4 なくした記憶
噂の騎士団長様に自宅まで送って頂く、という世間一般のお嬢様方なら目がハートになりそうな出来事も、私にとってはそうではなかった。嫌なことを思い出したのだ。
「……ねぇ、メイシー。このままアッシュグレイ様に邸まで来てもらうのはまずくない?」
「?、けれど旦那様にご報告して、旦那様から改めてお礼を申し上げて頂くべきでは?」
それはそうだよ、メイシーちゃん。
それが正しいと私も思う。でもね。
「うちには女郎蜘蛛がいるんだよ!?」
一瞬考えたメイシーは、顔を強ばらせた。
「それは……、まずいですよね」
私が何を言わんとしているか、ちゃんと伝わったらしい。
「今日は夜会の予定などはなかったでしょうか?」
「昼間あんなに出掛ける気満々だったところを見ると、何も予定はないんじゃない?」
私はメイシーと二人で頭を抱えた。
女郎蜘蛛の巣に、アッシュグレイ様を放り込む訳にはいかない。
距離的に、邸はもう近い。
なんとか玄関前でこっそり帰ってはもらえないだろうか。
お礼は後日必ず致しますから!
私たちが苦悩していると、いつの間にか馬車が止まり外から小さな話し声が聞こえた。
思わず耳をすますと、馬車の窓を小さくノックされる。
慌てて窓を開けるメイシー。顔を覗かせたのはアッシュグレイ様だった
「失礼、フェリシア嬢。お邸がもうすぐそこなのですが、私がお邸まで同行すると大袈裟な事になりそうなので、男爵殿には後日私の方から詳しい経緯をご説明差し上げるとして、今日のところはここからお邸の門をくぐられるまでを見届けさせて頂きたく思うのですが、如何ですか?」
願ってもございません!私は心の中で万歳三唱した。メイシーもきっと心は一つだったはずだ。
アッシュグレイ様は約束通り私達の馬車が門をくぐり、施錠するまでを見守っていて下さった。
そして車寄せで私達が馬車から降りるとき、ヨハンが小さな声で言った。
「実は先程騎士団長様が、今日は他のお嬢様方の馬車を出す予定があるか、とお尋ねになられて、今日の予定はフェリシアお嬢様だけです、と申し上げたらあのように……。一体何だったんですかね?」
私はメイシーと顔を見合わせた。思わず口角が上がる。
お姉様方、どうやらアッシュグレイ様には全く相手にされていない、むしろ避けられているようですわよ。
今までどんなアプローチをされていたのだか。
ニマニマ笑う私たちを、ヨハンは薄気味悪そうに見て、何も云わず馬車を移動させた。
失礼な。
お父様はその日お帰りが遅く、詳細をご報告するのは翌日の朝になった。
「アッシュグレイ様は、たまたまご自宅に戻られる途中で襲われている私達と行きあわれたそうですの、私達幸運でしたわ」
あまり大袈裟にはされたくないようだった、とお伝えすると、また後日お会いしたときにでもお礼を云っておく、とお父様。
お父様はお城で、宰相様の下で外交関係の書類の作成、保管の仕事をされている。アッシュグレイ様とは部署は全く違うものの、同じお城勤め。顔を合わせる機会もそれなりにある、ということで後はお父様に丸投げすることにした。
「今後暫くは、出かけるときは護衛も連れていくように。アマンダとエミリアにも伝えておこう」
お父様はそう言うと、大きくため息をついた。
その顔色がとても悪いことに急に気づいて、私は吃驚した。
「お父様、具合がお悪いの?酷い顔色をしているわ」
まさか私のせいじゃないよね?確かに昨日、恨むとか呪いとか思ったけどあれは冗談だし、そもそも私はそんなスキルもってない。他国ではともかくあれはこの国では精々おまじない程度の扱いだ。
慌てだした私にお父様はヒラヒラと手を振った。
「気にするな、仕事関係で機密事項だから詳しくは云えないが、恐らくもうじき解決する」
仕事関係ということは、外交問題だろうか。そりゃ迂闊な事は言えないだろう。
せめてもと、食事と睡眠はしっかり取って欲しい、とお願いして後ろ髪ひかれる思いで部屋をでた。
こんな関係でもお父様はお父様なのだよ。
さて。
さてさて、昨日の昼過ぎから実はお姉様たちの姿を見ていない。
これは割と珍しいことかも。
お義母様は基本私に興味がない。
ただ単に興味無しというレベルでなく、本気で視界に入ってないと思われる。
──ので、たまにうっかり視界に留まったりすると、あら貴女居たの、とマジで驚かれる。
いやずっと同じ邸に住んでるんですけどねぇ。わざわざ声かけたりとかもしないけど、割とすれちがったりとかもしてるし?
