第90話 二十年越しの教訓
大袈裟な程に人員が割かれ、絵画が搬入された。来客用の玄関にではなく、子どもたちが普段から利用する廊下にそれは飾られる。満天の星空の下、涼し気な海の中を何頭ものイルカが煌びやかな色彩を用いて描かれた大きな逸品であった。
搬入業者が撤収した後、何とも幼稚園に似つかわしくない絵を前に腕組みをしながらフムフムと、平林は感慨深げに立っていた。どうやらこの絵画は平林が持ち込んだものであるらしい。
「へぇ……アレですね、アレ。全然名前が出てきませんけどバブル期に流行ったアレ。今じゃすっかり目にすること無くなりましたけれど」
平林の背後から声を掛けたのは遠藤であった。普段ならば悪気はなくとも辛辣なその一言に「いや、ちょっと待ってくださいよぉ!」と雛壇芸人ばりのノリノリなツッコミを入れるところであったが、この日の平林は一味違う。
「子どもたちには『本物』を視て感性を養ってもらいたいと思いましてね。私ができることなんてたかが知れてますから。この絵を見て何か心に響くも」
「へぇ……お幾らです?」
「いや、お金じゃあないんです、お金では。見てください。このイルカたちの躍動感を! 3DやVR、AR、技術は進化し便利な世の中になっていきますが、こうやって音も動きもない絵画から得られるものは素晴らしいものだと、僕は思うんです」
「へぇ……それで買われたと?」
「ええ、まぁ。友人に招待していただいて訪れた画廊で一目惚れしてしまいましてね、ハハッ。安い買い物ではありませんでしたが、子どもたちのえ」
「女友達です?」
「そうですよ。先日、街で懐かしい顔に出くわしまして、偶然にも会員制の画廊にお邪魔するところだったらしくてですね、じゃあ折角なので、と」
「モデルみたいな体型の?」
「……はい? さっきから何なんですか遠藤先生。言いたいことがあるならハッキリt」
「その画廊には、大人しそうな男性が、それも会社員と思わしき方が他にもいらっしゃいましたか?」
「ま、まぁ言われてみれば確かに。画廊に似つかわしくないと言えば失礼かもしれませんが、芸術なんてものは立場も年齢も関係ないですし、良い物は良いと言えることが何よりも大事なことだと」
「その画廊は事務所のような?」
「……間借りしていたんでしょう」
「その女性は誰かを待っていた?」
「……ランチに行く途中だったらしいですけど」
「本当は誰だか覚えていない?」
「……で、でも『久しぶり』って声かけられましたし。遠藤先生もご承知の通り、家の事情で顔は広い方ですからね、そういうことは結構あるんですよ」
「広いっていうよりデカいって感じですけどね」
「……」
「……」
「……それ関係あります? っていうか本当になんなんですか! アキネイターかアンタは!」
「買わされたんです?」
「違いますぅ! 良いと思ったから買ったんですぅ! 流石の僕だってそんn」
「ノルマがきつかった?」
「利害の一致です! 丁度、絵が欲しかった僕と彼女のお願いが偶然にも一致しただけです! ほらぁ! よく見てくださいよ! この躍動感のあるイルカを!」
「それでデートに?」
「で、でででデートじゃありません! 久しぶりだねぇって、それで偶然にも利害が一致してノルマクリアに一役買うことができたから『折角だから今度食事にでも』って約束をしただけです!」
「で、幾らです?」
「三百万円」
「さ!!!!!!」
「キャッシュで」
「キャッシュで!!!!!」
「……」
「……」
「私が代わりにデートしますので三百万円ください……」
「なんでですか! 嫌ですよッ!」
……
描かれた絵に罪はない。芸術に価値を付けるのは見た本人である。クッソ簡単に複製できるシルクスクリーンに百円の価値しか見いだせない者がいる一方で百万円の価値があると思うのも自由なのである。それが果たして絵そのものに対するものなのか、あるいは何かしらの付加価値的なものに対するものであるのか、その差を誤ってはならない。
この後、三度に渡りむしり取られた平林先生の身体と身銭を切った冗談……ではなく身体を張って得た教訓は、子どもたちにとって全く持って理解し難い意味不明な代物であったが、およそ二十年後、「あっ、これかぁ!」と思わせるには十分すぎる程の社会的意義を持つものなのであった。




