第10話 佐藤先生(格闘王)
佐藤矢生
空手四段、柔道三段、古流武術をいくつか『習得』している
ド近眼なため普段は(昔懐かしい)瓶底眼鏡、おさげ髪の先生
歴史のある樹皮にも似たテラテラとした皮膚を持ち、何者をも凌駕する速度を有し、人の足では決して不可能な壁にすら苦も無く昇ることが許される。加えてその者、薄く重ねられた幾枚もの羽根をも携え空を駆けることすらも容易い。
「ちょっと、遠藤先生。また何をグチグチ言っているんですか? 膝、震えてますよ? 頭が悪いのはいつも通りですが体調でも悪いんですか?」
「……波留先生。本音漏れてますよ」
「わざとです」
「oh……」
職員室の扉をピシャリと閉めた遠藤の顔は青ざめていた。まるで悪夢でもみた後かのように。流石に波留も(園児が)心配になり遠藤に何があったのかを確認する。
「いや、実はですね……あの、茶色い悪魔がですね……ごにょごにょ」
「リアルで『ごにょごにょ』って言ってる人みるの初めてですよ。なんですか、可愛いとでも思っているんですか?」
今日の波留は虫の居所が悪い。それは遠藤が真っ青な顔をしている理由がなんとなく察することができたからであった。
職員室に居ながらにして聞こえてくる園児たちの悲鳴。泣きじゃくる声、ガタンガタンと椅子やら机やらを動かす音。ハプニングが起きたと考えて、まず間違いはないであろうと波留は推察する。
加えて、先の遠藤の(中二)病的な言い回しである。十中八九そうなのであろう。名前を呼ぶことすら拒否したいアレが現れたのであろう。
人の大きさからすると指先ほどのサイズでありながら、あらゆる空間を行き来することができる現在の悪魔。古代から脈々と内的な進化を続けてきた悪夢。
もっとも、目の当たりにすればドッキリよろしく身の毛もよだつリアクションをとるのも頷けるものではあるが、如何せ物理的な距離、しかも視界に入っていない状況にあれば冷静でもいられよう。
ともすれば、何にいら立っているのか。端的にいえば『いい歳した大人が園児を放置して教室から逃げ出してんじゃねーよ。対処しろよ。私を頼るな(見たくないから)』という至極私的な要因を含むことに起因したものである。
「大体、遠藤先生は『聖母』なんですよね? 『勇者』なんですよね? だったらそんな魔物めいたヤツとエンカウントしたのなら戦闘態勢にはいるのが筋ってものなんじゃないんですか?」
「勇者は逃げ出した」
「残念。回り込まれました。いいですか! 幼稚園の先生が園児をほっぽって逃げ出すだなんて言語道断ですよ! 何がそんなに怖いんですか!」
「なんか、こうネチョってしている割に異常に足が速いじゃないですか……私だめなんですよ……」
遠藤は腰が抜けたように床にペタンと座りこみ涙目で波留に助けるを求める。
「大体、ゲームの世界だったら素早くてすぐ逃げるようなヤツは頭を下げてでも戦いたい相手でしょうに。なんで都合よく解釈できないんですか!」
「いや……倒しても経験値はいってこないですし」
「小さいと思うから気持ち悪く感じるんでしょ? じゃあ、あの、この間インターネットで見せてくれた海のアレ、あるじゃないですか。なんか『大人気なんだ』って教えてくれた。アレと思えばいいんじゃないですか?」
波留は警戒していた。このままでは遠藤の尻拭いで自分がヤツと対峙しなければならなくなるという絶対に避けなければならない役目を押し付けられないように。
「ダイオウグソクムシですか?」
「そうそう。ソレ。ダイオウグソクムシ。アレがソレだと思えば多少は見られるようになるんじゃないん……で……す……冗談です。忘れてください」
「……忘れました」
『ダイオウグソクムシ』サイズのヤツがこの世に存在していたのしたら、もしも、そんな巨大なヤツが自宅の冷蔵庫裏からひょっこりと顔を出したらと考えてみたら不快どころか、生命の危機すら感じてしまう。波留は己が口にした軽率な言葉に激しく後悔した。
……
パァァン。そんな炸裂音というべきか破裂音というべきか。それが聴こえてきた後、数秒の間を置いて阿鼻叫喚の声が一転、歓声へと変わったことに安堵したのは言うまでもないであろう。
どこぞの『勇者』が悪辣なる茶色の魔物を討ち果たしてくれたのだと遠藤と波留は歓喜に打ち震えた。これで戦地に赴かなくて済む。心に渡来した感動にも似た感謝の声にもならない声が悲鳴へと変貌するのは、さらに数秒先のことであった。
遠藤の背後、つまりは職員室の扉がガラリと開き、そこに立っていたのは佐藤先生。ちょうど遠藤の頭の上、佐藤先生がアレの触覚を摘まむようにして残骸と化した肉片をプランプランと……
……数分前
ぎゃーぎゃーわんわんと泣きじゃくる園児を前にして分厚いレンズをした眼鏡をかけた、おさげ髪の佐藤は事態が掴めずに困惑していた。
「ちょっと、みんな何をそんなに騒いでいるの? 遠藤先生? 遠藤先生は?」
「えんどーせんせーどっかいっちゃった」
「はあ? なんで?」
「わかんなびゃーああああああああああああああああああああああああ」
異様な光景であることはすぐにわかる。教室から全員が出払っているのであるから賊が現れたとみて間違いはないであろう。佐藤にとっての問題は、それが人であるのか、獣であるのか、はたまた大型の毒性生物であるのか、であった。
人であれば相手は楽だ。ナイフ程度であれば苦はないであろう。
野良犬であれば爪にさえ気を付けていれば問題はない。動物が好きなので気は引けるが。
毒性生物、それもオオスズメバチのような獲物であると少しだけ厄介だ。毒針が怖い訳ではない。アナフィラキシー反応など、どうにも対処しようのないダメージだけはなんとか避けなければならない。
佐藤の中の冷静な佐藤に落ち着いた火が灯る。
ガラリと開いた教室内は静まりかえっていた。それでも臭う。確かに臭う。そのにおいがナニから発せられているのか、彼女にはすぐわかった。
眼鏡を外し、足を肩幅大に開き、腰を落として両手を左右に突き出すような構えをとる。三百六十度、上下左右からの襲撃に備えるこの体勢に入った佐藤は、当たり前のように目を閉じ、耳へと意識を集中させる……
パラッパラパラパラ…… それはとてもとても小さな羽音であった。ヤツ自身が危機を感じて咄嗟にとった行動なのかもしれない。本能的な。
「そこっ!!」
佐藤が繰り出したソバットは彼女の肩先ほどの高さを誇り、寸分たがわぬ精度でヤツの身体に勁を与えて表面にダメージを負わせることなく背に抜ける一撃となった。
パァァン。巨大な風船が破裂するかのような音は小さな小さな昆虫が身体の内に溜め込んだ空気、水の一切が皮膚を突き破る際に起きた音であった。まさに一撃必殺。床に散った強敵の亡骸を窓からポイと投げ捨て地に返し、わずかに残った表面だけを回収し、教室を後にする姿はまさに武闘家の背中であった。
なお、園児はドン引き。
職員室に入ってきた佐藤の手に摘ままれていたアレの亡骸に職員室は阿鼻叫喚の地獄絵図を思わせる叫び声が木霊するのであった。
っていうか固有名詞一回も出してないのに分かる生物っていうのも珍しい。
滅びろ!!