1.
* * *
飢えていた。
極東の島国に来て数日。四肢は鉛のように重たい。コツコツと廊下を鳴らす靴がすごく耳障りだ。飢餓は真綿で首を絞めるような頭痛を間断なくもたらしてくる。
なにより彼の焦燥を焦がしたのは渇きだった。
からからに干上がった喉は水を飲むだけでは満たされない。これは自身の本能が求めるもの。爛々と輝く双眸は血眼になってそれを探す。狂おしいほど愛しい、豊潤で甘美なものを。
「あぁ……」
彼は壁にずりずりともたれながら、床に座り込んだ。窓からは煌々と大地を照らす月が見える。真っ黒の雲の合間から見える青白い三日月が綺麗に浮かんでいた。
「およそ三百年ぶりですか、ジパングは」
* * *
グレゴリウス暦にして、暦は六月に入った。
日本では明治五年の十二月から太陽暦が採用されているため、明治十一年の今ではすっかりと西洋諸国と同じ暦となっている。
それにしても、日本のこの時期は気温が高い。
日本で「梅雨」と呼ばれる季節は雨が多い。そのおかげか湿度も高い。ヨーロッパでは考えられない湿度の高さで、本国も雨は多いほうだがこんなに気温も湿度も高くはない。日本人である知人の十文字聖曰く、これからもっと暑くなると言う。こういうとき、日本語では「ジメジメ」、「ムシムシ」というらしい。
「暑い……」
私室の小さな丸い卓と椅子。卓の上にはティーセットが並んでいたが、室内にいる全員が手をつけようとしない。一番初めに淹れた紅茶はすでに冷め切っていて放置されたままだった。
その卓に、アリア・エインズワースはぐでっと力尽きたように突っ伏した。
櫛の通った美しい金髪。ぱっちりとした大きな青色の瞳。少しあどけない容貌は可愛らしく、見目麗しい。
しかし今のアリアはうんざりとした様子で卓に頬を擦りつけていた。
「お嬢様、はしたないです。しゃきっとしてください」
それに目くじらを立てるのは側に控える女性だ。
名はヒルダ・キンドリー。アリアの世話役を担っている。スーツ姿の彼女は栗色の長髪を後頭部で一つに束ねており、毅然とした表情でアリアをたしなめる。
アリアは首だけを動かしてヒルダに文句を言った。
「だって暑いもん。ヒルダは暑くない、そんな恰好して?」
彼女は長袖のシャツにネクタイをきちんとしている。ネクタイを緩めることもシャツの袖をまくることもしていない。なのに汗一つかいていないのだ。薄手のドレスを着ているといえ、アリアにしてみれば恨めしかった。
しかしヒルダは肩をすくめて、にっと唇で弧を描く。
「正装ですので崩すことなんてできません。確かに本国に比べれば暑いですが」
「やっぱり日本は暑い? アリア」
そう言うのはこの部屋にいるもう一人の人物。アリアの正面の椅子に座る男性。
少し癖のある黒髪。それと同じ色をした漆黒の瞳。のっぺりとした顔立ちはなかなか精悍で格好良い。アリアとヒルダとは国籍も人種も違う彼。
十文字聖はにっこりと笑ってこちらへ目を向けた。
「でも、こんなの大したことないよ。京都はもっと暑いからさ」
「えー、嘘だぁ……」
「京都は盆地だからね」
「ボンチ……」
アリアはそのままの態勢でぼんやりと呟く。日本語はまだ完璧にマスター出来ていない。聖の言葉もたまにわからないこともある。ちなみにヒルダはいまだに勉強中である。
「これから夏になるんだから暑くなるのは当然。ヨーロッパは四季がないの?」
「季節のこと? うーん、イングランドは一年中同じような気温だよ。地中海側はすごく暖かいけど」
「そうか……。だったら慣れたほうがいいよ、日本にいるなら」
「難しいよ~」
「お嬢様……!」
卓の下で脚をぱたぱた動かすとヒルダがまた、何か文句を垂れていた。アリアは完全に彼女を無視して、窓のほうを眺める。
外は灰色の曇り空が広がっており、日中なのに暗く感じた。
ここは神戸の外国人居留地。
西暦は一八七八年。幕末の動乱を終えた日本は明治の世に入りちょうど十一年が経ち、日本は安定期を迎え始めていた。
異国との貿易のおかげで神戸の町は大きく発展している。
人や物、技術などたくさんの品々が日本に輸入され、商売をする外国人などが滞在するようになった。エインズワース家もその一つで、アリアの父親は日本で商いをすることを先月に決めた。
それにアリアはついて来たのだった。理由はごく単純。体の内から溢れる探求心を埋めたい。ただそれだけ。
それと、もう一つ……。
「……」
ちらりと目の前の聖を見やる。
日本に来て、アリアは不思議な体験をした。
商売品の“打刀”に殺されかけ、聖に助けてもらったのだ。あの記憶はアリアと聖しか知らない。たぶん、話しても誰も信じてくれない。
聖は自らを「陰陽師」と名乗った。それがどのような職業かはいまだわからない。調べてみたら占い師のようなものだったが、よくわからなかった。
