夢幻
ああ、これは夢だ。そうか。また私は意識を失ってしまったんだな。
夕陽の差し込むミールの廊下を、私は一人で歩いている。こんな、夢なんかにすがるほど私は弱かったのか。……悔しいな。だが、所詮それが私だ。私は実に平凡な人間だ。一番幸福な記憶に浸ろうとしてしまうような。
これは私が十八歳の頃。世界平和防衛機関事務局エルドラド王国対策課に配属されて三年目の出来事だ。
「この件に関して彼女を責めるのはおかしい。御自分の失態を部下になすりつけるのはいかがなものでしょう。それよりもまず、解決策を提示なさるのが良いのではありませんか?」
持ち前の性格が災いし、余計な争いに首を突っ込むのは日常茶飯事だった。十九歳になった今でもあまり変わっていないかもしれない。まだ二,三年前の話だ。
「森川さん! ありがとうございました。あの人いつも私に責任を押し付けてくるから困ってたんです!!」
「ああ、力になれたのなら良かった。彼にも彼なりの主張があるのだろうが、少々言い過ぎていたからな。中々うまくいかない日は当然あるが、それでも協力していくべきだろうに」
「そうですよね森川さんの言う通りです! あの人がもっと譲歩してくれたらきっと皆仲良くなれるのに。……あ~あ。森川さんみたいに素敵な人が私の上司だったら良かったのに!!」
「それは過大評価だよ。まだ未熟な私にはそんな重い役目は不十分だ」
「誰より仕事ができるのは皆知ってるのに。森川さんっていつも謙虚ですよねえ。憧れちゃう」
私は、私が助けた後輩のその言葉に何も言う事ができなかった。
肌を撫でる風は冷たく、空を紅く染める太陽がその巨体を海へ溶かす。一人きりになると、いつも太陽は私を強く責め立てた。
『お前は醜い』
紙がはためき、影を揺らす。
『お前には何もない』
苦しくて、カーテンを閉めてみても、風は光を遮らない。
『お前はいつも、美しいふりをする』
太陽も、海も、そして風も、私にはとても恐ろしかった。
「真奈美ちゃんすっごーい! 全教科満点!! また生徒会長やるんでしょう!? かっこいい……!!」
「この間なんかミールの内定もらったんだって!! もちろん受けるんでしょ? 真面目な真奈美ちゃんにぴったりのお仕事だもん!!」
「森川君、君は我々職員の誇りだよ。品行方正で明るく、多くの生徒に慕われる。……君以上の生徒はもう現れないかもしれないねえ」
「も、森川さん……。よかったら一度、一度だけ僕と昼食を食べに行ってくれませんか? あっ、わかってます。眼中にも入らない事くらい! 思い出だけで十分ですから!!」
期待されるのは、好きだった。努力すればするほどよく見えたその頂の風景は、私をどこへだって連れ出してくれたから。
だけど私は、何も選ばなかった。それに気がついた時には、とうに『ワタシ』が張り付いて。『私』はどこかへ消え去って。
後に残ったこの身体が、静かに『私』を演じるだけ。空っぽな、美しい『ワタシ』以外、今更何を望めと言うのだろう。
「……ふっ。我ながら感傷が過ぎるな」
私は苦笑し、視線を廊下へと戻した。そしてふと、響く靴音が私の注意を惹く。それはすぐに人影に移り変わった。私も思わず立ち止まり、人影の方へと視線を傾ける。
「………あの」
その人影は、思いのほか小さな男の子のものだった。陽に焼かれて橙色に染まる髪が力強く逆立ち、私より頭一つ小さい背丈を精一杯伸ばし、まぶしそうにこちらを見ている。
私は特に何とも思わずその子に近づいた。その子の瞳は、幾度となく私に向けられた感情と、全く同じように見えた。
「俺の名前は斎藤勇樹、十四歳。戦闘局志望の将来有望株です! お姉さんすっごく綺麗ですね。俺と付き合ってくれませんか?」
「え?」
まさか初対面で手を握り、ナンパするような男の子だなんて、本当に信じられなかった。
「おはようございます。名前教えてください。お姉さん」
「……おはよう。確か君には昨日断りを入れた気がするんだが」
「はい。綺麗さっぱりふられました!」
勇樹は、私にとって未知の存在だった。
「ばっさり行きましたよねえ、あれは。“誠実な男が好みだ。出会ってすぐに告白してくるような軟派な男は好みじゃない”って。もうそれ言われちゃったら引くしかないじゃないですか」
「全く堪えていないように見えるのは私の幻覚か?」
「失礼な。ばっちり一晩へこみました。だけどこれからもお姉さんには会えるでしょ? とりあえず名前を知るところから距離を詰める作戦です。次は年齢を、その次はデートという具合に行きたいですね。どうですか?」
ためらいもなく私を見つめ、幾度となく口説いてくる。余程自分に自信があるのか、闘争心を煽られたのか。どちらにせよ今まで出会った誰よりも私の気を惹いたのは確かだった。勿論、男性としては全くの対象外だったのだが。
