第28話 BOYS BEな山田先生の憂鬱
朝が冷えこむ季節になってきた。
山田は懐に忍ばせた濃い青の紙箱を取り出して手慣れた様子で一本だけ口に銜えると身を切るような痛い風から仄かな灯りを守るように手で覆い、一息、白い息を吐く。
「……もう、こんな季節かぁ」
誰に話しかける訳でもなく、誰かに問われた訳でもなく、山田の吐く息は宙に引かれた巻雲に吸い込まれるように上へと向かう。
教育の一環としての食育。その中でも、昨日まで一緒に生活していた園の(裏庭で山田が面倒をみていた)豚を食肉加工して食べるというもの。
普段、何気なく食している物が一体どういった風に食卓に並んでいるのかを実学として教育する。子どもたちが食に関心を持つように。それはとても大事なことである。そんなことはわかっている。
山田は複雑な心境であった。
子どもたちには立派に育ってもらいたい。それでも、理由は何であれ悲しむ顔を見たいとは思わない。何も知らない園児たちが、加工業者に連れて行かれる『シマ』ちゃん(ハンプシャー種)の悲し気に鳴く光景を不思議そうな表情で見つめていたのを山田は思い出して思わず目頭が熱くなる。
空気を吐き切って収縮した肺に鼻から冷たい空気を流し込む。途中、口腔内に溢れる甘い香りを含ませながら身体中を冷気が包み込む。
……
「なーにBOYS BEってるんですか? 山本先生」
「山田です。それにどちらかといえばSALAD DAYS派です」
園の裏庭。山田が使う工具の類いが並ぶこのエリアは普段、誰も近寄ることはない。子どもたちが近寄ると危ないための処置である。
いわば、山田だけの場所。山田以外がいない場所。遠藤がこんな所に顔を出したのは何を隠そう山田のことを探していたからに他ならない。
「……やっぱり、まだ早かったと思います? 山根先生」
「山田です。……まぁ、それがこの園の良いところですからね。挑戦的で、何よりも子どもたちのことを考えていて。遅かれ早かれってことでいえば、タイミングなんていつでもいいのかもしれませんね」
遠藤の顔を見ることなく、顔を背けるようにして天を仰ぐ山田の頬はピクピクと引き攣っていた。
「『子どものため』ですか。山岡先生らしいですねっ! でも。『そろもん』は全面禁煙ですよ~波留先生にチクっておきますからね」
「……ココアシガレットですよ。あと、山田です」
……
「うおおおおおおおおおおおおおおっ、しんせんな、おにくがたべられるぞおおおお」
「かわをはげ! かおのかわをはげ! ここにもってくるのだっ! ちらがーにしてやる」
「かたろーすはくれてやるっ! ばらにくをよこせ! ばらにくをよこせ!」
「みんな『おこさま』だなぁ……ほんとうにおいしいのは『ろーす』なのだよ!」
「はーい! はーい! じゃあ先生『ヒレ』貰っちゃうもんねっ! 『ヒレ』!」
園内はお祭り騒ぎであった。
園に迷い込んだ『野良豚』を園長の好意で振舞うというサプライズに沸いていた。遠藤も乗る。ヒレを所望する。
太古の昔、人類がそうであったように部族で狩った獲物を共有して食べる。生きる為に食べる。食べる為に狩る。そして成長する。これが『そろもん』流の食育。
「んっもうっ! 遠藤先生まで一緒に騒がないでくださいよ。あ~、いつもは大人しい子ばかりなのに、なんで豚肉ってだけでこんなに盛り上がるのよ~」
「うおおおおおおおお! 『しょくいくさい』『しょくいくさい』だあああああ!」
「『食育祭』……なんて甘美な響きなんだ。山上先生はどの部位が好きなんです?」
「山田です。……ま、まあ、誰も世話してないし……誰も泣いてないし、なんとなく、なんとなくはわかっていたけれど『野良豚』って」
肉祭りで盛り上がるホビット族の集落に突如として足を踏み入れてしまった人類のような衝撃を受けた山田は、言葉を失い走馬燈のように思い出す。雨の日も風の日も、夏の暑さにも負けずに山田の愚痴を聞いてくれた『シマ』ちゃん(ハンプシャー種)は、もういない。もういないのだ。
山田は唇を噛んだ。
彼の肉と血は子どもたちの成長の糧となるのだ。いいことじゃあないか。素晴らしいことじゃあないか。とグッとこみ上げる何かをこらえる。
「あれあれあれ~? 山下先生ってば、泣くほど嬉しいんですか~? そんなに豚肉好きなんですかぁ~」
遠藤の心無い、悪意もなければ配慮もない、残念ながら知恵もない。というか何も知らない軽口が山田の胸にグサリと突き刺さる。
「山田です……彼は……豚ちゃんは……心の支えでした」
ツー、と山田の頬に涙が垂れると、場は一層の盛り上がりを魅せた。
「そんなに豚肉が好きなのか!」と。
「いつもお世話になっている山田先生には、しっかり食べていただこう!」と。
「いっそのこと『食育祭』ではなく、『山田祭り』にしてはどうだろうか!」と。
そうこうしている内に、熱気に満ち溢れた園に一台の給食トラックが到着し、子どもたちと遠藤は「まだか、まだか」とソワソワドキドキの最高潮。加工、調理された豚肉の良い香りが、ほんのりと匂ってきたのと共に業者の一際大きな声が園内に響いた。
「お待たせしゃしたー! ご注文の豚足、七十六人前。お持ちしゃしたぁー!!」
「(よ……他所の豚が混じっとる……)」
山田「……美味いな」




