2 タゲテスの毒
うおお、遅刻してしまいました。すみません……。
ソリタスの転移門から出て左の方に向かうと、厩舎が三棟並んでいるのが見えた。
本当にあった……。
アマンダは教わったとおり、厩舎の隣に建つ小屋に居た男と交渉し、銀貨八枚で馬を一頭借りた。それとは別に保証金として金貨を十枚預けた。
相場がわからなかったが、保証金は馬を返せば戻ってくるというので、こんなものかとも思う。
カサカサの声のあの男は、こんな辺境の事まで知っているのか。
それとも偶々知っていただけか。
辺境の街を出てから、街道に沿って更に山の方へと馬を走らせた。
追い越した、ということはないだろう。理由もなく、あの男はもう湖の辺りにいるような気がする。
要領が良さそうだものね、と思ってからアマンダは、自分があの男の顔も名前も知らない事に気づいた。
どうせこれっきりなんだし、どうでもいいわ。
街道は一本道、とはいえ初めて走る道だ。ついつい用心深く走っていたかもしれない。太陽はもう中天を過ぎている。
ふと気づくと街道の遥か先、少し道を逸れたところに黒い馬車が見えた。その横に立つ黒いローブも。
アマンダはゆるゆると馬のスピードを落とした。男の前でヒラリと降りると、へぇ大したもんだ乗りなれてるな、とカサついた声で称賛された。
「……馬は、好きだわ」
私をバカにしたりしないし。
口にしなかった言葉は、もしかしたら男に届いたのかもしれない。
「馬じゃなくても、お前さんみたいなキレイなお嬢さんを好きな奴はたくさんいると思うけど?」
「誰でもいいわけじゃないでしょ」
「違いねぇ、選ぶ権利は勿論ある」と男は笑った。
なぜ私はこの男と、こんな話をしているのかしら。
アマンダの髪はくすんだ茶色だ。そうとしか表現のしようがない色で、あまり好きではない。
けれど、舞踏会や夜会などに行くと肌の色も相まって、異国風で美しいと誉めてもらう事も多い。
だからどうだというのか。
何百人が誉めてくれるより、私のたった一人に誉めて貰えたらそれでいいのに。
ふと、夜会で時々見かけるアッシュグレイ様を思い出した。ユリアス様とまったく同じ色のプラチナブロンド。
私は一体何に執着しているのだろう。
あの美しいプラチナブロンドに?
それとも──?
何がツボに入ったのか、まだクツクツと笑っている男を見てなんだか肩の力が抜けた。
そういえばこの前会ったときもよく笑っていた。
実は笑い上戸なのかもしれない。
「さあ、そろそろ仕事をはじめようぜ。残りの金は持ってきただろうな?」
男の言葉にアマンダは腰に巻きつけた袋を指した。
「全部終わってからよ」
「そろそろ信用してもらってもいいと思うんだがね?」
気を悪くしたような雰囲気のやはり顔は見せない男に、ソリタスを出たあと馬上で気づいた事を思い出した。
「あいにく、顔も名前も知らない相手を信用するほどお人好しじゃないの」
ツンと顔を背けるアマンダに、男は「やっぱあんた面白いわ!」と、また笑ったのだった。
フェリシアは馬車の中で、座席に腰かけた格好で上半身を座面に臥せてグッタリと寝かされていた。
「湖に行くなら、ここで街道を逸れて林を抜けるのが一番早い。但し馬車は使えねぇ」
「このまま街道沿いに進んでも、どうせ最後には馬車は使えなくなるのでしょう?」
「そういうことだ」
「ならここから向かうわ」
頷いたアマンダは手綱を馬車近くの樹に括りつけた。
「このお嬢さん、起こすぞ」
馬車の中から聞こえた声に、慌てて覗き込む。
「大丈夫なの?」
「今までも1日二回は起こしてた。床擦れなんかつくったら可哀想だし、食事はともかく水くらいは飲ましてやらねぇとな」
なぜだかムッとしたアマンダが、随分お優しいことね、と突っけんどんに答えると、その方があんたも安心だろ?と返ってくる。
意味がわからない。だいたい、いつの間に『あんた』呼びになったのよ。
むくれるアマンダをよそに、男はフェリシアの横に屈み込み耳許で何か囁いた。
フェリシアの肩がピクリと揺れる。
