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明治あやかし譚  作者:
第二話 人ならざる者
9/15

3.



 それは、晩餐会前日の出来事であった。

 今日の神戸の天気は珍しく晴れていた。久しぶりに太陽が輝く空を見られて、アリアは喜ばしく思った。やはり日本はこの晴れやかで穏やかな気候が一番似合っている。今日は何をしようかと考えながら、アリアは邸宅の中を練り歩く。

 しかし、世話役のヒルダは朝から体調が悪くて自室で横になっていた。聖曰く、暑気中(しょきあた)り、現代で言う夏バテになったそうだ。この時期の日本は暑いから体調を崩すことがよくあるらしく、異国から来たヒルダたちならなおのこと、日本の気候に慣れず、倒れることはやむを得ない。

 せっかくの天気なのに外出できないのはアリアにとっては残念である。仕方なしに彼女は聖の部屋を訪問することにした。

 彼は午前中、何かと自室に籠もっていることが多々ある。それは聖の生業である陰陽師が関わっているのか、それとも……。

 訊ねたが聖は頑なに教えてくれなかった。

 ゆえに俄然興味をひかれる。誰が、彼女の知的好奇心を抑えることができるだろうか。アリアは軽やかな足取りで階段を下りた。

 聖の部屋は階段脇の物置然としたところだ。そんなところに寝起きしなくても、エインズワース邸には部屋が余っている。しかし居候の身だから、と言って聖は引き下がったのだった。謙虚で遠慮がちなのは日本人の性質なのだろうか。

 そんなことを考えながら、アリアは静かに聖の部屋の前に立った。さすがにノック無しで入れるほど、神経は図太くなかった。それに突然の訪問に驚く彼の姿も見てみたい。

 ふふっと小さく笑いながら、アリアは拳をつくる。そして扉をノックしようとしたとき……。

「お前はまた勝手に!!」

 扉の向こうから怒鳴り声が響き、アリアはビクリと体を震わせた。ぱちぱちと目を瞬いて、扉を見つめる。

「……も、もしかして、バレた?」

 今の声は間違いなく聖であり、それも聞いたこともない声音であった。何やら機嫌が悪い様子である。アリアは怖くなって、恐る恐る扉を叩こうとした矢先、扉の向こう側から声が漏れた。

「意地悪しないでくださいよー、あたしと聖さまの仲じゃないですかー」

「へっ?」

 再び腕が止まる。

 媚びるような甘い声。それは間違いなく女性のもので……。

「え……は? えっ? セイしかいないよね……?」

 だってここは聖の部屋で、聖は一人身だし……。

「お前っ、ほんと、いい加減に……!」

 なおも口論は続き、どんと大きな物音と同時に「あんっ」と甘い声が響いた。

「んっ、聖さまったらこんな昼時から……、だ・い・た・ん♡」

「なっ! 何やってるのっ!!」

 我慢できなかった。

 アリアはバンと扉を開いて部屋に侵入し、驚愕に目を剥いた。

 壁際にある小さなベッド。乱れた白いシーツの上には一組の男女がいる。女は、着崩れた着物など気にせず、恍惚とした表情を浮かべている。男は、女に馬乗りになって、女の手首を掴み、怖いぐらい真剣な表情で女を見下ろしていた。

