第59話 シベリア超特急
冬場というものは、どうしても人の体温が低くなり、また、空気が乾燥しているため、目には見えないサイズのウイルスが飛沫・接触を繰り返して人から人へと移っていきやすい。
代表格としてはインフルエンザウイルス。幼稚園という特殊な場所であればA群溶血性レンサ球菌による咽頭炎、いわゆる溶連菌感染症である。学童児に比べて互いの接触頻度の高い園児に手洗い・うがいの徹底を促すことは、この季節における先生たちの重要なミッションである。
「……以上がインフルエンザ予防、溶連菌感染症予防にあたって我々が意識しなければならないことになります。体調が悪そうな子は勿論、親御さんから発症の連絡があった時点で全保護者に通知することになりますので、よろしくお願いします」
外気よりも幾分かマシな程度の箱の中で、ある者は真剣な眼差しで、ある者は眠い目を擦りながら、また、ある者は閉じた瞼の上に別の瞼を描いた顔で花提灯を膨らませていた。
右上の日付だけが更新された毎年おなじみの書類に目を通しながら朝礼の音頭をとっていた波留は、心の底から湧き上がってきた言葉を口に出せずにいた。
「(古い! 二十一世紀も四半世紀を迎えようとしている時世において、花提灯は流石に古い! ……瞼の上にマジックで目を描くのも古すぎる! ああ、しかも何故にオッドアイ。無駄に凝っているようで、っていうか早朝からそんな仕込みをするくらいなら目覚ましに顔でも洗ってくればいいじゃない)」
チュンチュンと雀が挨拶を交わす。朝靄の薄白と霜色をしたアスファルトがヒンヤリとした風を流し、ユニットハウスの窓ガラスの結露を誘う。
「……zzzzz……んもう、この勝負は私の勝ちで決まったようなものなんだから、トドメを刺すまでもないですよぉ~。出血死をただただ待つのも一興ですよぉ……むにゃりむにゃり」
……
「……どんな物騒な夢をみているんです?」
「波留先生? どうかされましたか?」
山田の一言に波留は『しまった』と声を洩らす。子どもたちの健康を守るための大真面目な朝礼の中で遠藤のペース(寝てるけど)に乗せられてしまうと士気が下がる。手洗い・うがいの徹底について記載された書類に穴が開いてしまいそうな程の熱視線を送り続けている佐藤の耳もピクリと反応を示す。
「……物騒……そう! 最近のウイルスは物騒ですから! 山田先生。お手数をおかけしますが、スウェーデンに行って現地の予防方法を調べてきてもらえますか? 陸路で」
「はい。それは別に構いませんが。……は? スウェーデン? なんでスウェーデン?」
「知らないんですか? 歯科予防と感染症予防は密接な関係にあるんです」
「……いやいや、流石に理由が弱すぎでは」
「ん~むにゃりむにゃり……お土産は大きめのダーラホースでお願いします。……zzzz」
「起きてません? 遠藤先生」
「zzzzz」
「なんだ寝言か……」
……その日の終業後。
子どもたちが手洗いを頻繁に行うため、翌日に備えて消毒液の補充を行う必要があった。ただ、業務用の消毒液ケースは結構な重量があるため、基本的には山田が作業を担当しているのであるが、『今日は』遠藤と佐藤がその役目を負った。
夕暮れの朱に染まる園内で、遠藤はふと気づいた。
「……そういえば見かけないですね」
「山田先生ですか? 今頃、上海じゃないですかね」
「いや、山田先生じゃなくて、漫画だったり、アニメ的な表現で、電撃を浴びて骨が透けて見えるリアクションを最近見ないなぁと思いまして」
「……ああ、言われてみれば(というか山田先生のことはどうでもいいんだ)」
「ちょっと前までビリビリ痺れる表現の王道だったと思いません? 電気属性のキャラクターが割合減ったとも思えませんし、どうしてでしょう……というか、佐藤先生、そんなに目つき悪かったです?」
遠藤が眉間に皺を寄せながら腕を組むと、佐藤は何かを否定するような素振りを魅せながら言葉を返した。
「いえいえ、それには理由がありまして……」
……………
…………
………
……
なんだかんだありますが、今日も『そろもん』は平和でした。
男は、大自然の眺めの中、生まれて初めて両親に宛てた手紙をしたためていた。
お父さん、お母さん。お元気ですか?
こうして筆をとるのは初めてかもしれません。
僕は今、シベリア鉄道の旅を味わっております。ひたすらに寒いです。
何度考えてみても、どういう流れでこうなってしまったのか、正直よくわかりません。
目的地はスウェーデンなのですが、とりあえず七日間は電車の中のようです。
今度、帰省した時には良い土産話ができると思います。
日本ではインフルエンザが流行っているようですので、うがい・手洗いを忘れずに。
くれぐれもご自愛くださいませ。
それでは。
追伸
職場で何かやらかした訳ではありませんので、その辺りは心配しなくても大丈夫です。
とても良い同僚に恵まれ、
可愛らしい子どもたちに囲まれ、
充実した毎日を暮らしています。