そんなお義母様とは反対に、あの二人は隙あらば私にチョッカイを出してくる。二人一緒の時もあれば一人ずつの時もあるけど、最後はもう一人も合流してくるので結局二人になる。
仲良し姉妹ってやつ?
いやいや、これは絶対私っていう共通の敵がいるからだな。私が居なくなったとしたら、きっと揉め出すに違いないね。
ともかくそんな二人が私を放っておいてくれる訳がない。
特に昨日の事がばれたとしたら絶対に。
なんだか嫌な予感がしてきたので、さっさと部屋に戻ろうと踵を返した私にその声はかけられた。
「フェリシアさん、」
この声は……。
「──おはようございますお義母様、どうかなさいましたの?」
私にとってこの邸で一番遠い存在のお義母様だった。
おはようの挨拶通り、時刻はまだ午前中だ。貴族の奥方様がうろうろするには少し早い時間といえる。
私はまじまじとお義母様を見つめた。
今までこんな風に呼び止められた事があっただろうか。
お義母様は榛色の瞳を瞬かせた。
「夕べ、何か騒ぎがあったと聞いたのだけれど、あなた何かご存じない?」
奇妙な感覚があった。
夕べは確かに騒ぎがあった。
けど、それをお義母様の耳にいれたのは誰?
知っているのはメイシーとヨハン。
お父様にはたった今お伝えしたばかりだ。
メイシーは喋らない。ではヨハン?
厩から流れた噂がお義母様の耳にはいるのに、一晩というのは長い?短い?
「お義母様、その騒ぎというのはどなたからお聞きになられましたの?」
辛うじて平静を保ち、問うた私に、お義母様は全く表情の窺えない顔つきで仰った。
「そういったことは、今はさして重要ではないわ。私は貴女にお訊きしているのよ」
ああ、どうしよう。何だか酷く気持ち悪い。もうお父様にもご報告したのだし、特に口止めもされなかった。事実だけを告げて早くここを離れればいいじゃない、だけど。
じわりじわりと何かに絡めとられるようなこの気持ち悪さ。
「どうなさったの、フェリシアさん?」
この人こんな感じの人だった?お父様いったい誰と再婚したの?
お義母様はねっとりと微笑む。
「ねえ、どうなさったの?顔色が、悪いわよ□□■■□」
ああ、それは……。どうしてそれを……。
視界がぐるぐる回り、吐き気を感じた。なぜだか、女郎蜘蛛の母親はやっぱり女郎蜘蛛なんだな、と頭をよぎり、立っていられなくなって膝をついた私は、そのまま気を失ったのだった。
ぱちりと目を開いた私の視界に、真っ先に入ったのはメイシーだった。
「わ!何?どうしたの?私寝坊した?」
私の残念すぎる第一声を聞いて、メイシーは破顔した。
「お、嬢様。大丈夫、ですか?」
笑いながら、涙を流すメイシー。
さすがの私にも、これがおかしいって事はわかる。
私は、慎重に口を開いた。
「ね、メイシー。何があったの?私はどうなったの?」
「奥方様とお話し中に倒れられたのですよ。お医者様にも来て頂いたのですが、頭も打っておらず特に問題は無さそうだと。なのにもう2日、目を覚まされず……」
ああ、そりゃ心配かけて申し訳なかったわ。ごめんね、メイシーちゃん。
てゆうか、奥方様ってお義母様?と話してた、って何を?