 両者はアリアに振り返った。男――聖の表情は瞬く間に青ざめる。

「あ、あぁ……っ」

 口から漏れた声はもはや言葉になっていない。しかし体は動くようで素早くベッドから下りて、必死になって両手を振った。

「やっ、これは……ち、違うから……!」

 聖は家の中では珍しく、白のワイシャツにズボン、脚は長靴ブーツで固められている。どこか出かけるつもりだったのだろうか。

 アリアは妙に冷静な頭でそんなことを考えていた。

 蒼白な表情を浮かべる聖が近づいてきたとき、アリアは我に返り、顔を真っ赤にして悲鳴を上げた。

「セイのへ――ンッ!?」

 叫んだ途端聖に口を覆われた。聖は申し訳なさそうに顔を歪める。

「お願い。これは秘密にして」

 何をふざけたことを! とアリアは涙目で睨みつけた。しかし、切羽詰まったような形相は変わらず聖は訴える。

「本当に何もないんだ、伊津奈が勝手に出てきただけで……やましいことなんてないから。信じてくれ」

「……」

 漆黒の瞳は真摯に輝き、必死さを物語っている。それにアリアは見惚れてしまい、思い出したようにこくりと頷いた。

「ありがとう……」

 安堵の息をき、聖はアリアの口元から手を離す。疲れたように壁にもたれる彼を見つめながら、ふと自分の唇に指を当ててみた。

「あのー、あたしのこと忘れてませんかー?」

 間延びした日本語にアリアと聖は振り返る。そこには、ぷくっとあざとく頬を膨らませた少女が立っていた。

 山吹色の髪に、子犬のようなくりっとした大きな琥珀色の瞳。目鼻の整った容貌で可愛らしい。しかし服装が異様である。肩口が大きく開いた丈の短い着物に、膝上まである足袋。足には黒漆の塗られた下駄を履いていた。

 日本人らしい顔かたちであったが、髪色と服装が奇抜である。アリアはしらっとした目つきで彼女を眺め、そして驚愕した。

「みっ!? みみみ、耳ッ!?」

「ん? あ、これのこと?」

 アリアが指差した先は少女の頭部。そこにはひょこひょこと動く動物の耳のようなものが生えていた。少女が首を捻ると耳らしき物体もくねっと曲がる。アリアはますます目を剥いた。

「な、なななっ……!!」

「落ち着いてアリア。大丈夫だから」

「だ、だだだ大丈夫なわけないでしょ!? 何なの!? 一体!」

 英語交じりに聖に返答すると、少女がにやっと笑ってその場で一回転してみせた。

「ちなみに尻尾もありますよー」

「ヒッ!!」

 少女の腰あたりから伸びるのは間違いなく、動物の尾だ。アリアは腰を抜かし、危うく床にへたり込みそうになった。すると聖が背中に腕を回して支えてくれた。幸い、転ばずに済んだ。

