第89話 犬まゆげでいこう!
犬。
柴犬がいる。
柴犬が幼稚園の庭にいる。
キリリとした涼し気な目を持った柴犬が幼稚園の庭にいる。
おすわりをしている。
門の前でおすわりをしている。
朝方ふらりと訪れたときには確かに開いていたはずの門がガッチリと閉ざされていたので仕方なく門の前でキリリとした目を見開いておすわりをしている。
そんな犬の姿を見つけてしまった同じ位の大きさしかない人間に揉みくちゃにされた挙句「モフモフしてない。どちらかといえばゴワゴワしてる」「おもに『め』がこわい」「てがくさい」とまで言われてしまったので若干涙目な柴犬が門の前でおすわりをしている。
それでも微塵たりとも動かない。耳を引っ張られようが、鼻の孔を塞がれようが、顎下をしこたま撫でられようが、くるりと曲がった尾を真っ直ぐに伸ばされても何をされても柴犬は動かない。
この柴犬は媚びない。加えて動じない。
いつの間にか眉毛まで書かれた。(極太のヤツで)
でも揺るがない。
子どもたちがいそいそと建屋の中に戻って行った後、恐らくは報告が入ったのであろう。大きめな人間が背後へと近づいてくる気配を柴犬は感じ取っていた。
でも反応しない。
とても凛々しい顔つきで門の前でおすわりを決め込む。
「こらこらぁ……どうしてわんちゃんが園内に紛れ込んでんのか……ブフォ!! なんという極太まゆ……は、波留先生―! 波留先生―!!」
自身の正面に回りこんできた人間が、己の顔を見るなり噴き出し、耳元で大きな声を発する。この短髪は初対面の犬に対して礼儀というものが足りていないのではなかろうか、そういう気持ちが無い訳ではなかったが、この柴犬の表情はキリリと引き締まったまま。
短髪の人間が声を上げたのは仲間を呼ぶ行為であったのであろう。目の前で口元が緩んでいるヤツとは別の個体の声が聴こえてきたのを柴犬は、しっかりと感じ取った。
でも動じない。
「もう、なんですか遠藤先生。きっと迷い込んだだけなんですか……ブフォ!! なんという極太まゆげ! なんて悪戯してるんですか遠藤先生!!」
「違いますってば、私がこんな……こんな……なんて……太いまゆ……ブフォ!! 無理です、まともにみられま……アハハハハハハハ!」
「そんな笑うことないじゃないですか! こんなにかわい……ハヒヒヒヒヒヒヒヒヒ! なんでこんなキリっとした目ができ……ヒヒヒヒヒヒヒ! だ、駄目ですね、ちょ、ちょっと何か眉毛を隠せるものを……」
「そ、それなら私が偶然持ち合わせていた園長先生のサングラスがありますので、これを……こうやってスチャっと……アハハハハハハハハ! 眉毛が丁度隠れてない!!!!! 隠れてないぃ!!!!!」
「せ、西部警察みた……ハヒヒヒヒヒヒヒヒヒ!!!!! だ、駄目ですってば遠藤先生!! わたしたちがいきもので……ハハハハハハハハハハ!!!!!! こ、この偶然持ち合わせていたバンダナを頭に巻いてくださあああああハハハハハハハハハ!!!」
変なツボに入ってしまった二人の笑いのハードルは著しく下がり、最早、箸が転んでも可笑しい状態と化していた。もう、止まらない。
何をされてもされるがままな柴犬はレイバンのサングラスに爽やかな色使いのバンダナをほっかむりされても微動だにしない。
「ま・ゆ・げ・か・く・れ・て・な・い!!!!!!!」
「アハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!! セレブ!!! なんか超セレブ感ある!!!!! でも毛がゴワゴワ!!!!! 見た目すっごいモフモフなのに肌触りゴワゴワ!!! ギャップ!!!」
「ちょ、ちょっとわたしたち二人だと埒があか……ハヒヒヒヒ……さ、佐藤先生! 佐藤せんせーい!」
崩れ落ちるように腹を抱えて笑い声を上げ続ける人間を尻目に偽セレブと化した柴犬はキリリとした面持ちでおすわりし続ける。
「あっ」
「さ、さとうせんせい……犬が……眉毛が……大門で、セレブが」
「うちの犬じゃないですかーやだー」
「……」
「……」
「……で、うちの犬は、ソンナニオモシロカッタデスカ?」
風が止んだ。
何があっても微動だにしなかった柴犬の尾がパタパタと動いた。
子どもたちは鬼の背中を教室から眺め『何事も限度が大事なのだ』と学んだのであった。
極太マジックは闇へと葬った。
佐藤「教室にまで聴こえてくるくらいに笑ってましたもんね?」
遠藤「いや、その、そういうことでは……」
佐藤「あ?」
遠藤「ひぃ」
佐藤「ゴワゴワしてますもんね? 手、痛かったでしょう?」
波留「いやいやいやいやモフモフですよ? モフモフ」
佐藤「眉毛。油性ですよ?」
遠藤「……」
波留「……」
平林「……」
平林「……」
平林「……え? 僕じゃないですよ?」
佐藤「油性ですよ?」
平林「違いますって!!」
柴犬「わん!」
平林「なんだコイツ!!」
佐藤「平林先生……ドコガイイデスカ?」
平林「だ、違いますって……」
柴犬「腕!」
平林「なんだコイツ!」