序章陰『優』 第三人格:みや
瞼を閉じ、舌上を転がる7.4gの球体を味わう。羽根で擽られたような痒みが広がり、鼻腔までピリピリと痺れる。筋肉と脂肪はある程度取り除いたが、血液や油の滑りが醸し出す舌触りは堪らなく心地よい。塩気が口内に充満する。
慣れ親しんだ母の肉じゃがよりも、汗水垂らして作ってくれた父のハンバーグよりも、クックパッドで人気を得たレシピに余計なアレンジを加えた姉の練習用ビーフシチューよりも、クリスマスに恋人が奮発した牛フィレ肉のポワレにフォアグラを添えて(ロッシーニ風)よりも、優は自らが狩りで仕入れた獲物を生で食べることが好きだった。特に眼球は、形、食感、香り、味の全てが素晴らしい。口に含んだ瞬間、全身をエクスタシーが駆け巡る。
最近は、その快感の果てに更なる世界が広がるようになった。
「月と…海…。二人…?そう、同じ顔…。あなたはどっち…?」
外界からの音と光は全て遮断され、選ばれた者しか入ることの許されない<薔薇色の部屋>。床には赤黒い血潮が一面の花畑を広げ、華麗に舞った血飛沫の滴が花弁の一片一片として天井と壁を彩る。
この部屋で優が新たな楽園へ飛ぶようになったのは、数か月前に北海道での狩りに失敗してからだった。
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物心が付く頃には人体の神秘と甘美に心を捉えられ、素知らぬ顔で同級生をジャングルジムから突き落とし、わざと彫刻刀で指を突き刺した。身の周りで起こる事故の多さは不審を招き、思春期には自分の残忍性が恐ろしくなることもあったが、大学に入って初めて付き合った恋人を不可抗力で殺してしまい(説明は省略)、その身を仕方なく頬張り(想像にお任せする)、背徳的な喜びに二度と抗えなくなってしまった。
その日から優の狩りは始まった。同じ場所で続けていると、様々なリスクが生じる。休みの度に地方へ行き、活きの良い獲物を手に入れるのだ。その場で済ますか、東京までテイクアウトするかは、相手の出方次第。可能であるならば、全ての道具が揃って調理も処理も簡単にできる<薔薇色の部屋>へお持ち帰りしたい。
秋の初めにもかかわらず、北の大地の寒さは容赦がなかった。
そこで見つけた一人の青年。大きな青いバックパックを背負っているから、恐らく旅行者だろう。観光名所から離れた田舎道をのんびりと歩いているのは、俗に言う「自分探しの旅」を気取っているのかもしれない。自分の体を認識できないというのなら、徹底的に教えてあげるのに。骨の髄まで。
程よい緊張感と抑えられない空腹感に痺れを切らした時、振り返った青年の凡庸だが愛嬌のある瞳に、優は全身を悶えさせた。間違いない。自分が求めてきた最高の食材は、これだ。
タイミングを見計らい、青年の背を追い続けた。次第に雪がちらつき始め、日は翳り、周囲に誰も居なくなる。今こそ声を掛けようと足を速めた瞬間、優と相反するように青年の動きが鈍った。ビクッと体を強張らせ、気持ちの悪い至福の微笑みを静かに浮かべた青年は、一台のトラックと共に凄まじいスピードで過ぎ去っていった。
彼の姿は跡形もなく、ほんのりと積もり始めた白雪の上に、馴染みの真紅がゆったりと染み込んでいく。促されるように道標を辿っていった先には大量の本とノートが散らばり、その中心に、一瞬前まで人であった物があった。
思わず舌打ちが出る。狩りの楽しみは食べるだけではない。食材の選定や調理の過程が楽しいのに。無機質な巨体が優の秘かな楽しみを乱暴に奪っていったのだ。
運命を感じた青年の、見るも無残な美しい残骸。なぜだろう。今まで見てきた物とは、全く違う。心臓の鼓動は速まり、全身が熱くなる。視線を反らせない。淡い光に照らされたように輝いて見えるのは錯覚だろうか。
溢れ出る生唾を呑みこみ、先程まで彼の体内にあった様々な臓物を恭しく撫で、一つ一つ口に含んでいく。丹田が疼き、仙骨が浮遊する。脊椎を痺れが駆け上がり、胸へ、鎖骨へ、鼻へ、耳へ、脳へと伝播していく。尾骨へと下った痙攣は筋肉を這いずりながら大腿骨を圧迫し、踵へと強烈な勢いで急降下する。
全身へ巡り巡った艶麗な快感に、肉体は雲散し、空気との境界線が掻き消えた。温もりに包まれ、温もりに入り込む。優の体は実体を失う。視覚でも聴覚でも捉えられない、新しい感覚器官にしか認識されない存在。辿り着いた絶頂の先には、未知の領域が広がっていた。
耽美な恍惚に浸りながら、凄まじい白の闇に覆われ、優は意識を失った。
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病院で目を覚ましたのは3日後。体には怪我一つ無く、意識を失っていた原因は不明だと言われた。しかし、何よりも優を戸惑わせたのは、共に倒れていた青年は先に目を覚まし、元気に東京へ帰っていったという知らせだった。