「しっかり。ごめんね、驚かせて」

「説明してっ!」

 涙目と鼻声で訴えると、聖は少女を振り返った。

「伊津奈、アリアを怖がらせるな」

「別に怖がらせてませんよ。ありのままのあたしを見せただけですよー?」

 少女――伊津奈はひょこひょこと耳と尾を動かせて、愉快そうに笑う。

 聖はアリアを支えたまま大きくため息をく。腰に回された彼の手に力がこもるのが伝わった。

「あのな。アリアはただの人なんだぞ」

「そんな理由で庇うんですか?」

 当然だ、と聖は言い捨てて、再びこちらへ振り返った。

「アリア、時間あるかな? ちゃんと説明するから」

「え。う、うん……」

 不承不承と言ったふうに頷くと、聖はアリアから離れて伊津奈に目を眇める。

「これ以上、アリアに余計なことするなよ」

「そんなにその娘が大事なんですかー?」

 にやにやと笑う彼女に、聖は淡々と言う。

「彼女は部外者だ。それと、出かけるから姿消せよ」

「了解です!」

 伊津奈は答えながらも、聖の上着と直刀を手にして彼に手渡す。聖は上着を着てから直刀を腰の剣帯に吊るした。

 手馴れた様子の二人に、アリアは眉間にしわを寄せた。

 すると、伊津奈がとてとてとこちらへ近づいてきた。屈託のない笑顔を浮かべる彼女に、アリアは思わず身構えてしまう。

 伊津奈はにこやかに訊ねる。

「あなた、名前は?」

「わ、私はアリア。アリア・エインズワース」

「アリアちゃんかぁ。……異人さんなのに日本語上手だねー?」

「勉強したもの。わからない言葉はあるけど不自由はしないわ」

「異人さんは綺麗で羨ましいなー。髪は黄金色で、瞳は空色なんだぁ……」

「あ、ありがとう」

 戸惑う。初対面なのに、伊津奈はすごくフレンドリーで距離感が掴めなかった。そして、ヒルダ以外で同年代の同姓と話すのは久しく思えた。

「伊津奈、自己紹介なら後だ」

 聖がドアノブに手を掛けてアリアを振り返る。

「悪いけど付き合ってくれない?」

「……外じゃないとダメなの?」

「ちょっと用事があって……ごめん」

「あなたの仕事に関係すること?」

 そう訊くと、伊津奈が「あれっ?」と首を捻り、こちらの顔を覗き込む。

「アリアちゃんは、聖さまが十文字一族であることを知ってるの?」

「ジュウモンジってセイのラストネームよね。……うん知ってるよ、オンミョウジだってことも」

 伝えると彼女は黙り込み、大きく目を見開いた。しかし即座にぐるりと体ごと聖に向き直って、ジロリと睨みつける。

「聖さま、この子はただの人間じゃなかったんですか?」

 棘のある声音である。さきほどの明るくて元気いっぱいの様子は消し飛んだ。視線と声音に聖は焦ったように目を泳がせた。

「いや、まぁ、成り行きで……その……」

「機密事項ですよ、特にあなたの素性は。以前の霊魂のせいですか」

「でも、巻き込んだのは事実だから……」

「あなたって人は……」

 やれやれと言ったふうに伊津奈は首を振る。が、ぱっと表情を変え、着物の袖で目元をおさえてぐずりと鼻をすすった。

「それにあたしというものがありながら浮気なんて……」

「お前なっ、からかうのもいい加減にしろ」

「けっこう本気なんですけどー」

 頬を膨らませる彼女から不機嫌そうに目を離して、聖はドアを開けた。

「ともかく出かけるぞ」

「は~い」

 伊津奈は呑気に答えて、アリアを振り返った。

「行こ? アリアちゃん」

「う、うん……」

 笑顔でこちらに手を差し伸べてくる。しかしアリアは素直に足を進められなかった。

 目の前にいる伊津奈という少女は確実に人間ではない。山吹色の髪の間からはふさふさの耳が伸びていて、腰あたりからはもふもふとした触り心地が良さそうな尾が生えている。

 こんなにも早く“人ならざる者”と出会えたのは幸運だろうか。しかも身内から。彼女が一体全体何者なのか気になるが、その前に問いただしたいことがアリアにはあった。

「ねぇ」

「ん、なにー?」

 部屋を出る聖を追いかける背中にアリアは呼びかける。伊津奈は振り返りもせずに出て行こうとするので、アリアは慌てて駆け寄った。

 側に寄ると、伊津奈は可愛らしく小首を傾げてこちらを見つめる。

 アリアは決心して大きく深呼吸をしてから、彼女の琥珀色の瞳を見て訊ねた。

「……セイとはどういう関係なの」

 すると伊津奈はぱちくりと目を瞬いて、そしてにやっと口の端を上げた。

「そこ、気になりますかー?」

「えっ、う……、す、少しだけ……」

 改めて自らの質問を顧みると恥ずかしくなり、語尾がすぼんだ。

 しかし伊津奈は気にする様子もない。伊津奈は楽しげな足取りで、ステップを踏むように歩いていく。絨毯の上を下駄で歩く姿はなんとも滑稽に見えた。呆然とするこちらに伊津奈は答えた。

「そこも含めて、聖さまはアリアちゃんにお話してくれます。だからそれまで取っておいてくださいねっ」

 にっこりと含み笑いを浮かべている。

「…………」

 アリアは返す言葉が思い浮かず、どうしようもなく心中がもやもやとして穏やかではなくなった。


 ***


 エインズワース邸を抜け出してやって来たのは、邸宅のすぐそばにある路地裏だった。

 先を行く聖は足を止めて、伊津奈とアリアを振り返る。眉尻を下げて困った顔は部屋を出たときと変わらなかったが、アリアはその表情が切なく見えて胸に手を当てた。ついて来てはいけなかったのだろうか、と不安になる。自然に、日傘を持つ手が強張った。

「それじゃあ、改めて自己紹介」

 やがて聖は蘭服の胸ポケットから紙片を取り出した。梵字が書かれたそれは当然アリアには読めない。と、同時に側にいた伊津奈が一歩前に出た。彼女は相変わらず笑顔を崩さずに、こちらにひらひらと手を振ってきた。

「アリアちゃん、絶対に驚かないでね?」

 動物の耳と尾が生えた少女にそんなことを言われた。これ以上驚くようなことが起こるのだろうか。アリアが苦笑いを浮かべると、伊津奈は真っ直ぐと顔を上げる。そして、己の体を抱くように両肩に手を乗せたそのとき。

