第82話 波留、盛る
波留である。もとい春である。
春といえば、それまでの過程はどうであれ心機一転、年度の始まりに新たな目標を立てるであるとか、衣替えに併せてパステルカラーを使ってみたり、転居してみたりイメージチェンジであるとか、あるいは……髪を短くしてみたり。
波留は他の誰よりも早く出勤する。主任という役職の割に上長は園長しかおらず、その園長も普段は何をしているのかよくわからないものであるから、実質、管理の一切を任されている立場にあるのが、真面目一辺倒の彼女という訳である。
だいぶ暖かくなってきたとはいえ、日の出はまだまだ冬の名残りを残したまま。新聞配達員とすれ違うような時間帯に自宅を出る波留は、新年度も変わらず早朝から真面目にコツコツと作業にとりかかる。
失恋した訳でもなく、大した理由はないのであるが、また同じように理由なく、伸ばしていた特徴的なサラリとした長髪をバッサリとイメチェンした波留の頭はすこぶる澄んでいるいる様子であった。
「やっぱ髪が短いとスッキリだわ。うん。軽い軽い」
そんな感じである。
とかく髪の長さというものは人の印象を大きく左右するものである。腰まで伸びているような長い髪というものは、ある種の個性ともいえるのかもしれない。言い換えれば『印象』といったところであろうか。
人を区別するためのポイント。顔形、背格好、雰囲気、そのようなもののひとつ。当の本人からしてみれば、気持ちこそ違えども当然に他人に変わったなどという奇妙奇天烈な出来事な訳がないので他人の目から見た自身の印象の差異など気が付かないものだ。
「おはよ……う……誰?」
いつもと変わらず波留がいるものとばかり思っていた遠藤は職員室に入るなり、視線に映りこんだ『見知らぬ人』の後ろ姿を訝し気にみる。
波留も波留なりにある程度のリアクションは想定していたが、これは流石に大袈裟な気がしないでもなかった。そこには多少の照れ隠しも含まれていたのであろう。遠藤に対してハニカミながら答えた。
「おはようございます遠藤先生。……ちょっと髪を短くしてみました。そんなにイメージ違いますかね? 遠藤先生がその様子だと子どもたちも戸惑っちゃうかもしれないですね」
「……スミマセン。関係者以外は立入禁止なんですが」
「遠藤先生、話し聞いてます? 波留ですよ? そんなに印象変わります?」
「ああ……ハハハ……へぇ……」
「ええ? どんな反応ですかソレ? え? 本当に分からないんですか? 嘘でしょ?」
「あ、いや、大丈夫です。間に合ってます」
「いやいやいやいや、その反応、絶対わかってないじゃないですか! なんですか、その『面倒くさい奴に話しかけられた』みたいな反応は!」
「いやぁ、だって……ねえ……ハハハ」
「んんん? なんだその乾いた笑いは?」
なんともいえない微妙な空気が漂う。
波留からしてみればいつもと変わらぬ状況。しかし、遠藤が醸し出す空気は警戒心というべきか、えらく他人行儀というべきか。どうにも不審者を見る類いのソレである。
……
「おはようございまーす。……って、どうしたんですか! 波留先生!」
続いて出勤してきた佐藤は当然のように大きな変貌を遂げた波留に対して驚きの声をあげた。波留は照れくさそうに答える。
「あ、おはようございます佐藤先生。……いえね、大した理由はないんですけれど新年ということもあって心機一転……」
「おっぱいが膨らんでいるじゃないですか! 何事ですか?」
「は?」
佐藤の言葉に遠藤が横から口を挟む。『何を言っているのだ佐藤よ』と若干馬鹿にしたような口振りで。
「いやちょっと待ってくださいよ佐藤先生。そんな訳ないじゃないですかぁ……波留先生のおっぱいがこんなに大きな訳がないじゃないですか。たぶん、この方は波留先生のお姉さんだとか、そんな感じの方ですよ」
「いや、姉も妹もいませんけど」
「ほら遠藤先生! やっぱり波留先生ですってば! ……ま、まままままさか手術的なアレですか?」
「ち、違いますよぅ……」
「手術じゃないということは、盛……、偽っぱい! 偽っぱいなんですか?」
「偽っぱいっていうな! っていうか遠藤先生も佐藤先生も私のことをどこで判断していたんですか……」
「え? そりゃあ顔ですけど」
「あと、髪とか……」
「ええい嘘をつくなっ!」
髪をバッサリと切った事に乗じて、こっそりパットを追加しておっぱいを盛っていたことがバレる波留なのであった。
遠藤「あっ、波留先生、髪切られたんですね」
佐藤「本当だ! 随分とバッサリいきましたね! なにかあったんですか?」
波留「いや、もういいです……」