だけど彼がどんな人物だと関係ない。聖がエインズワースの邸宅にいてくれるだけで嬉しいのだ。また、あのような経験――殺されたくはないが――できるかもしれない。
言うならば、“人ならざる者”との邂逅を望む。
東洋の島国に来て、もうすぐ一ヶ月。
アリア・エインズワースは日本の暑さに戸惑いながらもそう思った。
***
「そう言えば。……アナタ、洋服着ないのか?」
会話がふと切れた拍子にヒルダが口にした。
物思いをやめて、アリアは体を起こした。見上げるとヒルダが拙い日本語で聖に問いかけていたのだった。
「洋服?」
すると聖は不思議そうに首を傾げ、自分の服装を見つめた。アリアもすっと視線を彼の胸元へと下げる。
「言われてみれば……」
今日の聖は和服を着ていた。紺色に染色された衣服。襟元で互い違いに合わせられ、腰のあたりを布で締めている。中は何も着ていない様子。鎖骨が浮いているのが少し見えた。
じっと彼の浮き出た鎖骨を眺めていると、聖が苦笑した。
「ヒルダさんみたいにこだわりはないし、まぁ、シャツって着にくいんだよな。やっぱり日本人なら着ないとね。あとシャツより涼しい」
「えっ、涼しいのっ?」
がたっと音を立てて椅子から立ち上がったこちらに、聖は穏やかに微笑む。
「蒸し暑い気候だから工夫されるのは当然。ほら、西洋は寒いから石造りの家が多いんだろ?」
「ふむ、確かに……」
国によって気候も人柄も異なる。ならば日本に滞在するなら、日本人らしく振る舞うことが必要か? だとしたらまずは外面、つまり服装から。
「セイ。服、貸してくれない?」
「これは男用だから、アリアは女物着ないとね」
「女性用……」
「うん、小袖って言うんだけど」
彼が頷くと同時にアリアはヒルダを振り返った。
するとヒルダは露骨に顔をしかめていた。アリアは口を尖らせる。
「なんで嫌そうな顔してるのよ」
「だって、無茶な要求をされそうだもん……」
「どうしてわかっちゃうの?」
「いつも言ってるでしょうが!」
ヒルダが悲痛の声を上げるが、どうだっていい。アリアはすぐさま注文した。
「着物が欲しい。お父様に言えば頼んでもらえるかな?」
「別にニッポンの服を着なくても、良いのではないのですか?」
相変わらず保守的なヒルダにアリアは肩をすくめる。
「だってドレス暑いし、着物は涼しいってセイが言ったよ。ていうか、神戸に着物屋さんあったっけ?」
「それは……調べてみないとわかりませんが」
ヒルダが困ったように眉を下げると、聖がやんわりと口を挟んだ。
「じゃあ、呉服屋紹介しようか?」
「ゴフクヤ?」
「着物屋さん。呉服屋の知り合いがいるから仕立ててくれると思うよ。神戸に来てくれるよう、文も書こうか」
「いいのっ!?」
「お世話になってるんだから協力するよ」
「ありがとう!」
微笑む彼に礼を言うと、ヒルダが眉間にしわを刻んで聖を睨みつけていた。
その視線に気づいた聖は微笑みを崩さずに提案する。
「ヒルダさんもどう? 小袖」
「私はいらない。そんなひらひらした服なんて……」
「えー、いいじゃん。似合いそうだし、可愛いと思うよ?」
「かっ、可愛い、ですか……」
「うんうん」
「カワイイ……」
さきほどの不機嫌な様子は嘘のように消えた。ヒルダは何も無い天井を見上げてもう一度呟く。唇に指を当ててぼーっと口を開ける姿はあどけなく、すごく可愛らしかった。
「ヒルダは可愛いよ!」
「ひゃっ! な、何するんですかお嬢様!?」
思わず抱きしめてしまう。顔を真っ赤にして狼狽えるヒルダに構わず、アリアは彼女の豊かな胸元に顔を埋めた。すごく柔らかい。ぐりぐりと額を擦りつけるとヒルダが拘束から逃れようとする。それが面白いし、本気で邪険にしないあたり、彼女らしかった。
しばし無為な攻防を続けていると、ごほんと大きな咳払いが聞こえた。
振り返ると聖が気恥ずかしそうにちらちらと二人を見ている。
「そういうのは、俺のいないところでお願いします」
「へっ?」
きょとんと首を傾げるアリアとは対照的にヒルダは赤面したまま泡を食った。
「なっ、何をじろじろ見てるんだおまえは!」
「え? 何?」
英語がわからない聖は困ったような顔をする。ヒルダは慌ててアリアから距離を取り、大きく深呼吸をする。しかしアリアは彼女の様子など気にもしない。今度は聖に向き直り、にこやかに言う。
「ヒルダのものもお願いしよ?」
「うん。あ、小袖もいいけど暑い季節だから浴衣がいいかもしれないな」
「ユカタ……なんだか良い響きっ。早速頼みに行こう!」
「あっ、お待ちくださいお嬢様!」
「相談するなら俺もいるでしょ」
軽やかな足取りで部屋を出て行くアリアの後ろから、ヒルダと聖がついて来る。
アリアは三人でいるこのひと時がすごく楽しかった。
2015年8月26日:誤字修正
2015年8月30日:誤字修正