序章 四部 【手創りのビーフシチュー】
シャルルという名前、出してから大分経った後で男性名であると知りました。
異世界ということで許してください。
なんでもry
目を開くと眩いガラス越しの太陽が網膜を焼いた。
その暴力的な光線を手で遮り体を起こす。
「んん、ここは……」
寝ぼけながら柔らかいベットの感触とブランケットの温もりを確かめる。
その幸せな時間を噛み締めながら目を閉じ惚けていると徐々に記憶が鮮明になっていった。
「そうだ……俺はナイフで刺されて…………それで…………」
それで、ここは何処だろうか。
目を開き窓の外を眺めると森に囲まれた湖が木漏れ日を乱反射して美しく輝いていた。
遊園地ではない、ということは誰かがここまで運んでくれたという事になる。
一体誰が……
そう思った時、体の違和感に気づいた。
刺されたはずの腹部の痛みが全くなくなっていたのだ。
いくら適切な処置を施したとしてもあれだけの傷を負っておれば多少は痛むはず。
自身の洋服をたくしあげ、焦りながらその傷口を確認する。
そこには縫合痕、傷跡こそないものの、それよりもはるかに不気味なものがあった。
筋肉質な腹部に巻き付くように刻まれた黒い文様。
脈動し、ときに赤黒い輝きを放つそれはまるで無数の血管で作られた様だった。
「なんだこれ……」と一人で困惑するノエルの耳元を蠱惑的な囁きがなぞる。
「おはよう。よく眠れた?」
「おわっ!?」
突然の少女の声に体が反射的に跳ね上がり、素っ頓狂な声が部屋に響く。
「面白い反応するね」
そこにいたのは一人の可憐な少女。
純白のワンピースを着た彼女はその美しい顔を歪ませて必死に笑いを堪えている。
その部屋着からは丈とサイズのせいで不用心と言える程に肌色が覗いていた。
そこまで稀薄ではない色白の肌。
露出が多いにも関わらず良い意味でそこに人誘惑するような妖艶さはない。
そこにあるのはただ、人を感嘆させる程の透明感と美貌だ。
どこの誰とも知れぬその少女に文句のひとつでも言ってやろうと思った時、その琥珀色の瞳と目が合った。
──「あ……」
そこで全てを思い出す。
怪物の事、そして手を差し伸べてくれた少女の事を。
「君が……助けてくれたのか?」
「シャルル・フォーサイス。それが私の名前」
シャルルはにっこりと微笑むとノエルの隣に腰をかけながら語る。
「君をここまで運んでくるの結構苦労したんだよ?」
「本当に助かった、礼を言うよシャルル。俺はノエルだ。ノエル・ヴェルステッド。」
「そう、ノエルね。ノエルはあんな所で何してたの?」
「実は……」
ノエルは遊楽施設での全ての事の顛末を話した。
──────────
「…………それは災難だったね」
「全くだよ。」
思い出すだけで込み上げる不快感とやり場の無い怒りを言葉に込めて吐き出す。
もうあんな目に会うのは二度とゴメンだ。
「それで、これからどうするの?」
「見当もついてない……行く宛も情報もないしな」
ノエルが深い溜息をつく、それ聞いたシャルルとの間に僅かな沈黙。
「なら、暫くここにいない?」
沈黙を破ったのは彼女の言葉。
その表情には僅かな恥じらいと緊張の色が見え隠れしていた。
「いや流石にそこまで厄介になるわけには……」
ノエルの顔に浮かぶ困惑。
突然の提案からきたであろう、そんな表情を見せる彼にシャルルが慌てて言葉を走らせる。
「いいの。丁度話し相手が欲しかったところだし…………そう!私が情報を君に教える代わりに君は私の話し相手になる、っていうことでどうかな?」
「それ交換条件になってないような気がするんだが……」
怪しすぎる。
なにか魂胆があるのか。
だが彼女にそんな器用な事ができるとは思えなかった。
短い時間の中だが彼女の言動に天然のそれが見え隠れしていたからだ。
「深く考えるだけ損だよ、情報ほしいんでしょ?」
「それは……確かに。…………命が懸かってるとも言えるな」
それは覆しようのない事実。
知識は時に武器に、時に生命線となる。
ましてや未知の土地である場合は尚更だ。
「なら決まり。知りたい事沢山あると思うけど、とりあえずご飯にしよっか」
彼女はそう言いベッドから立ち上がると部屋の扉をあけてノエルを一階へと案内した。
その背中はどこか嬉しそうだ。
小さい階段を降りながらその内装を観察するとこの建物が木造の小屋、コテージと呼ばれるそれであることが窺い知れる。
森の中にある湖畔のコテージ。
それがこの場所の全容だった。
一階のリビングへ降り、建物の素朴さに合わせて作られた木製のテーブルに対面する形で二人は腰をかけた。
改めて向かい合った影響からか気まずさが空間を支配する。
しばらくの静寂。
またもそれを切り裂いたのは彼女だった。
