第52話 鳥兜組のサブナックちゃん
サブナック
50の軍団を率いる序列43番の強大な侯爵
青い馬にまたがり武装した姿で現れる。治りにくい傷を与えたりする悪魔
歳を重ねる毎に将来の夢なんてものは現実味を帯びてきて、どこかのタイミングで実現可能な目標のようなものに昇華してしまうのは世の常なのかもしれない。そんな半ば社会の常識とも思える尺度を痛いほどに知っている大人であったとしても、不思議なことに、たかだか五年程度しか生きてやしない子どもが抱いたそんな『夢』的なものに対しては、どれもこれもが実現できそうに思えるものだ。
どこかの頭の良い人物が残した『常識とは二十歳までに身に着けた非常識である』のような言葉がなんとも的を射ているようで誰かにとっては非常に耳が痛かったりもする。
生まれて初めて抱いた『夢』をいつまでも諦めずに、ブレずに、持ち続けることができれば、こんなに素晴らしいことは他にないのかもしれない。
「かれーらいすになりたい」
波留の問いに対してサブナックちゃんはキラッキラした瞳とともにそう答える。
周りの園児は『ケーキ屋さん』だとか『パン屋さん』あるいは憧れのヒーロー像を思い描いて『ウルトラマン』『仮面ライダー』的なものを挙げる。
こんなものは具体的な職業でなくてもいいのだ。空想上のものであっても構いやしない。
「かれーらいすになりたい」
これはいかがなものか。波留は一瞬だけ固まってみせたが、即座に我に返り問いかける。
「カレーライスって……そっか! サブナックちゃんはカレー屋さんになりたいのかな?」
「ちがう。かれーらいすになりたい」
「そう……でも、カレーライスって食べ物だよね? サブナックちゃんはカレーが大好きなんだね!」
「そこまですきじゃない」
「そんなに好きじゃないんだ! そっか! ……え? じゃあなんでカレーライスになりたいの?」
「なんでもいいんです」
「ん? なんでも?」
「なんでも」
「……」
……会話を途切れさせてはいけない。その思い故に波留の額からは汗が噴き出す。ここで返答できなければサブナックちゃんが不安に思ってしまうかもしれない。よくわからない、本気度合いがわからないだけに、理解し難い『夢』であっても彼にとっては何か深い意味があるのかもしれない。
(とりあえず、とりあえず、なにはともあれ言葉のキャッチボールを続けるのよ佳澄!)
自身を奮い立たせるように、絞り出すようにして……くだらない返しをしてしまう。
「そっかあ、カレーだけにナンでも……なんちゃって」
「……」
波留の頬は無理に口角を上げたせいでヒクついてしまう。『やってしまった』感で溢れかえった教室内の空気はピンと張り詰め、それまで談笑していた他の園児までもが一斉に口籠る。
空気の流れが止まる。
重く重くのしかかるような空気に教室が黒く澱む。
この空気を吸い込んでしまうと病んでしまいそうだと思えるほどに息が詰まる。
果たしてこんな空気にした原因は誰にあるのか?
そんなものは波留であることに間違いはない。
だがしかし、誰が悪いということでもあるまい。
誰を責めることもできまい。
将来の夢という、あまりにもありふれた質問に対して『カレーライス』と返され、さらにそこからの切り返し、満点の返しとは何なのか。正解とは一体なんなのか。それは誰にもわからない。彼女は頑張った。職責を全うしたのだ。誰もがそれを認めてくれよう。彼女を非難することができる者は、この『カレーライス』に対して万人にとっての正答を突きつけることができる者しかいやしない。
笑顔が消え去り俯いてしまったサブナックちゃんのいたたまれない様子に視線が集まる。
「そうナンです」
ああ……そうか。波留は唐突に理解した。
彼は何も考えていない。考えてはいないのだ。仮に問い詰めるような形で『カレーライス』になる夢の原点を掘り返そうと試みたところで、出てくるのは良くてカツカレー。下手すると具無しカレーが提供されかねない。いや、それどころか、その具無しカレーはハヤシライスかもしれない。
波留はにこやかなサブナックちゃんの目を見つめながら思う。
この子が将来、辛い人生を歩まないことを心から祈るとともに、福神漬けや、らっきょうのような休憩を適度に覚えるコクのある大人になってほしいものだと。
同時に、今日のこの日に訪れた、この不毛なやり取りの果てに待っているものは何もない。『無』だ。『夢』を語る場で『無』とはこれまた巧いことを……
波留は変な世界にトリップした。