 ポンッ、と拍子抜けた音が伊津奈から響き、彼女の体は白煙に包まれた。

「えっ……!?」

 目を見開き、アリアは煙をまじまじと見つめる。煙はすぐに薄れて、伊津奈のシルエットを映し出す。しかしそこには伊津奈の姿はなく……。

「…………キツネ?」

 地面にちょこんと座るのは黄色い子狐である。ぶるぶると体を震わせてから、大きく丸い琥珀色の瞳がこちらを見上げる。小さくて可愛らしいその姿にアリアは目を輝かせた。

「カワイイ……」

 自らも腰を下ろして子狐の頭を撫でてやる。子狐は嬉しそうに目を細めて、キュっと鳴いた。

「アリアちゃんの手、柔らかくて気持ちいいよー」

「へっ?」

 子狐が喋った。しかもそれは伊津奈の声であった。

 びっくりして手を止めると、頭上からくすくすと笑い声が聞こえた。顔を上げてみやれば聖が肩を揺らして笑っている。アリアは恥ずかしくなって口を尖らせる。

「どこか可笑しいところでも?」

「いやごめん。やっぱ、そういう反応するんだなって予想通りだったから……ははっ」

「む……、説明してよっ」

 困った様子の彼であったが、笑顔が見られて正直嬉しい。しかし今の発言は聞き捨てならない。アリアは照れ隠しのように刺々しく促し、子狐を抱きかかえた。

 聖は笑みを浮かべたまま、口を開く。

「伊津奈は、俺の式神で妖狐なんだ」

「シ、シキガミ? ヨーコ……?」

 初めて聞く日本語だったため、アリアは首を捻った。すると聖も考えるように虚空を見上げる。

「うーん、……式神は使用人みたいなものかな。簡単に言っちゃえば使い魔なんだけど、それじゃあ通じないだろ?」

「使用人……」

 アリアはヒルダや侍女を思い浮かべて、胸の中にいる子狐を見つめた。

 聖は説明を続ける。

「妖狐っていうのは、西洋で言うモンスターとかゴーストの類でいいと思うんだけど……」

「日本語ではなんて言うの?」

「あやかし。妖怪とか」

「アヤカシ……」

「つまり伊津奈は狐のあやかしなんだ」

「狐……ヨウコ……」

 呟くと、子狐である伊津奈が元気よく鳴く。

「聖さまのおっしゃる通りです。その証拠に尻尾が二本ありませんか?」

「あ、ほんとだ……」

 アリアの腕の中で伊津奈は尾をふりふりさせた。確かに尾は二本生えていて、普通の狐ではあり得ない姿だろう。

「伊津奈はもともと尾崎狐オサキっていうあやかしの一種で、一番有名な話は帝をたぶらかしたことかな……。まぁ、伊津奈はまだ幼くて尾が二本しかないし、俺が制御してるから悪霊にはならないよ」

「へぇー」

 聖の説明は難しくてほとんど聞いていなかった。

 アリアは興味津々で伊津奈を見つめる。

 やはり、ニッポンは不思議な国である。上海シャンハイよりも魔都まとではないだろうか。このような生き物がニッポンには太古の昔から存在し、人間と併存している。アリアはますます十文字聖という日本人に興味を持った。

「わかってもらえた? 伊津奈は式神なだけだから」

 聖がこちらに微笑んでから、狐の伊津奈に言う。

「戻っていいぞ、伊津奈」

「それは護符の中ですか。それとも人化していいんですか?」

「俺としては護符に戻って来てほしい」

「護符の中もこの姿も窮屈なので、ヒトになりますねー?」

「勝手にしろ……」

 聖は疲れたように答えて、指に挟んだ紙片をポケットに戻した。それから伊津奈はひょいとアリアの拘束を逃れ、地面に降り立つ。伊津奈がぐっと伸びをした瞬間、再びポンッと抜けた音とともに、彼女の体が煙に包まれた。

「ふぅ……。やっぱこっちだよね!」

 そして元気よく現れたのは人の姿をした伊津奈であった。相変わらず耳と尾は生えており、奇抜な和服を着ていた。

 伊津奈はくるりとアリアに向き直り、笑顔を見せる。

「アリアちゃん、わかった? あたしの正体?」

「まぁ、一応……」

 正直よくわかっていないが、これ以上聞いても余計わからなくなるだろう。アリアは眉をひそめつつ頷いた。すると伊津奈は形の良い胸を張る。

「あたしは聖さまの従者みたいなものなの。だから聖さまには絶対服従なの。どんな命令でもあたしは聖さまのためならやり遂げるよっ。たとえそれが夜伽の相手だっとし――アタッ!」