「はははは! 一歩間違えば通報されかねないセリフだな。君、女性を口説くのに慣れていないだろう。バカ正直過ぎて……ああ、駄目だ。あはははははっ!!」
「お姉さん。流石にそれは傷つきますよー。しかもそんな可愛い顔で笑われたら、何も言えないじゃないですかあ」
勇樹は面白くなさそうに膨れていたが、私にとってその言葉は最後の決定打となった。
「何を傷つく必要があるんだ? むしろ誇った方がいい」
つい本音が零れたような、そんな何気ない言葉が理由だったなんて。私はなんて単純な女なんだろう。
「私の名は森川真奈美。十八歳だ。ナンパ成功だな。おめでとう、勇樹」
「えっ、えええっ!?」
私の心は、この時確かに踊っていた。
「ユウキ、どうしたんだい? そんな喉を詰まらせた犬みたいな顔をして」
「……ジンさんが俺をどう思ってるか良くわかりました。別に何も問題はないんでお構いなく」
ったく。俺はただ思い出に浸ってただけだっての。それもとびきりロマンチックな奴にな!ムードぶち壊しじゃねえか。せっかく気持ちを落ち着かせようとしてたのに台無しだ。色々な意味でイライラするぜ。
「そうよ。そんな失礼な事を言わないでちょうだい」
「姫さん」
「せめてそこは陸に上がって来てしまった小魚の尻尾くらいにしときなさいよ。犬はもっと利口な顔してるんだから」
「せめて生き物にしてください!!」
やめて、姫さん。至極当然の顔をして生物以下の扱いはやめて。そしてシリアスに浸らせてくれ。本部ではちゃんとできてたじゃないですか。今も刻々とタイムリミットは迫ってるんだからな。俺が真奈美さんを想って健気に出会いを回想するのを心配するのが普通だよな?最低限の伝達を終えてエーゼ島を目指して全速力で転送魔法陣を展開してる時にする会話じゃない事だけは確かだ。確かなはずだ。ああ、真奈美さん。貴女が恋しくて仕方ありません。
真奈美さん。今貴女がここにいたら、なんて言って俺を助けてくれたかな。
「……落ち着け。今は仲間割れをしている場合じゃない」
深みのある言葉に、ピタリと姫さんとジンさんの言い争う声が消えた。俺達は一斉に、ダリア曰く『ゲーム』に参加させられた人物に目を向ける。
「局長」
「森川君、そして戦えない多くの命の行く先を私達は握っているんだぞ。内側からその命を蔑ろにするような振る舞いは、私は絶対に許さん」
それはあまりに局長に似つかわしくない言葉だったのに、俺達はすんなり局長の言葉を受け入れていた。その目に宿る激しい熱にたじろいだのかもしれない。俺達を諭す局長は、普段は頼りなく映る顔を厳しく歪ませて立っていた。まさにそれは本職の立ち居振る舞いだ。俺は少しだけ肩の荷が降りた気分になる。ミールの本部で局長をやるような男が弱いはずはないけど、普段が普段のせいで無意識に戦力に数えていなかったらしい。
っていうか局長ってもしかして。
「着いたわ」
「っ」
姫さんの声に顔を上げれば、海の上にぽつんと立った小さな島が俺達の前に現れていた。どうやらもう転移は終わったらしい。ダリアに見せられた映像と全く同じ形の島だ。そうか、あれがエーゼ島。真奈美さんが待っている場所か。
「こっちだ」
言葉少ななジンさんの指示に従い、俺達は木々の乱立する木陰へと身を潜めた。流石に皆戦闘が仕事なだけあって、無駄のない行動だ。空にはエルドラドの紋章を刻んだ服を着た兵士がうじゃうじゃと沸き、ゴミみたいに群れている。元々エーゼ島は軍用に使われていた歴史があるとかで、島の周りにはぐるりと武骨な壁に覆われていた。当然、内部は空中なんてしゃらにならないくらいの大群がひしめき合っているに違いない。
「いいか。もう一度作戦を確認するぞ。ダリア・ディアスが指名したのは福永の事件に直接関わったミールの幹部。つまりカレン、勇樹、ジン、そして私だ。異論はないな?」
短く首肯して答える。ダリアはわざわざ人数まで指名した。福永の乱に参加したのは俺、姫さん、ジンさん、真奈美さんの四人なのだが、現在その真奈美さんは囚われの身だ。つまり俺達に命令を下した局長にも参加資格はある。それが俺達の見解だった。エルドラドの目的が見せしめと報復だというのなら例え違ったとしても一人くらい目を瞑るだろう。本部の局長を大勢の前で倒すというのは見せしめに持ってこいのシチュエーションだからだ。
「それにしても敵が多いな。何がゲームだよ。ちっともフェアじゃねえじゃねえか」
「あんなのが百人束になってかかってこようと私は負けないわよ。別に一人だって構わないわ。すぐに制圧してみせる」
「ミス・ノアイユ。それは下策としか言いようがないな。人質が取られているとわかった上での言動とは思えない」