あの青年は紛れもなく、目の前でぐちゃぐちゃに千切れていた、生きているはずなんてないのに。
やはり彼は特異の存在。神の遣い。唯一の運命の男。最高級の食材。
優の脳裏から青年の姿は消えることなく、彼が導いてくれた夢幻の世界を求め、ただひたすら彼との再会を願うようになった。彼を探して東京中を駆け巡る。似た姿の男を見つけたら、後先も考えずに狩る。狩る。狩りまくる。そして、その度に世界は広がっていった。
目は視覚を、耳は聴覚を、唇と舌は味覚を、鼻は嗅覚を、指は触覚を、呼び起こす。
間違いなく、あの青年だ。彼が経験する、いや、彼が生みだす感覚器官と共鳴しているのだ。彼は何かを築き上げようとしている。それが完成すれば、もっと明確に、この快楽へと飛び込めるはずだ。
もっと知りたい。もっと味わいたい。もっと感じたい。あの男でないと駄目なのだ。代替では得られない。空腹が止まらない。喉の渇きが止まらない。会いたい。会いたい。会いたい。脅迫してでも完成させてみせる。
執着的な呪いは優の日常を侵食し、どんなに取り繕おうとしても、職場で煙たがられる存在になっていった。ただ一人、“慧くん”を除いて。それまでは後輩の一人に過ぎなかった慧くんと、不思議な程にシンクロするようになった。
今日も慧くんは自分の黄色い萌え袖をじっと見つめ、愛おしげに撫でている。ちなみに“慧”は本名ではない。優が決めた『萌え袖が似合う男性アイドルランキング第1位』の男の子の名前から名付けたものだ。
萌え袖に隠れた尺骨茎状突起を想像すると、口内に生唾が広がる。解体して実物を見るまで、あそこには球体型の骨が入っていると思っていた。実際は尺骨の先が突起状に盛り上がっているだけで、初めて見た時には幻滅したが、そこをチューチュー吸う楽しさを今なら知っている。
「その伏線はあからさま過ぎない?」
「やっぱりそう思いますか?僕も、ここまで直接的に表現しなくても良いとは思うんですけど。でも後半の盛り上がりを考えると、どうしてもここで旧講堂の幽霊話は強調しておきたいんです」
あの体験をして以来、優は新しい感覚器官を得た。小説世界を認識する能力だ。
調理で使う電動鋸や鉄槌は勿論、慧くんの萌え袖からも小説を味わうことができる。彼は温かい日常系ミステリがお好みのようだ。犯人が判明した暁には、慧くんの小説を読ませていただきたい。
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カウントダウンに馬鹿騒ぎしていた大学生を薔薇色の部屋へ持ち帰り、花弁で更に紅く彩りながら、手際よく調理していく。彼の鞄には新刊本が5冊も入っていた。あの青年や慧くんと同様に読書家なのだろう。これは期待できる。
日を重ねるにつれて、感覚が鋭敏になっているのが分かる。あの青年の生み出そうとしているものが、形になっているのではないか。彼が作っている何か、恐らく小説は、きっと完成に近づいている。
一歩でも先へ新たな世界に足を踏み入れたくて、口に右足の小説を読む。会いたい。知りたい。読みたい。何としてでも食べ尽くしたい。呪いの如く願いながら、固い骨を包む柔らかな肉を丹念に味わう。踝が震えだした。甘みと苦みが口の中に広がっていく。
その刹那、朧げに霞がかっていた景色が、青年の景色と完全に交わった。目の前に居る。優の体内に彼が居る。彼の体内に優が居る。新たな世界に、優たちは居る。やっと辿り着いた。
「しばアらく。完成おめでとう。待っていたわよ、このときを……アッハッハッハッハッ」
こちらの世界でも、光の絶命と同時に二つの世界が溶け合った。感覚は共鳴し、肉体は霧散し、感情は呼応し合う。
唯一無二であるはずの真実は、無数の物語を生み、無数に増殖していく。共存し得ない複数の物語が、真実を埋没させ、網目となって遮蔽し、あなたを惑わせる。
どれが真実なのか、全てが真実なのか、そもそも真実は存在するのか。
真実を主張する物語は後を絶たず、真実を探る旅人も一向に尽きない。今この瞬間にも、新たな物語が創造されているだろう。真実へと迫る者も、程なく現れるに違いない。この物語は一旦幕を閉じ、共に先を見届けよう――。
山姥切長義と山姥切国広、本当に山姥を斬ったのはどちらなのだろう。
そんな刀剣愛から思い浮かびました。
小説を読んでいる時、痛みや味、寒暑や息苦しさなど感覚的な部分に共鳴することが多いです。
肉体的なシンパシーの興奮を書きたかったはずなのに、こんな話になりました。
医学の知識は微塵も無いので様々な誤りがあるかと思いますが、スプラッターはファンタジー!
どうか温かい目で見逃してください。
年齢制限がR15になったら、きっと私のせいです。
ごめんなさい。
前走者二人からの光彩と愛に優しさを添えて、バトンを渡します。