アマンダの心臓がドクンと跳ねた。
どこか虚ろな表情のフェリシアは、男に手を引かれよろめきながら馬車を降りてきた。
アマンダを視界に映しても特に反応はない。
「今はまだ半分寝惚けてるようなもんだ。手を引きゃあ歩ける」
言葉通り、男はフェリシアの手を引き林の中を、まるで目印があるかのように淀みなく歩いた。
フェリシアはヒラヒラした寝間着のままで(当たり前だ、寝ているところを拐ってきたのだ)不釣り合いにしっかりした靴を履いている。男が買い与えたのかもしれない。
男の背を見ながら進むアマンダは、足元が少し疎かになっていたらしい。
何かにつまずき小さく悲鳴をあげた次の瞬間、前を歩いていた筈の男の腕に支えられていた。
「あ、ありがとう」
消え入りそうな声でアマンダが礼をいうと、男は反対側のフェリシアと繋いでいる方の手を持ち上げて、「俺はこっちのお嬢ちゃんだけで目一杯なんだからしっかりしてくれよ」と言う。
そのくせ、アマンダが体勢を整えるまで支え続けてくれるのだ。
次は失敗しまい、と足元を気にしながらついてくるアマンダに、男は話しかけた。
「なぁ、なんでわざわざあんな湖に連れて行くんだ?」
問われてアマンダは一瞬詰まった。自分でも明確な答えがないことに気づいた。
「……あそこは、あの湖はその娘の婚約者の所領なのよ」
ふーん?と微かな声が戻ってきた。
自分でも、それがどうした?って気がする。なんとも微妙な沈黙が残り、狼狽えたアマンダが口を開こうとしたとき、男が言った。
「あんたは、その婚約者にも恨みがあるんだ?」
そんなこと考えた事もなかった。私がユリアス様を恨んでいる?まさか?
黙り込んだアマンダに、男は言葉を被せる。
「もう少し進んだら、視界が開けて湖が見える。上は透き通って見えるが底の方は澱んで泥々の毒の水だ。獣も鳥もあそこの水は飲まない」
アマンダは目を見開いた。
「どうしてそんなこと知っているの」
「湖の向こう側に、今はもう廃坑になった鉱山がある。そこから出た毒が湖に流れ込んでいるんだ。俺たちの間じゃ『死の湖』で知られてる」
余所者が異国で生き延びるためには無駄な知識なんかないんだ、と男は言った。
フェリシアは相変わらず、フラフラした足取りで男について歩く。そこにはあの、陰険で小憎らしい女はいなかった。
私はフェリシアをどうしたいんだろう。
お母様は、私の好きなようにすればいいと言った。
何でもやってくれる男を連れてくるから、私の気の済むようにすればいい、と。
王都にいたままで、身体を痛めつける事も、心を傷つける事も、望めば両方でもできた。
わざわざこんな手間をかけて、こんなところまで連れてきて私は何をしたいんだろう。
もう何も語らないまま、黙々と歩いた。靴底で踏まれた小枝がパキリと音を立て、ガサガサと枯葉を踏みしめて進む。
木立の向こうに煌めく光の反射があった。
思わず走り寄ろうとしたアマンダの腕を、男がグッと握った。
「!?」
男の片手で包み込めてしまうくらい細い私の腕。
思わず振り返ったアマンダに男は言った。
「それ以上近づくな。結界が張られてる」
「けっ……か、い?」
「あんたも器があるんだろ?落ち着いたらわかるはずだ。恐ろしく緻密な条件付けの結界を、信じられん位ぞんざいに張ってある」
これ程分かりやすくしてあるのはこれ以上入ってくるなって威嚇だ、と男は唸った。
「こんなのは見たこともないし、入ったらどうなるかも分からん」
アマンダは湖を、視た。
キラキラと、レースのように細く煌めく光の糸が湖を覆っていた。
さっき湖が光っていると思ったのは、これだったのだろうか。
それならこれは、ユリアス様がつくられた結界なのだ。
まだ掴まれたままだった腕を振り払い、覗き込むように男を見上げた。
今、初めて男の顔が見たいと思った。
咄嗟に顔を背けた男に、落胆しつつアマンダは言った。
「フェリシアを、元に戻してちょうだい」
「あんた顔色が真っ白だ。大丈夫か?」
大丈夫なわけないじゃない。