「どっちみち私とあなたが一緒に戦うのは無理でしょう? 吐き気がするわ」
「……確かに、カレンとジンは相性が悪いようだからな。下手にまとまって動いてもメリットはないか」
「俺達が一緒になって戦うなんてほとんどありませんからね。俺と姫さんだけならともかく、他の人達と上手く連携を取れる自信がぶっちゃけありません」
俺は正直に答えた。何人いるか分からない敵を突破して真奈美さんを救出する。しかも時間制限付きで。そんな難しい任務を姫さん以外の誰かと連携しながらこなすなんて、できるわけがなかった。それならまだ姫さんが言っている通り、四人別々に突っ込んでいった方がマシだ。
「わかった。それでは、二手に別れよう。私とジンが正面から。勇樹とカレンは背後から攻める。それでいいな?」
「了解」
三人の声が綺麗にそろった。それが一番無難な選択だって皆が理解していたからだ。
『〇六:三七』
クソ。ここまで来るのにかなり時間を消費しちまった。後六時間半の間に敵を殲滅して真奈美さんを救出しなければならない。誰か一人でも脱落したら終わるな。
思わず息を飲んだ。緊張がびりっと走り抜ける。
「まずは森川君を救出するのが先決だ。時間がないが、無茶はするな」
局長、それこそ無茶だ。ここで無茶できなきゃ男が廃る。
「……武運を」
俺はきちんとした啓礼の形を取り、局長とジンさんを見つめた。二人は軽く頷き、一足先に駆けて行く。すぐに爆発音が響いた。こんなにもあっさり幕は上がるのかと、少し投げやりな気分になるのを懸命に抑えた。
「行きましょう、姫さん。二人が敵の注意を引き付けている今がチャンスです」
俺は剣を引き抜き、じっとエーゼ島を睨みつけた。とにかくまずは内部へ侵入だ。そこでなんとしても真奈美さんを、
「ぐはっ!?」
え、なんだこれ。
突然の衝撃に、俺は盛大に身体を地面に打ち付けた。一瞬敵襲を疑ったが、すぐに慣れ親しんだ感触に気づく。
「ど、どういうつもりですか、姫さん!?」
「ムカついたから」
「はあ!?」
そう、犯人は誰あろう姫さんだった。いや、何してるんだこの人。今から一世一代の大勝負をしようって時に仲間を蹴る人がいるのか?いくら姫さんだって信じられねえよ。局長が仲間割れしてる場合じゃないって言ってたの聞いてなかったのか!?
「姫さん。いくら姫さんがする事でも今は許せません。俺を解放してください。俺達も早く行かないと」
「嫌」
「姫さん!」
非難がましい俺の声に、姫さんは冷ややかに俺を見下した。意味がわからない。姫さんはエルドラドが大嫌いなはずなのに、真奈美さんが攫われているのに、どうして今、そんな顔で俺を見るんだ。
「わからないの? いつにもまして愚鈍ね。そんな理性を飛ばす寸前の顔してる奴をそう易々と戦場に連れて行けるはずないじゃない」
「姫さん、今はそんなのどうでもいいんです。時間が!」
「そうね。でもそれが何? どうしてあんな女のいいように動いてやらなきゃいけないの。そんなにモリカワさんが大切?」
「当たり前でしょう。真奈美さんは俺達の仲間でっ」
「だったら、私達が動くのはまだ早いわ。援軍に遭遇したら一斉に飛び出したのと同じよ。後十二分は待機するのが妥当ね」
「それは」
言い淀む。姫さんは淡々と事実を述べ、じっと俺を見ていた。熱がすっと引いていく感覚がする。血の気が引くっていうか、頭に昇っていた血がすっかり消え失せたといった感じだ。眼前ではわらわらと群がる敵の姿があった。今はまだ、新手に警戒し組織だった動きを取っている。姫さんの言う通り、まだ動かない方がいい。
そんな当たり前の事に、俺は姫さんに言われて初めて思い至ったのだと気づいた。
「……お前が作戦も立てずに突っ込んでも何もいい事はないと、私に教えたのよ」
「姫さん」
「ねえ、モリカワさんがそんなに大事? 私のことも見えなくなるくらいに?」
暗に思い出せと言われていた。俺の強みは何か。今の俺がどんな状態にあるのかを。
「……すみません。俺、また焦りました」
「全くだわ」
姫さんが怠慢に足を引いたのを合図に、俺はゆっくりと起き上がる。
「でも今は時間がないから罰は後回しにしてあげるわ。次の休みには私をエスコートしなさい。財布は全てお前持ちよ」
「今それを言いますか」
「ええ。だってモリカワさんを救出したら、しばらくお休みがもらえるでしょう?」
簡単に、姫さんはこの先の未来を語る。そうしたのは、俺だった。俺が、最初だったはずなのに。
「じゃあ、そのためには確実に任務を成功させなきゃいけませんね」
俺は剣を収め、魔法陣を展開する事にした。こっちの方が都合がいい。既に魔法陣を展開していた姫さんが不敵に微笑む。
「当然よ」
そしてきっかり十二分後、俺と姫さんは、激しい戦いの中に身を投じたのだった。