あり得ない。
お父様のところへ行ったのは覚えている。顔色が悪かったことも。
あと何か考えてた気がする。女郎……蜘蛛?お姉様達の事?
頭を抱えて考え込む私に、メイシーはぐいっ、と涙を拭って言った。
「ともかく奥方様をお呼びして参ります。目の前でのことでしたものね。とても心配されて、気がつかれたらすぐ知らせるようにと申しつかっておりますので」
あとお医者様ももう一度来ていただきます、とまるでお医者様がついでのように言い残し、メイシーは部屋を出ていった。
私とお義母さまが話を……?
全くわからないんだけど?
そのあとすぐやって来たお義母様には、なんだか訊問のように色々訊かれた。
でもとにかくお義母様と会ったことすら覚えてないんだから。
で、結局お義母様と何の話をしてたのかもわからなかった。
途中でお医者様が乱入してこられたので。
お医者様に、一部記憶の混濁があるようだが記憶が戻るかどうかはわからん、と実に清々しく言い放たれ、馴染みのそのおじいちゃん先生に、少し耄碌してきたのでは、というような事をオブラートに包んで申し上げたら頭に拳骨を落とされた。
先生、今私は頭に障害があるかどうかの瀬戸際なんですけど!?
いえ、いらんことを言う私が悪いのですよね、ごめんメイシーちゃんも怒らないで。
おじいちゃん先生が帰ったあとはアマンダとエミリアがいつも通りセットで現れて、私はもはや相手をする気力もなく耳にエアー耳栓を突っ込み、二人の口が閉じるたびに、まあそうですの、とか、あらそうなんですね、とか繰り返していたら、頭から湯気を噴いて出ていった。
この手は今度から使えるかもしれない。エアーでなく、本物の耳栓を作っておこうかな。
その日最後に私を訪れたのはお父様だった。
仕事が終わって、帰られてすぐに部屋へ来てくださった。
あと1日は部屋から出ずに様子を見るように、とおじいちゃん先生から言われたにもかかわらず、つい部屋を脱け出して邸の中を彷徨きメイシーに叱られたりしていた私なんかよりもよっぽど酷い顔色のお父様に、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
お仕事以外の事でまで、ご心配をおかけしてしまった。
「もう体調はいいと聞いたのだが……」
はい、倒れる前のことが気になって邸をうろうろしたのみならず、ついうっかり厨房へ立ち寄ってコッソリおやつをせしめてきてしまったくらいには元気です。あ、もちろんメイシーには内緒ですとも。おやつのことまではバレていないはず。
「倒れる前のことを何も覚えていないというのは本当か?」
私はきょとんとした。そんな嘘をついて何か意味があるのか?
「アルダと何を話したか、全く覚えていないか?」
重ねて問われるお父様を、私は怪訝に見つめた。
アルダ、というのはお義母様の事だ。
「お父様?何をお知りになりたいの?」
私とお義母様が話した内容を知りたいのなら、覚えていない私なんかよりお義母様にお訊きした方が早い。
そういうとお父様は目頭をグリグリと揉みほぐされた。
あれに訊いても意味がない、と不思議な事を言われ、それがあまりにも落胆して見えたので私はつい自分でも確信の持てない事を答えてしまった。
「そういえば、ですけど倒れる前にお姉様達の事を考えていた気がしますわ。ですからもしかしたらお姉様達の事をお話していたのかも」
正確には女郎蜘蛛だけど、私の中では女郎蜘蛛=お姉様なので間違ってはいない、と思う。
お父様は「ふむ」と唸り、あとは雑談めいた言葉を交わしてご自身の部屋へ戻って行かれたのだった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。