 途端に、彼女の頭に拳骨が降った。拳を振り下ろした張本人である聖は眉間にしわを寄せて、唸っていた。

「少し黙ってろ、お前は」

「ぼ、暴力反対ですー」

 耳を折れ曲げて、伊津奈は頭をさすりながら涙目になるが、聖は苛立たしげにため息をく。

「ほんといい加減にしろよ、ったく……」

「それじゃあお出しください。いくらでも相手になりますよー?」

「冗談でも人前でそういうこと言うのはやめろ」

「結構本気なんですけどなぁ」

 乱れた髪を整えながらぼやく伊津奈に聖は再度ため息をいた。そしてアリアに目をやり、彼女の表情を窺って安堵した。

「今の日本語はわかってないな。……よし」

「何? 何か隠し事?」

 確かにアリアは先の伊津奈の発言に一部理解できない言葉が出てきた。アリアは聖をジト目で睨むが、聖は笑顔で取り繕った。

「なんでもないよ。……それより」

 話は流され、聖は硬い声音で言った。

「今回は、誰が来てるんだ?」

 それに答えるのはもちろん伊津奈だ。彼女は聖に近寄り、耳元でささやく。アリアは聞き逃さないように、半歩だけ聖に寄って耳を傾けた。

「間違いなく司さまです。あちらを……」

 伊津奈は空を指し示す。動く腕につられてアリアも聖も首を持ち上げた。

 そこは煉瓦造りの建物の天辺。狭い小路に差し込む陽光に逆行してよく見えなかったが、シルエットから見るに鳥だとわかった。鳶や鷹の類か、かなり大きい。

「八咫烏か……厄介だな」

 聖は目を眇めた。

「どういたしますか?」

「決まってる」

 即座に回答した聖の声音は強い決意が秘められていた。

 何を話しているのかわからない。アリアは顔をしかめて聖の横顔を眺める。すると彼はにっこりと笑ってこちらを振り返った。その笑みはどこか冷めている。

「アリア。先に帰っててくれる?」

「いいけど、……どこ行くの? 私も行っていいかしら」

 陰陽師という存在にますます興味を持ったアリアはそう提案する。それにこのまま別れるのもなんだか気に食わない。

「駄目だ」

 聖は鬼気迫る様子で断言した。

 眉間にしわを寄せて鋭い目つきをした聖。そんな彼にアリアは驚いて掠れた声で理由を訊く。

「どうして、駄目なの」

「危ないからに決まってる」

 聖は吐き捨てるように言い、身を翻す。

「絶対について来るな」

「セイ……?」

 恐怖を感じるほどに冷徹な聖にアリアは戸惑う。視界の端で、伊津奈が困ったような表情をしていたが、やがて主人に付き従う。アリアに両手を合わせて「ごめんね」と小さく謝罪した。

