、作品は完結しない。読者の居ない物語はただの空想で、小説になり得ないのだから。さぁ、おいで」
ベッドから起こされ、生成色のタイルに足をつける。色が視えるということは、これは文字ということだ。
〇
かくして、楽心が王を手に入れる遥か前に、主は眼を手に入れていた。
回顧の物語がどのように紡がれるのかは誰にも分からない。なぜなら、過去はまだ完成していないのだから。
みんなこの小説のこと理解できてないって言ってたから、思いっきり書きました(実はみんな理解しまくりで一人だけ全然違うこと書いてたらどうしよう)。
えっと、内容についてはよーくんの投稿前にざっくりと書きたいと考えていたことなんですが、それが少女になったのは大体お題のせいです。逆に、お題のおかげでぼんやりが形になったと言っても良い。ありがとう
しかしまぁ、維持も進行もしないままぶん投げるので、「おいおいここでそりゃ無いぜ」って感じだとは思いますが、あとの四人(あるいは八人)がなんとかしてくれるでしょう(ぽーいっ)。
ここで長々と言い訳するのもアレなので、あとはトピックにでも書き捨てようと思います。
よーくんがお題の流れを復活させてくれたので(お題大好きマンなので)、p-man さんへお題を。
『カウントダウン』
では、あとは観測者として楽しみます。