「何が食べたい?」
その言葉は淡白だが抑えきれない興奮から少しだけテーブルから身を乗り出している。
その目は爛々と輝き、まるで主人に懐いた犬のようだ。
うれしそうなその姿に大きく振れる尻尾を幻視しそうになる。
「君に任せるよ」
料理が好きなのだろうか、だとするならば本人のオススメを食べてみたい。
そう考えた上での選択権の譲与。
それを聞くと困ったような口振りで
「なんでもいいが一番大変だよ」
と言う彼女だったがその体から誤魔化せない程の快哉の感情が滲み出ていた。
しばらく頭を悩ませた後、まるで子供のように、無垢にその口を開く。
「じゃあ、ビーフシチューね!ちょっと待ってて今創るから」
そういうと彼女はリビングの奥へと姿を消した。
「ビーフシチューか。確かにそれならはずれることは…………」
──あ…………
意味の無い独り言を呟いた時、彼はある事に気がついた。
──何故自分はビーフシチューという料理を知っているのか。
それは単純かつ真理的な発見。
彼の記憶は目覚めた瞬間の遊園施設から始まった。
それ以前の記憶はさっぱり消えているはず。
勿論ビーフシチューなどというものを食べたことはおろか聞いた記憶すらない。
だが彼はその存在を、味をしっかりと認識していた。
「どういう事だ…………」
思ってみればこの記憶喪失は少し不可解だ。
物の名称は理解できるがこの世界に関する記憶、自身の過去について全く覚えていない。
それはまるで《《他意で選ばれた記憶》》だけに厳重な鍵がかけられた様な感覚。
自分の記憶喪失には重要な何が隠されているような気がした。
「まぁ、考えても仕方ないよな」
そんな小難しい事を考えた後、一息つくと先程まで一緒にいた美しい少女の事をふと思い出した。
そして今の状況を初めて客観的に分析する。
美しいコテージの中で美女と二人きり、そして先ほどの彼女の言葉。
──ビーフシチューね。ちょっと待ってて今作るから
その言葉が意味すること、それはつまり……
「美女の手料理……っ!」
出会って間もない少女とは言え、女子の手作りである。
湧き上がる感情は言わずもがな。
そんな健全な男子の感動を与えてくれた自分の脳を初めて褒めたいと思った。
そんな煩悩に塗れた想像をしていると、
彼の目の前のテーブルの上に二つのビーフシチューが出現した。
「………………」
テーブルの上にビーフシチューが出現したのだ。
──……………………は?
愕然とそれを眺めるノエルに奥から戻ってきたシャルルが怪訝そうな顔で尋ねる。
「どうしたの?」
「虚空からビーフシチューが…………」
「あらら、記憶喪失相当酷いね。まぁ後で説明してあげる。普通のビーフシチューだから安心して?」
少女は笑顔で手に持っていたスプーンを皿に添えると向かいのシンプルな椅子に腰をかけた。
──いただきます
その謎のビーフシチューを何食わぬ顔で口に運ぶシャルルを眺めた後、ノエルはスプーンでその暗褐色の液体を掬い観察する。
肉に人参、玉ねぎ、ジャガイモ、エトセトラ、入っているものは至って普通。
その他にもおかしな点は見当たらない。
だが踏ん切りがつかずスプーンを目の前にして手を拱くノエル。
そんな様子を見つめるシャルルの視線が心做しか時間を追うごとに鋭くなっていくのを感じる。
もうどうにでもなれ。
意を決して、恐る恐るそれを口に運んだ。
それは肉の旨みが全て溶けだした様な濃い味、それでいて各野菜の味がしっかりと生きていた。
そう、一言で表すなら
「………………うまい」
想像をはるかに超えるその味に思わず感嘆の声が漏れる。
気づかないだけで体は相当な空腹状態にあったのだろう。
その美味も相まって食べる手が止まらない。
「ん……それで……っ……どういうトリックだ?」
「うん、美味しいのはわかるけどさ。とりあえず飲み込んでからしゃべりなよ」
行儀が悪いと諭された彼は口の中のそれを急いで咀嚼しのみ飲む。
「悪い。本当にうまいよ、これ」
「でしょ?それで?」
「いや、なんでいきなりビーフシチューが……」
「あぁ……それは一言では説明し切れないんだけど、無理矢理簡単にまとめるなら…………
この空間は私の思いのまま……って感じかな」
「なるほど。考えるな、感じろ。という事か」
「追い追い説明するから今はそうしてくれるかな?」
「寧ろわかりやすい、つまりお代わり自由って事だよな?」
都合のいい解釈をし、彼は図々しく追加の要求をする。
「はいはい、まかせて」
そう言い席を立つとシャルルの姿が再び奥へと消える。
数秒後、食べ終わった皿が粒子となって消滅し、新しいビーフシチューが出現した。
──商売あがったり……
目の前の光景を見てノエルは冷静にそう呟くのだった。