 路地の奥――暗い闇に消える聖と伊津奈。それはどこか遠くへ行ってしまうように感じて、二度と会えないように思えた。

 何か会話をしなければ……、アリアは考えるより先に歩を進める。何か言い繕うとしたとき、足音に気づいた聖が舌打ちした。

「ついて来るなって言ってるだろ」

 苛立った声が足を竦ませる。だけどアリアはぐっと息を飲んで、彼の背中に言った。

「私は知りたいの……。陰陽師のこと、あなたのこと」

「興味本位で知りたがるものじゃないよ」

「だったらせめて理由だけ教えて。どうしてついて行っちゃ駄目なの? どうして危ないの? 教えてよ、セイ……」

 そのとき聖が振り返った。厳しく目を細めて、苦虫を噛み潰したような、苦り切った表情をしている。

「君はそそっかしいんだ」

「……え?」

 アリアは目を瞬く。耳に届いた声は異様に冷たく、焦ったように聞こえた。聖は苛立った様子で、がしがしと強く髪を掻きむしる。

「アリア、君は他人ひとよりも霊感が強い」

 それはいつの日か聞いた日本語だ。

「刀の霊魂も猫の亡魂も、伊津奈だってすぐに視認できた。普通の人ならできないことなんだ」

 彼が何を伝えたいのかわからない。首を傾げていると、聖は掻きむしる手を止めて力強く言い放った。

「だから俺は君を守りたい」

「……よく、わからないわ」

 口にするが聖は口を閉じることをしなかった。

「君は、彼岸に近いんだ。霊が見えるってことはそういうことで、いつか君が連れ去られると思ってしまう」

「連れ去られる?」

「彼岸っていうのはあの世のこと。死の世界、その場所。……西洋じゃなんていうか知らないけど」

「それは……死ぬってこと?」

 思わず唾を飲み込むと、聖は何も無い地面に目をやった。

「生きている人間を連れ去る亡魂やあやかしもいるんだよ……」

 だがそれも一瞬で、聖は真っ直ぐとこちらを見つめる。先ほどの冷たい雰囲気とは裏腹に、彼の瞳の色は暖かく、輝くように澄んでいた。

「だから俺は、君を守りたい。ここに居られる限り……」

 そして淡く微笑む。

「だから……、帰りを待っててくれないか?」

 初夏の、温い風が路地を吹き抜ける。

 聖はアリアが答えるまで待っていてくれている。哀しげな笑みを浮かべたままこちらから絶対視線を外さなかった。

「……」

 しかしアリアは目を逸らしてしまう。

 彼がこんなにも自分を思ってくれたことがすごく嬉しかった。でも、それと同時にアリアは悲しくなった。これ以上彼と付き合ってはいけない、彼に干渉してはいけない。一緒に暮らしているのに彼との隔たりは、底が見えない谷のように深く感じる。

 だけどそれでも、アリアは彼のことをもっと知りたいし、もっと仲良くなりたい。せっかく、この極東の地で出会えた友人なのだから……。アリアは顔を引き締めて震える唇を動かした。

「ま、守ってくれるんでしょ」

「は……?」

 聖が思いっきり目を見開く。

「今言ったじゃない、私を守るって……。だったら私は怖くない。セイが側に居てくれるならなんでもいい」

「何言って……」

 この場凌ぎでもいい。戸惑う聖にアリアは精一杯に言葉を繕った。

「危ない目なら以前合ったし、危険は慣れてるよ。清国なんて日本より治安悪かったんだから。……それにセイは、嘘()かないでしょ。絶対に私のこと、守ってくれるんでしょ?」

「当たり前だ、二言はない」

 聖は毅然とした態度で即答した。アリアはその答えに頬を綻ばせ、聖の手を取る。真っ直ぐと彼の漆黒の瞳を見つめて微笑んだ。

「それなら、よろしくね?」

「…………」

 聖はぱちぱちと幾度も目をしばたたかせ、まじまじと自分の掌に重なる白く小さい掌を見つめている。聖の困惑した表情は変わらないが、その唇が何か言葉を紡ごうと震えて、吐息のような笑みが零れた。

「アリアには……敵わないな」

「聖さま……」

 そのとき、伊津奈が思わずと言ったように主人を呼んだ。驚いた顔をする彼女に聖は一瞥して、再びアリアに向き直った。

「いいの?」

 アリアも驚いている。断られる覚悟で言い募ったのだ。それでも彼は了承してくれた。アリアはほっと力が抜けて、呟くように礼を言った。

「ありがとう……」

「だけど条件がある」

「条件?」

 聖は人差し指を立てる。

「俺の側を離れないこと。俺の背後にいること。これだけは守ってほしい」

「うん。約束する」

「じゃあ、行こうか」

 聖に手を差し伸べられて、アリアは素直に受け取った。


「聖さま。よろしいんですか」

 すると、伊津奈が聖の耳元でささやいた。どこか棘のある声音の彼女は続ける。

「彼女は普通の女の子じゃないですか。これ以上、巻き込んだら……」

「大丈夫だよ。俺は約束したし、それに司に会うだけだからそこまで危険じゃないと思う」

 素っ気なく答えると、伊津奈は複雑そうに眉尻を下げた。

「……アリアちゃんには優しいんですね」

「あ? なんだって?」

 振り返ると、伊津奈は慌てたように両手を前に出して、早口で言った。

「あ、えっ! べ、別に嫉妬とかやきもちとかしてませんからねっ!」

「いや、何も聞いていないけど……」

 聖の答えに伊津奈はハッとして、むーっと頬を膨らませる。

「聖さまは卑怯です」

「なんでだよ……」

 聖がぼやくと伊津奈はふんと可愛らしく鼻を鳴らしてそっぽを向く。

「ただ優しいなって思っただけですからっ、それ以上の意味はありませんからねっ」

 珍しく狼狽する彼女は新鮮であったため、聖はくすりと笑った。




 2015年8月28日:誤字修正

 2015年8月30日:誤字修正

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