序章裏『愛』 第二人格:まつ
愛は取り憑かれたようにパソコンのキーボードを打つ。呼吸をする時間さえも煩わしく感じられた。打鍵音と荒々しい息づかいが薄暗い部屋に響く。部屋の隅ではトム(人体模型)とサチ子(球体間接人形)がひっそりとその様子を見守っている。ピンクの壁紙で囲われた空間に、世界中から集めた不気味なオブジェを散乱させた闇鍋じみたこの部屋を、人は畏怖の念を込めて〈桃色の部屋〉と呼ぶ。もっとも部屋の主である愛に言わせれば「ワクワクとカワイイがつまった部屋」だそうだが……。
「はぁっ、これでもダメ……存在は分かってるんだから繋がらないことはないと思うんだけど……、他にもなにか必要な要素があるのかな。……あーもう無理だわ。無理無理無理ムッリー、ふっざけんな!」
愛は悲鳴とも泣き声ともつかぬ声をあげながら、リクライニングチェアに倒れかかかる。時計を見れば今日の作業を初めてから、かれこれ十時間が経過していた。
どうりで身体中が痛いわけだ。このまま椅子に溶けてしまいたい。安楽椅子よ。私にも彼の探偵達のような知恵を!いや、今の私に足りないのは知恵ではなく狂気だろうか。とにかく。あと少し、ほんの些細なきっかけさえあれば見つけられる気がするのだ。【小説世界に行くための方法】が。
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きっかけは数ヵ月前。光という青年が文学サロンに持ってきた小説だった。旅行中に交通事故にあったという彼を心配し、代わる代わる声をかけるサロンのメンバーに対して、光は事故の事などどうでもいいという風に、周りにいるメンバーに紙の束を押し付けるように渡していった。
「面白い小説が出来ました。今までこの世になかった小説です」
口の端を吊り上げ、以前とはどこか違う笑い方をした彼の爛々と輝くその瞳は、ここではないどこか遠くを映しているようだった。
○
あそこまで言われればどうしたって気になるというもの。愛は自室ーー桃色の部屋に戻るとすぐに光の小説を読み始めた。
その小説は一人の青年の人生を描いたものだった。小難しいようでどこか愛嬌がある独特の文体で書かれた物語は、青年が黒髪の乙女と恋に落ちるところから始まり、彼女の存在と自分の存在の境界を連続した一つの写実的芸術と置き換えた光景をスピノーダル分解により再構成した抑制を結果の海で溶かしてしまった明日の月への機会を垂らして
ーーああ、私の魂が形を変えていく。
裏返しのそれとあれが言語としての確率存在を交差しパラダイムシフトによる軋轢を量子的に落とした連続鉄骨構造の単純化による客観視と世界ヒト酒■玄関鯣ワム選択飲み込み▽天使摩天楼正解宙返りサンサ砂漠楔何情Ω化け物バール見上げる♯30時間指摘感慨言語ナノミスハイン窓
ーー私の中に新しい器官が生まれた。
愛は小説を読み終えると、新たに自分の中に生まれた器官を使って世界を見た。世界がどこまでも拡大していくような、逆にどこまでも収縮していくような。同時に重なっていくような、逆に離れていくような。
今なら感じる事ができる。懐かしくて、恐ろしくて、恋しくて、ずっと側にあったのに届かなかった、私達が焦がれ続けた世界。
光の小説。それは読んだ者に【小説世界】を認識させる小説であった。
○
小説を読んだ翌日に訪れた文学サロンにはいつもと変わらず、穏やかな時間が流れていた。キッチンに立つのはオーナーの愛称で呼ばれる男性。その手元の鍋からは香ばしい薫りが漂っている。愛は鍋を覗き込んだ。そこには琥珀色の液体が満たされていた。
「面白そうな小説ですね」
「ええ、まだまだ手直しが必要ですが。コンソメが動きすぎてしまって」
「それは【重さ】で調整でしょうか?」
「うーん。文法的には【重なり】がしっくりくるのですが……」
スープの形をしたそれは、紛れもなく小説であった。光のあの小説を読んだ愛とオーナーにはそれがハッキリと分かった。
次に、愛はソファーに向かった。そこには一組の男女が座っている。
「愛さんも、よろしければどうぞ。小説なんて初めて淹れるのでお口に合うか分かりませんが…」
女性の方が入れてくれた小説を一口読む。
おお、この出だしは中々に新鮮だ。
向かいに座る男性の方は愛が来たことにも気づいていないようで、ずっと自分の手首の辺りを凝視して袖口をいじっている。彼の「萌え袖」もまた小説であった。おそらくは執筆中なのだろう。集中している彼には声をかけずに、淹れてもらった小説を優雅に口に運ぶ。うん。やはりこの小説は面白い。私も負けていられない。昨日から執筆中の小説を早く完成させなくては。
小説が空想の世界を作っているのではなく、異世界を覗き見るための窓が小説である。その事実さえ認識できれば、小説=文字に拘る必要はなくなる。スープ、紅茶、萌え袖、呪い、あらゆる物を通して小説世界への窓を作り出して覗くことができる。
そして、覗くことが出来るのなら【行き来する】ことも不可能ではないはずだ。それはきっと、この文学サロンに集う誰もが気付いている。
○
そして時間は愛が椅子に倒れこんだ現在へと戻る。最近買ったカヌレ(猫の骨格標本)を撫でながら、どうしたものかと思案していた愛の体が電撃に打たれたかのように跳ねた。
「あ、来た…来た、、、来た来た来た来た!やっと開いた!最っっっ高よ!アッハッハッハ!」
ああ!この感じは光の新しい小説が完成するのだ。それこそが、世界を繋ぐための最後の要素。あとは扉をこじ開けるだけだ。
愛は血走った目でパソコンに飛び付くと、この日のために組んだ小説《丑の刻参り 愛エディション》を起動させる。藁人形なんて時代遅れ。今は呪いもデジタルで行う時代だ。
愛が放った小説は電子の海を猛スピードで駆け抜け、光のパソコンへと辿り着いた。個人情報の塊ーーパソコンを藁人形代わりに、ウイルスという名の杭を光に打ち付ける。
一瞬、光と愛が見る景色が小説を通して交わる。驚愕に目を見開く光に愛は囁いた。
「しばアらく。完成おめでとう。待っていたわよ、この時を……アッハッハッハッハ」
こちらの世界での光の絶命と同時に、二つの世界はほんの一時、繋がった。
今この時より、どんな空想も現実に根付き、確固たる現実も空想に溶ける。彼や彼女。あなたや私。誰もが小説世界の観測者となり、放浪者となる。さあ、物語を始めようーー
2話目にしてこっちの話大丈夫かな…。生まれたばかりの小説にとどめを刺してないかな…。
と(((震えている)))
「なろう小説」だから異世界転生させたかったんだ。それが、なぜこうなった?