でももう、引き返せないところまで来てしまった。
震える足に力を込め、地面を踏みしめる。
そんなアマンダを見て、男は呆れたようにため息をついてみせた。
湖から少し離れた林の中の、枯葉が積もった上にフェリシアを座らせた。
男はその前に膝をつき、腰を屈めてフードを僅かにずらし視線を合わせる。
「シーリィン、目を覚ませ」
カサついた声で名を呼んだ。
シーリィン……。それがフェリシアの真名。
フェリシアはパチパチと瞬きした。それから目の前のフードを被った男を睨み、用心深く視線だけで辺りを見渡した。
そこにいたのは、アマンダがよく知るフェリシアだった。
フェリシアはすぐにアマンダに気づいた。
「アマンダ……お…姉様!?どうして?その格好は……、ここはどこ?」
いつも取り澄ましているフェリシアの素が一瞬見えた気がして、思わず口元が綻んだ。
「ここが何処だろうと、関係なくてよ」
はぁ!?とフェリシアは顔をしかめた。
「何考えてんの?こんなことしでかして、どうなると思ってんの?」
ああ、これがフェリシアだ。私には決して見せなかった本音のフェリシア。
睨み付けてくるフェリシアは、どうやら身体を動かせないようだった。拘束している訳ではない。最初は男が何かしたのかと思ったが、手足はモゾモゾと動かしている。5日間半分拘束されてたようなものだったのと、もしかしたら空腹なのかもしれない。
「私はね、貴女が嫌いなのよ。ええ、大っ嫌いなの!」
フェリシアを見下ろし口に出したとたん、それが言いたかったのだ、とわかった。
私もフェリシアと一緒だ。ずっと取り繕っていた。
それがどうした、と胡乱気に見詰めるフェリシアに言葉を投げつけた。
「貴女が嫌いだったずっと大嫌いだった貴女そんなに偉い人間なの?間違えた事はないの?人を見下して楽しい?笑い物にして面白いの?」
決壊したように叫び続ける私に、フェリシアは目を見開いた。
「私やエミリアが何かするたびに何か言うたびに貴女が心の中で私達をバカにしてため息をついていたのを知ってた!だって貴女何でも顔に出るじゃないこのバカまた何やってんのよってそんな顔いつもしていたわ!!」
フェリシアは両手を持ち上げ、自分の頬を撫でた。
「お姉、様……?」
「貴女がお姉様って呼ぶときどんな顔してるか知ってる?たまたま少し早く産まれたってだけでそう呼んであげてるんだから感謝しなさいってそんな目で見てたわ!バカはそうやって適当に持ち上げとけばいいってそう思ってたんでしょう!?」
フェリシアの口許が歪み滲んだ。
後ろから誰かの手が私の頬を拭った。
私は泣いているのか。
「ユリアス様と婚約してさぞかし得意だったでしょうよ。噂なんかに踊らされた私たちは滑稽だったでしょう!?あの噂なんだったか知ってる?私たちあのあと悔しくて噂の元を辿ったわ!あれはユリアス様の同級生が何をやっても勝てないからって嫌がらせで流した嘘だったのよユリアス様を知ってる人は誰もそんな噂本気にしてなかったわだからデビューもしていないような私たちの周りでだけ話題になっていたのよ」
フェリシアの眉が下がったような気がした。
私は一歩近づいた。
「ユリアス様と顔合わせしたあとプレゼントを届けられるたびに得意気な顔してみせびらかしに来たわね自慢してお礼のカードをかかなくちゃって笑ってたわ」
もう一歩近づいた。
フェリシアは近くの木を支えにヨロリと立ち上がった。
「私とエミリアがデビューしてから舞踏会や夜会に出かけるようになると焦っちゃって大変ねって笑って私たちがちょっと変わった顔立ちだからって男性方に取り囲まれてたらユリアス様に勝てる人はいないわって目でほくそ笑んでた」
フェリシアは大きく目を開き、フルフルと首を振った。
私はゆっくりと、手をのばす。
崩壊の時が、近づいていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
続けて次話、投稿します。
よろしくお願いします。