序章『光』 第一人格:シタン
平成末期、あの異様な熱気に浮かされたすべての人々に捧げる——
平成31年——1919年が明けた。平成の世に終わりを告げようとするこの年の元日、光は懊悩していた。
光はQ大学で理論物理を研究して天才と言われたが、ある奇縁によってジェイムズ・ジョイスに魅せられて文転するという経歴を持つ。果ては大学院まで進んだのだが、教授との相性が悪かったこともありうまくいかず、突然「ジョイスを研究したいんじゃない、ジョイスになりたいんだ!」と啖呵を切って小説家の道を志したのが平成31年のこと。
当時の恋人からは「すごい……応援してる!Good luck! d( ̄  ̄)」と言われて以来連絡が来ていない。文学サロンに入り浸りつつ、来る日も来る日もつれづれなるままに書き続けるが、一向に名作が生まれる気配はない。
転機が訪れたのは、増え続ける迷作にうんざりしていた数ヶ月前のことである。気晴らしにと北海道に来た光が上機嫌で道を歩いていると、秋にも関わらず雪がやさしく降ってきた。ほう、さすが北の大地だ、と暢気に感心していると、急に天地が揺らぎ出した。青天の霹靂だった。光の脳髄は一世一代のエマージェンシーコールを発動し、時間の流れを減速させた。しかしそこに勢いよく突っ込んできたトラックを避ける術もなく、光は白い雪道に赤い花を咲かせ、白い巨塔へと運び込まれていった。
奇跡的に助かった光は、それ以来、奇抜なアイデアが泉のように湧くようになり、小説を書くスピードが格段に増したのである。もはや「平成の」ジョイスになることは絶望的と思われたが、次代のジョイスとなることは決して夢物語ではない。願わくは、次の元号が格好良いものであらんことを。
年末に書き終える予定だった小説は長引き、結局光は実家に帰省していた。愛猫“我が輩”と感動の再会を果たした家族はたいへん喜んでいた。地酒が止めどなく出てくる酒豪一家の宴も終わり、愛用している絶好の初日の出スポット近くの喫茶・ソイレントに籠城していた。青色で美しく統一されたいつもの個室、通称<青い部屋>である。束の間の仮眠を終えて、やおら体を起こすと、酔った勢いで筆を走らせた。
光は一時ジョイス研究を志したとはいえムツカシイ文学ばかり読んでいるわけではない。むしろ本音を言えば、SF、ファンタジー、探偵小説、ホラー小説などのエンターテイメント小説の方が断然好みなのだった。今回書いている作品はそれらを混ぜ合わせ、隠し味に私小説を加えてグツグツ煮込んだスープのような作品である。問題はその精神のビタミンに富んだスープが、評論家どもの肥えきった舌と老いきった胃腸そして凝り固まった頭にどう受け取られるかであるが果たして。しかし誰が文学は高尚で娯楽小説は低俗だと決めたのだ。丸谷才一の書評を読むがよろしい。
「……色のカーテンは、そのとき、わずかにそよいだ。小説の終焉を暗示するかのように。」
ここまで一気呵成に書き終えると、光はにやりとして普魯西青色の万年筆を置いた。
光にとって三作目となるこの小説は、持てるすべての知恵とテクニックを使いきった自信作であり、およそ一人で書いたとは思えない、文体と作風がグラデーションのように変化していく不思議な作品であり、終盤の畳み掛けるようなどんでん返しは特に自信があった。光によればそれはまさしく和製ユリシーズであったのだが、冒頭で提示した無責任な伏線は深い底に沈み、裏切られ、忘れ去られ、救世主の登場によってようやく華麗に回収される(かもしれない)。光によれば(絶対そんなことはないのだが)、たとえ東京が滅びようともこの作品があれば再現できる。
○
自己紹介が遅れた。我はアルパなり、オメガなり、最先なり、最後なり、始なり、終なり。我は全知全能であり、この物語のすべての登場人物の行動、思考、心理を把握しており、彼ら彼女らの脳内で起きたすべての現象を再現することができる。物語の前提として、我による記述はすべて真であることをここに宣言する。ただし、登場人物たちが考えていることは真とは限らない。たとえば、「光は1+1=10だと思った」という我の記述は、1+1=10がたとえ偽であったとしても、真である。また、後に登場人物の一人称で語られることがあるかもしれないが、それに関しては登場人物の主観であるから、真とは限らない。しかし意図的に嘘はつかないものとする——これがこの物語の厳密なルールである。読者諸賢(そして執筆者)にはこれを必ず頭に入れておいていただきたい。このルールはのちに重大な意味を持つことになるであろう。——絶対に。
さて。
この物語は光の物語と決まったわけではない。さりとて我の物語でもない。なにも最初に登場した人物や語り手が主人公とは限らないわけで、今後登場してくるであろう個性豊かな登場人物たちが我こそはとスポットライトに自ら当たりにいくことだろう。われわれはその様子を暖かく見守ることにしよう。
○
薔薇色の日々、暗黒の日々、桃色の日々……光はこれまでの人生を思った。推敲に推敲を重ね、遂に完成も間近と迫ったとき、光は傍にあった好物のアーモンドチョコレートを一つ口に含んで呟いた。
「これでようやくあの呪縛から自由になる……」
チョコレートの、そして人生の甘みと苦味が口の中に広がった。——刹那。
光の人生に陰影を与えたその忌まわしき黄色い声は、右の耳元で囁いた。
「しばアらく。完成おめでとう。待っていたわよ、このときを……アッハッハッハッハッ」
光は苦悶して、絶命した。杏のような甘酸っぱいにおいを仄かに残して。
そのときスクリーンに表示されていたのは、現代のどの言語にも相当しない暗号めいた文字列だった。
午前六時五十一分。地の底の果てから出でる太陽の初々しい光をあてどなく漂わせながら、黒天鵞絨のカーテンは、そのとき、わずかにそよいだ。鮮血臙脂色に咲く血潮の花の美しさに賛辞を贈るかのように。
登場人物(?)に関する覚書
・光
性別:不明
年齢:不明
出生地:東京と思われる。
性質:理論物理の天才。ジェイムズ・ジョイスに憧れて小説を志す。現在恋人と連絡がとれない。北海道で大事故にあって以来、人が変わったようだ。アーモンドチョコレートが好き。過去に何かがあった模様。
・我
性質:語り手と思われる。決して嘘をつかない。始まりにして終わりなるもの。
・???
性別:不詳
年齢:光と同程度だと思われる。
性質:黄色い声が耳障り。独特の語り口。光と知り合いのようだが、詳細は不明。